痛いほどの茜色が、瞳の中へと飛び込んできた。 「ン…………」 ゆっくりと身を起こせば、小さく細い体の上から、茜色に染まったシーツがはらりとこぼれ落ちる。 「ここ……は?」 薬の入った棚に、隅に寄せられた身長計。ベッドの周りを囲む白いカーテンも、今この時間だけは夕焼けの茜に染められている。 保健室だ。 「柚ちゃん……葵ちゃん……良かった」 並ぶベッドに眠るのは、親友である葵と柚子。どちらも深い眠りに就いているのか、少女が身を起こしても目を覚ます気配はない。 そこに、声。 「ようやくお目覚めか」 半ばまで開いた窓枠に身を乗せる、猫に似た小さな姿。普段は白いそいつの姿も、夕陽を浴びて茜色だ。 もちろん、人の言葉を話す猫などいない。 いるはずがない。 「……ニャウ。あたし」 けれど少女は驚きもせず、猫の言葉に目を伏せるだけ。彼女の気分を写しているのか、頭の両サイドで結ばれた短い髪も、今は力なくだらりと下がっている。 「やめろって言った理由、分かったか」 全ての記憶は、残っていた。 葵と柚の力で倒せぬ、強大な竜のこと。 その二人を助けるどころか、役にも立たなかったこと。 ルナーの力で竜を倒したこと。 「あたし……ルナーの精霊武装で……」 そして、葵と柚を撃ったこと。 「ありゃ、精霊武装じゃねえ」 「……え?」 猫の言葉に、少女は言葉を失った。 「モータルのホウキと同じ、ただのオマケだ。……それがどういう事か、分かったか?」 「……」 続く言葉など、出るわけもない。 精霊武装すら出せず。 その状態さえ、まともに制御しきれない。 それが、彼女の力……ということなのか。 「ごめんね……」 茜色のシーツを退けて、ベッドから降りる。 木の床の冷たさが、裸足にひやりと伝わってくるが……気にすることもなく二人のもとへ。 「……ごめんね」 並ぶベッドの間に立って。もう一度そう呟いて。 眠り続ける少女たちから取り上げたのは、細い銀の円環だ。 少女の腕には、同じ意匠の腕環が二つ重ねて付けられていた。葵と柚から取り上げたリングも、黙ってそれに重ね合わせる。 「……はいり!」 腕環が一つに戻ったことを確かめて、少女はゆっくり歩み寄る。 窓へと。 「ニャウ。もう一度……結界、張ってくれる?」 保健室の窓から、外を見上げる。 向かいの校舎の屋上で、茜の光を背負って立つは……学生でも教師でもない装束をまとう、細身の姿。 「……トウテツか。くそっ」 猫に似た獣……ニャウの言葉に少女は小さく頷くと、そっと右手をかざしてみせた。 そして。 凛と、世界を変える鈴の音が鳴り響く。 〜華が丘1987〜 leg.6 ふたりきりの決戦 「痛……っ」 少女が目覚めたとき、最初に感じたのは激痛だった。 胸元を打ち付けるような痛み。けれどそれは……意識の覚醒を促しこそすれ、生命活動を停止させる性質を持ってはいない。 「あ、柚……! 気が付いた?」 痛みをこらえて目を開けたなら、そこに映るのはこちらを心配そうに覗き込む、親友の姿。 「葵……ちゃん?」 自分と同じく、紫の戦士に撃たれ消えたはずの……親友の姿。 「葵ちゃんっ!」 感極まって、思わずしがみつく。もちろんその身は柚の腕をすり抜けたりはせず、しっかりと彼女の体を受け止めてくれていた。 「ほら、泣かないの」 いつもなら子供扱いされたとしか思わないあやすような声も、今日ばかりは嬉しくてたまらない。 「だってぇ……。死んじゃったかって……」 肌の温もりと頬の柔らかさ、優しい声と、体操服に染み付いた汗の匂い……その全てが、彼女の死を否定し、夢ではないと教えてくれている。 「ちゃんと生きてるわよ。それより柚、腕」 言われ、ようやく気が付いた。 「あれ……? 鈴が……」 葵の腕と、自分の腕。あるはずの物がそこに無いことに。 葵と並ぶもう一人の親友から託された、大切な腕環が……消えているのだ。 「これって……はいりちゃんが?」 「多分ね……」 そう呟くと同時、ガラガラと保健室の扉が開く。三人分のランドセルを両手に提げた、大柄な青年だ。 「お、やっと気が付いたか」 「先生! はいりは!」 担任教師が問うより早く、葵の声が機先を制す。 「ん? お前達の隣に寝てなかったか?」 どうやらはいりも無事だったらしい。少なくとも、保健室に運び込まれるまでは。 