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8.妖精の森のラピス

 ハニエ家の朝は早い。
 まだ夜も明け切らぬ時間から、台所には小さな明かりが灯り、かまどからは穏やかな香りが立ち上っている。住み込みの助手も数人いるし、朝の準備は早くからする必要があるにはあるのだが、本来ならここまで早く動き出す必要はない。
 ただ、彼女たちの暮らす農耕都市が刻む時間に合わせれば、自然とこうなってしまうのだ。
「おはよう! ママ!」
 そんな台所に姿を見せたのは、異世界から戻ってきたばかりの一人娘。
「あら、ファファ。まだ寝てて良いのに」
「うーん……なんていうか、いつもこの時間に起きてるから……」
 四月朔日の道場の朝も、ファファの実家と大差ない。そちらのペースに慣れてしまえば、自然とこの時間には目が覚めてしまうのだ。
「そう。冬奈さんのおうちでは、ちゃんとお手伝い出来ているの?」
 ホームステイ先が決まったのは、華が丘へ渡航した後だった。もちろん事前の説明で理解してはいたが、肝心の連絡が届いたのは渡航して一週間以上も過ぎた後。
 その大まかな事情……パートナー決定のための合宿をしていたのだという……も手紙に書いてはあったから、何事もなかったのだと、ほっと胸をなで下ろしたものだが……。
「もぅ……大丈夫だよう」
「ならいいけど……」
 心配の種の尽きぬ母親に、さすがのファファも苦笑い。
「そういえば、冬奈ちゃんは?」
 目が覚めたとき、パートナーの姿はベッドの中から消えていた。こちらもいつもの事だから、大体は予想が付くのだが……。
「朝の訓練をしたいと言っていたから、森の広場を案内しておいたのだけれど……。そろそろご飯も出来るから、呼んできてくれるかしら?」
 案の定だ。
「そうだ。森の小屋は今、人が泊まってるから近付かないようにね」
「うん! わかった!」
 母親の言葉に頷きを返し、ファファは家の裏に広がる森の入口へ向かうべく、台所を後にする。


 差し込む朝日は、華が丘もメガ・ラニカも変わりない。
「七時……か」
 枕元に置かれた腕時計を確かめて、祐希はゆっくりとその身を起こした。
 腕時計など普段は使わないが、携帯の電源を入れっぱなしにしておけない異境の地では、その駆動時間の長さが大きな武器になる。
 天蓋付きの豪奢なベッドからもそもそと抜け出すと、この日のために続きの間に改築されたという、キースリンの部屋へ。
「失礼します……」
 改築したと言えば大袈裟だが、魔法のおかげで作業時間は一時間とかからなかったらしい。もちろん祐希が帰った後には、同じ魔法で壁に戻されるのだそうだ。
「キースリンさん、そろそろ起きる時間ですよ……?」
 華が丘で彼女を起こすのは、祐希の役目だった。
 もちろん、彼女が同性だからこそ出来ることではあるのだが……。
「ん……」
「ほら、キースリンさんってば」
 細い肩を軽く揺すれば、キースリンは口の中でもごもごと何か呟いて、うずくまっていたその身をころりと転がらせる。
 大きく振られた細い手が、掛けられていたシーツを跳ね飛ばし。
「…………え?」
 その内にあるのは、寝間着に身を包んだキースリンの細い肢体。
 寝起きの悪いキースリンだから、華が丘でもちょくちょく目にする光景……の、はずだった。
「…………」
 だが、そこにあるのは、まごう事なき少女の肢体。
 しどけなくはだけられた胸元からは、程良く膨らんだ女の子の双丘が、その薄桃の切っ先を覗かせていて………。
「…………………………………っ!」
 響くのは、何かが床の上に崩れ落ちる、どさりという音だ。
「んぅ………朝、ですの……?」
 それと入れ替わるように、半裸の少女は物憂げに身を起こし。
 眠い目を数度こすって、あたりをぐるりと見回した。
「あら……?」
 最初に気付いたのは、ベッドサイドに置かれた小さな瓶の姿。
 中に入っていた透明な液体は、まだ三分の二は残っていたはずなのに……今では三分の一ほどになっている。
「まあ……水と間違えて、飲んでしまったのですわね……」
 胸元を見れば、ちょうど薬の効果が切れた所らしく、女の子のそれから、男のそれへ戻ろうとする所だった。今日も一度試してみようと思っていたから、問題ないと言えば問題ないのだが……。
 何となく、残念な気がしないでもない。
「あら?」
 そして、彼女はようやく気が付いた。
「祐希さん。そんな所で寝ていると、風邪を引いてしまいますわよ?」
 彼女の部屋の床で気を失っている、大切なパートナーの姿に。


 小さな森に、裂帛の気合が木霊する。
 嵐の如く渦巻く円運動から、一点突破の直線へ。飛び散る汗がその勢いを失うよりもはるかに迅く、少女が描くのは次の動き。
 八角形に刻まれた六尺棒を手足のように扱いながら、少女は森の中を縦横に舞い踊る。
「……っ!」
 その動きが止まったのは、判断ではなく反射に近い。
 手近な茂みに身を隠し、六尺棒をストラップへと引き戻す。戦闘となれば心強い相棒だったが、隠密行動には少々場所を取りすぎた。
 耳を打つのは、少女にも劣らぬ鋭い気合。
 続く大気を斬る音は、戦棍のように鋭く迅い音ではなく、ある程度の速度を持った重量物が空を駆け抜ける、おぅん、という籠もる音。
 ファファの母親からは、森の中にある小屋に入院している患者がいると聞かされていた。
 だが、入院するような患者は、武器の素振りなどしない。
「誰か……いるの?」
 冬奈の放つ誰に向けてでもない呟きに来た答えは、頭上から。
「誰だ、あんた」
「っ!」
 弾かれたように距離を取り、瞬時にレリックを起動させる。
 樹上で腰を落とすのは、同い年くらいの少年だった。
 身ほどもある大剣を苦もなく肩に負い、こちらをじっと見据えている。
「棍使いか……。なああんた。一人で稽古するのも飽き飽きしてたんだ。……良かったら、ちょっと相手してくれねえか?」