「はいりちゃんも、無事だったんだ……よかったぁ」 「……いいかどうかは、微妙な所だけどね。あのバカ」 はいりの性格は十分に分かっている。彼女が二人が気付くより先に目を覚ましたのなら……腕環を持ってどこかに消えたことは、想像に難くない。 出会ってたった二日の相手を親友と呼び、毎日お見舞いに行くような娘だ。葵と柚を撃ったことを、気にしないわけがない。 「それにしてもお前ら、どこ行ってたんだ?」 教師が問うよりやはり早く。 「先生! はいりの家、知ってる!?」 「お、おう?」 「はいりちゃんの家です!」 「ああ。西町の……」 問われて思わず口にしたのは、商店や看板を基準にした、現場合わせの経路図だ。 「柚、分かる?」 「うん。その辺りなら、行った事あるよ!」 その言葉に頷く事もなく、葵は体操着のままベッドから飛び降りて、保健室を飛び出した。 もちろん柚もそれに続く。 「お、おい、お前ら! 兎叶の家は……!」 教師がドアに辿り着いた頃には、既に二人は校舎を抜けて。 「先生! その話はまた今度っ!」 ギシギシという木造校舎の揺れる音だけが、彼女達の駆け抜けた余韻を残している。 空を裂き、大地を打つのは、大きくしなる鞭の音。 「……くっ!」 たったひと打ちで、木造の保健室は跡形もなく吹き飛んだ。直撃すれば、防御結界に包まれたソニアの戦衣でも無事では済まないだろう。 慌てて隣の校舎に逃げ込むが、鞭の猛威は止まらない。鉄筋校舎の一階をぶち抜けば、自重を支えることの出来なくなった校舎は連鎖的に崩れ出す。 「弱い……なんて弱いの!」 崩壊するコンクリートの雨の中、駆け抜けるのは赤い影。それをめざとく見つけ出し、トウテツは攻めの手を緩めない。 かたやはいりは逃げるだけ。相手の懐にも飛び込めず、かといって遠い間合から攻撃する手段も無いままに……無人の校舎を駆け、間合を取ることしか出来ずにいる。 「なに? 私の魔獣達は、貴方みたいなコに負けたっていうの……?」 現実世界とは隔たられた結界世界の中に、鞭が舞う。 「ハウンドも……」 職員室を吹き飛ばし。 「ハルピュイアも……」 渡り廊下を粉々にして。 「ケルベロスも……コボルトも……」 新造の鉄筋コンクリート校舎の二階と三階を、まとめて真っ二つに。衝撃の余波で貯水タンクが宙を舞い、内に貯められていた水が霧雨となって降りそそぐ。 「レイアも、レウスも!」 飛沫を切り裂く鞭の一打が、体育館と、図書室の入っている旧校舎を横殴りに曳き潰す。 「はいり、やっぱり無理だ! お前一人じゃ、こいつには……っ!」 崩れ、乱れ飛ぶ木材とコンクリート片の中を駆け抜けて、ニャウは絶叫する。 トウテツの力は圧倒に過ぎた。不完全な力しか持たないはいりだけで何とかなる相手ではない。 「大丈夫っ! あたしには、まだ……!」 身の丈ほどのコンクリート片を蹴り飛ばし、拓いた道を突き進む。 はいりは戦意を失わぬ。 右腕に鳴るのは、四つ連なるソニアの鈴だ。 「スペルリリース!」 それをひとつ、凛と鳴らし。 「ダメだ! はいりっ!」 「モータルフォーム!」 ブルームソニアの真っ赤な戦衣が、青の色へと形を変えた。 右手に現れたホウキを掴み、鞭の届かぬ空に向かって飛翔する。 だが。 「来なさい。……朱雀!」 対するトウテツの背中にも、空翔けるための紅い翼が広がるのだった。 田んぼのあぜ道を、二人の少女が走っている。 それも体操服でだ。集団でなら部活動の練習かとも思うだろうが、たった二人では奇異なことこの上ない。 けれど今の少女たちにとっては、そんな問題は些細な事でさえなかった。 「……はぁ、はぁ、はぁ」 「柚、大丈夫?」 既に息を切らせている柚の手を取り、葵は少しだけペースを落とす。 「う、うん……。ありがと、葵ちゃん」 きゅ、と繋がれた葵の手は、これだけ走った後だというのにひんやりと冷たい。心配の重なった悪い汗は、熱くなるはずの体に絡みつき、熱を奪うだけでしかない。 「……柚の手、冷たいね」 自分の体を濡らす汗も、どうやら似たようなもののようだ。 「葵ちゃんもね」 普段なら笑い合う場面だが、そんな余裕はない。その代わり、柚はペースを少しだけ上げた。 「西町なんて、空が飛べればすぐなのに」 「仕方ないよ。ソニアの鈴、きっとはいりちゃんが……」 ソニアの鈴は物理的な力では壊れないと、ニャウが言っていたのを思い出す。コスモレムリアの至宝の一つであるそれは、例えソニアの力を受けたとしても壊れないのだと。 その不滅の鈴がないとすれば、二人が眠っている間にはいりが持ち去ったと考えるのが一番妥当な結論だ。 「分かってるわよ、そのくらい」 柚の手をぎゅっと握りしめ、葵はぽつりと呟いた。 「……あのバカ。見つけたら、ぜったい許さないんだから」 青い流星の前に立ち塞がるのは、紅の翼。 広がる炎の翼が直線に進む流星を包み込み、その焦熱で結界装甲を焼き尽くす。 「きゃあああああっ!」 天翔る流星は、文字通り大地に墜ちる流れ星へと。 ホウキは折られ、軌道を変えることすら叶わない。 「す……スペルリリース! アイゼンフォーム!」 焼け焦げた蒼い法衣を覆い、炎の飛沫を祓うのは、淡い浅黄の輝きだ。無機を司る人工精霊アイゼンの鉄壁の守護は、この程度の落下などものともしない。 鋼の流れ星は大地を穿ち。 「はいりっ!」 「大丈……」 ニャウに答える、ぶ、という言葉は続かない。 天を焦がした炎の翼。朱雀の炎のあったその場所にあるのは……。 「……全てを砕きなさい」 黒い重装に身を包んだ、トウテツの姿。 「玄武!」 叫びと同時、黒い重装に金色の文様が走り抜け、そのパターンを分割線に一気に装甲が展開する。 内側から放たれたのは、数える気力を根こそぎ奪う圧倒数の弾丸の雨。大きな放物線を、あるいは不規則な蛇行軌道を駆け抜けて、全てはブルームソニアのもとへと殺到する。 「間に合わ……ッ!」 回避という言葉は、全くの無意味。 前後左右、上方下方の全てから吹き付ける弾丸の豪雨は、鉄壁を誇るアイゼンフォームの防御を打ち貫き、人工精霊の装甲を端から砕いていく。 「ま、まだ……」 浅黄の装甲がかき消えた後。そこにあるのは赤い戦衣をまとい、ふらついて立つはいりの姿。 「あらあら。寝るのは、早いわよ?」 それをそっと受け止めたのは、白い虎紋をまとう……トウテツだ。 「……っ!」 打ち上げられた膝を腹に受け、赤い戦衣が宙を舞う。 「白虎!」 白い虎紋の袖の先。握られた長いロッドをかかげれば、周囲を駆け抜けるのは無数の白い花びらだ。 否。 花びらのようにも見える、無数の白き虎の爪。 それは、宙を舞う小さな少女のからだを包み込み、容赦なく切り裂き、引き裂いて。 「やめろ……やめろ! 菫ッ!」 大地に墜ちた小さな体は、もはやぴくりとも動かない。絶対守護のソニアの力で、致命傷には至っていないが……。 「結界獣の結界は、ソニアの力が無くなると弾き出されちゃうものねぇ……」 白虎の意匠を元へと戻し、トウテツは黒い爪先にはいりの腹を軽く引っかける。 動かない体をごろりと蹴り転がせば、力の入らない腕がぶらりと揺れて、焦点の定まらない瞳が天を仰ぐ。 「だから、ゆっくり痛めつけてあげる。私の可愛い、あの子達の分まで」 だが。 「う…………あああああああああああああああっ!」 動かぬはずの小さな体が、叫びを放つ。 引き裂かれた赤い戦衣を紫電が走り抜け。 召喚された銃剣を掴む紫の戦衣が、無造作に見下ろしていたトウテツに向けて突き付けられる。 「あら」 より迅く。 「残念ね……青龍!」 ルナーフォームに突き付けられた青い砲口が一片の容赦もない破壊を解き放ち。 旋条を駆け抜ける弾丸ごと、ルナーの銃剣を打ち砕いていた。 「……はいり? 帰っとらんよ」 吐き捨てるようなそれが、男の第一声だった。 「え? はいりちゃん、帰ってないんですか?」 「だから、そう言っとるだろう。ワシ等も忙しいんだから、とっとと帰ってくれるかね」 教師から教えられた場所も、クラス名簿に載っていた住所も、間違いなくその家を示していた。けれど玄関から顔を出したその男は、柚の言葉にうるさそうに手を振ってみせるだけ。 「ちょっと、なんて言いぐさよ!」 とてもはいりの父親だとは思えない。 親友の親を悪く言いたくはないが……少なくとも葵には、この親からはいりのような真っ直ぐ過ぎる娘が育つとは思えなかった。 「それが大人に対する態度かね? まったく、最近の子は躾がなっとらんな」 「……帰ろう、葵ちゃん」 「……ええ」 躾がなってないのはどっちだ……と思いながら、仕方なくはいりの家らしき場所を後にする。 「はいりのヤツ。