 ぎしぎしと鳴る古い階段を降りれば、漂ってくるのは小麦とチーズの嗅ぎ飽きた匂い。
「おはよう、母さん」
 言うなり、背中の痛みに顔をしかめるハーク。
 いつも晶の家では床の上で寝ていたから、物置の板の間でも問題ないだろうと思っていたが……それは早計だったと思い知る。
 今思えば、晶の部屋に敷かれている厚手のラグが、良い具合にハークの布団代わりになっていたのだろう。ゴールデンウィーク明けに買いに連れ出された時は何事かと思ったが……そこまで考えて、その先はいくらなんでも考えすぎだろうと思考を中断させる。
「おはよう。早速で悪いけど、ヤギの乳を搾ってきてくれないかしら?」
「いいけど………晶ちゃんは?」
 そこまで答えて、乳搾りを手伝ってもらおうと思った少女の姿がない事に気が付いた。
 部屋でまだ寝ているなら、起こしに二階へ戻らなければならない。
「さあ? ちょっと出かけてくるって言ってたけど」
 母親の言葉に、少年は耳を疑った。
 慌てて自分の部屋に戻り、机の上に置きっぱなしになっていた魔法携帯を引っ掴む。電源を入れるのももどかしく、ストラップになっているレリックを直接掴み、魔力を送り込む。
「ちょっと、ハーキマー?」
 窓から踏み出せば、玄関からちょうど母親が姿を見せた所だった。
「ボクもちょっと出かけてくる!」
 跳躍と同時に片手に提げていたバッグを展開。黒い翼をはためかせ、同時に背中に引っ掛け直す。
「ちょっと出かけてくるって……」
 晶がこの村に着いたのは、昨日の夕方だ。そのまま母親とすぐ家に帰ったから、一度も村を歩いてはいない。
 土地勘のない所を歩くのを怖がるような可愛げのある性格ではないが、この村を散策する気なら、土地勘のあるハークを叩き起こしてでも連れ出すだろう。そしてハークが止めるのも聞かず、無茶なところに足を踏み入れるに違いない。
 そういう性格なのは、今までの半年で理解済みだ。
「どこまで行く気なんだよ。晶ちゃんは!」
 ハークの村は気流が強い。
 だが長くこの村に住んでいれば、その気流を読んだ上で飛行することくらい、出来るようになるのだ。


 振り下ろされる大剣を紙一重にかわしつつ、冬奈は己の背筋に冷たい物が走るのを感じていた。
(こいつ……何なの……!?)
 強いか弱いかで言われれば、強い部類に入るだろう。剣技の腕は我流に近い荒削りなものだが、見かけ以上に戦い慣れしているらしく、冬奈の鋭い動きにも後れを取る様子がない。
 だが、冬奈が息を呑んだのはそこではない。
 冬奈より強い相手などごまんといるし、彼女の家にも彼女より強い相手は母親を筆頭に事欠かない。
(私の動きを……知ってる……?)
 そう。
 冬奈の動き……いや、四月朔日の流派の動きを、明らかに知っている。
(押されてる……この、あたしが……!?)
 自分の流派を卑下するわけではないが、こんなメガ・ラニカの隅で流派の動きをここまで知っている者がいるはずがない。
 不可解な事態に混乱すれば、呼吸は乱れる。
 そうなれば、隙が生まれる。
 そんな不可解な少年の動きが止まったのは、冬奈の読みを基準とすれば、決定打の出る三手前だ。
「ランドさん……?」
 森の奥から姿を見せた小柄な少女の、儚げな声。
「ラピス! 寝てろって言ったろ?」
「ごめんなさい。でも、何だか戦ってるような音が聞こえたから……大丈夫?」
 どうやら少年の名は、ランドというらしい。構えていた大剣をペンダントに戻し、ラピスと呼んだ少女の元へ走り寄る。
 このラピスという娘が、奥の離れにいるという入院患者なのだろう。
 いや、病人というその表現が正しいかどうかは、少々微妙なところだったが……。
「ちょっと稽古してただけだよ。安心して」
 不安そうな顔をしている少女を安心させるようにそう言った所に、がさがさと茂みの揺れる音が響く。
「ああ、ファファ。どうしたの?」
 そこから顔を出したのは、ファファだった。
「うん。ご飯の準備が出来たから、呼びに来たんだけど……大きな音がしてたから。この人達は?」
 ファファの知る限り、裏の森には動物たちしか住んでいないはず。冬奈のことだから、何か大きな動物を相手に戦ってでもいるのかと思ったのだが。
「奥の離れで、入院してる人らしいよ」
「そうなんだ。あれ? あなた……」
 そしてラピスの体の状態に、ファファもすぐに気が付いた。
「赤ちゃんが、いるの?」
 ファファ達と近しい年の少女のお腹が、体のバランスに比べて不自然な膨らみを見せていることを。


続劇

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