ウチに他人を連れてくるなと言っておいたのに……」 露骨な舌打ちがひとつして、ぴしゃりと玄関は閉じられた。 「…………何、あいつ!」 あれだけ人懐っこいはいりだが、葵や柚を自分の家に呼んだことは一度もない。色々事情があるのだろうとは思っていたが、その理由の一端が何となくだが分かった気がした。 「……葵ちゃん、気付いてた?」 「何がよ」 心配と苛立ち以外に、思考が回せる気がしない。 少なくとも、今の葵にそんな余裕はありはしない。 「はいりちゃんちの表札、兎叶じゃなかった……」 はいりの家庭の事情は、思った以上に深いのかもしれない。それこそ、子供の自分達が踏み込むべきでは無いほどに。 「……まずは、はいりを探す事から考えましょ」 そう。 まずは、はいり自身を見つけることだ。 家の事情がどうであれ、はいりが葵の親友である事は間違いのない事実なのだから。 「どうやって?」 「それが分かれば苦労しないわよ……」 叫んだ瞬間。 世界が揺れて。 引き裂かれた世界の隙間から、体操服の少女が吐き出されてきた。 「はいり!」 「はいりちゃん!」 力なく上げられた右腕から、弱々しい鈴の音がりんと鳴る。 「……あ、二人とも。大丈夫だったん、だね」 結界服の受けきれる以上のダメージを受け、結界世界から弾き出されたらしい。昼間の戦いで、葵と柚が助かったのも同じ仕掛けなのだろう。 「だったんだねじゃないわよ! ばかっ!」 だが、怪我が無いだけで、無理をした事に変わりはない。汗ばんだ体には体操服が張り付き、上下する胸も浅い呼吸を繰り返す。 抱いた葵を見つめる瞳も疲れ切り、虚ろにこちらを見遣るだけ。 「それより、血が出てる……!」 結界世界から弾かれたとき、口の中を切ったのだろうか。口元から流れた血を、柚はハンカチで拭ってやる。 「大丈夫…だよ。……この、くらい」 葵の腕を優しく払い、ふらつく足で立ち上がろうとして……バランスを崩し、再び葵の腕へと戻る。 「……お前ら!」 「ニャウ!」 こちらも結界世界を抜けてきたのだろう。道の向こうから四つ足で駆けてくるのは、猫によく似た結界獣。 「はいり! こいつらに鈴を! お前一人じゃ、絶対無理だ!」 「やだ!」 だが、力の入らぬ声でなお、はいりはニャウの言葉を否定した。 「また敵なの?」 何があったかなど、聞くまでもない。 「……あら。お友達かしら?」 既に、ニャウとはいりの向こうには、黒い服を着た少女が立っていたのだから。 「この人が……敵?」 歳は柚や葵たちよりは少し上だろう。中学生か、高校生か……そのくらいに見える。 長い黒髪をゆらりと揺らし、艶っぽいとさえ思えるほどの、大人びた笑み。 「トウテツ……あの魔獣どものリーダーのお出ましってワケだ」 「……あの竜も、アイツの部下って事!?」 ニャウの頷きが、それを肯定する。 「そんな……。はいりちゃん、鈴……かして」 昼間の竜でさえ三人が束になって敵わなかったのだ。それさえ従える相手がどれだけ強いかなど……想像するまでもない。 「やだ!」 けれど、柚の言葉もはいりは拒絶。 「もう、みんながケガするの……見たくない」 ふらつく体でゆっくりと立ち上がろうとして、再び葵に抱きとめられる。 「ばかっ! あたしだってアンタがケガする所なんか見たくないわよ!」 三度目は、立ち上がることさえ出来なかった。 葵の腕と。 「最初に言ったでしょ? 一緒に、戦うって」 柚の腕に、抱きしめられて。 「……柚ちゃん」 震えるはいりの右の手に、二人の手のひらがそっと重ね合わさる。 「ダメって言っても、持っていくからね」 背中から抱きすくめ、離さないと誓うように。 「……ごめん」 右手に絡まる葵の細い指は、蕩けるほどに柔らかかった。 「もぅ……」 正面から抱き付き、一人で行くなと願うように。 「ごめん、じゃないでしょ? はいりちゃん」 耳元をくすぐる柚の声が、はいりの心をゆっくり叩く。 「……あり、がと」 かすかな喘ぎに重なるように。 金属の鳴る澄んだ音が、はいりの右手で優しく響く。 「なるほどね。それが、私の可愛いあの子達を倒せた理由……なのね」 重なる三人の手の中で、鈴の音色が凛と鳴る。 「ニャウ!」 「おう!」 力を取り戻したはいりの声で。 彼女達の世界は再び、結界世界に取り込まれた。 |