-Back-

「スイ」
 静かな2人の間に別の声が入ったのは、夕方になってからだった。
「あ、神殿長様」
 やってきたのは一人の老婆。スイが集めた草を運ぶため、車を牽いた牛を一頭連れてき
ている。
 その老婆の足が、止まった。
「……どうされたんですか?」
 不思議そうに首をかしげるスイだったが、神殿長はこちらを見てはいない。彼女の視線
の先にあるのは……
 一龍。
「この様な所に殿方とは……どうされた?」
 スイの知らぬ単語を織り交ぜ、老婆は声をあげた。老いたりとはいえ歌姫の一人。上げ
る声は年を感じさせぬほど鋭く、高い。
「あの……一龍さんにはお手伝いしてもらったんですが……」
「一龍殿と申されるか。ポザネオやルリルラならいざ知らず、この様な辺境に機奏英雄と
は……」
 え?
 スイは耳を疑った。
 機奏英雄。
 歌姫と共に三つの力を束ね、この世界の理とは相容れぬ存在『奇声蟲』と戦う異世界の
戦士達の名。
 その一人が、目の前の巨大な生き物だというのか……。
 けれど、驚く反面、どこか納得もしていた。
 異世界の存在であれば、自分たちと全く違う外見を備えるのもおかしくないではないか。
「……男子禁制か? ここは」
「違う。が、そもそも、このアーカイアに男はおらぬ」
「……アーカイア? 男がいない?」
 一龍の方も不可解な単語に首をかしげているだけ。
「スイ」
「あ、はい」
 ふと神殿長に呼ばれ、スイは意識を戻した。
「一龍殿には何も聞かれて?」
「はい」
 一龍は何も聞こうとしなかった。ただ助けてくれたスイに礼を言い、黙々と仕事を手
伝ってくれただけ。
 だからまさか異世界からの戦士だとは思わなかったのだ。せいぜい、遠い国からやって
きた戦士か、自分達の知識にない幻獣の類と思ったくらいで。
「まあいい。一龍殿。良ければ、今宵は我らの神殿にお泊まり願いたい。この世界のこと、
貴方の役目、説明させていただきたい」
「……頼む」

 その晩、一龍は温泉に浸かって放浪の疲れを癒していた。  このハルフェアという国は温泉が多く、どんな小さな村にでも公衆浴場が最低でも一つ はあるのだそうだ。日本の温泉と違って周囲の視線を阻むための壁がないから、普通に露 天風呂だからという以上の開放感がある。 (異世界の温泉にも温泉はあるんだな)  そんな事を考えながら辺りを見回せば、小高い丘と、それに見下ろされるようにある村 の明かりが見えた。丘の上には巨大な象の飾られた小さな建物……神殿。かつて英雄が 戦った功績を奉じて建てられたのだという。 (英雄……か)  のんびりと、神殿長と呼ばれた老婆の言葉を思い出す。  男のいない異境、アーカイア。  そこを襲った『奇声蟲』と呼ばれる謎の敵対存在。  自分は、それを倒すために自分達の世界から呼び出された『機奏英雄』の一人であると いうこと。  老婆は一龍の出した様々な疑問に丁寧に答え、また新たな謎を呈してくれた。 「異世界……」  ぽつりと呟く。 「あの……一龍さま」  ふと響く、小さな声。 「ん?」  振り返ると、入り口には裸のスイがいた。 「ご一緒して、よろしいでしょうか?」 「ああ」  男のいない世界だから当然とも言えるが、ここには男湯女湯という分類や男の前での羞 恥心といった概念はないらしい。公衆浴場には年齢を問わず女性ばかり入ってきたが、男 である一龍を意識している者は誰一人としていなかった。  スイが遠慮しているのは、ひとえに自分が『機奏英雄』とかいう存在だからだろう、と 適当に見当を付ける。実際、牧草を刈っている時のスイと、神殿に帰って一龍の世話を言 い渡されたスイでは態度が変わっていたことであるし。 「一龍さま……すいませんでした」 「何が?」 「私たちの都合で、いきなり召喚してしまって……」 「別に。気にするな」 「でも……」 「向こうの世界では、こちらよりもっと大変な目に遭ったことがある」  正直な所、学生の頃は世界中を旅して回った一龍だから、異世界に呼ばれたことに関し て大きな混乱はなかった。  言葉も通じるようだし、食べるものも大差ない。公衆浴場のように男女の区別がないこ とに困惑する事はややあったが、それも習慣だと割り切ってしまえばどうということもな かった。  今より困惑するような奇怪な習慣は、今までで何度もあったからだ。  そういうわけで、異世界というよりその辺の異国に迷い込んだだけという印象の方が強 い。 「そうなんですか?」 「ああ」  いつのまにかスイはこちらに幼い裸身を寄せ、のぞき込むように一龍の話に聞き入って いる。決して上手いとはいえない一龍の話だったが、スイはその一つ一つを真剣に聞いて くれた。  そして……。 「……はぇ?」  スイが気付いたのは、柔らかな布団の上だった。 「大丈夫か?」  上からかかってくるのは、穏やかな低音。 「……はぃ」  まだ聞いて一日と経っていないのに、ひどく懐かしい声。その声に安心したように目を 細め、小さく答える。 「悪かった。湯あたりさせて」  髪の毛をかき分けて額に当てられた手のひらは、大きくて温かい。母親にも神殿長にも こうしてもらった事は何度もあったけれど、一龍のそれはどこか違う気がした。 「一龍さま……」 「一龍で、いい」  言われた言葉に、短く言いよどむ。 「え……でも……」 「スイも歌姫だろう? 神殿長から聞いた」 「そんな……私なんか、まだ半人前の見習いで……」 「俺も半人前」  珍しく笑うような一龍の言葉に、少しぼうっとしながらもスイも笑み。 「よかったら、このまま寝ていろ」 「でも、この部屋は……」  柔らかなベッドのあるこの部屋は、一龍が神殿長から与えられた客室だ。準備をしたの はスイだから、ぼうっとしていても間違えるはずはない。  半人前とはいえ救世主たる『機奏英雄』の部屋に下働きも同然の見習いが厄介になるな ど……スイの常識では考えられなかった。 「俺の勝手だ。気にするな」 「……はい」  けれど、再びあの声。  穏やかで、不思議と逆らう気を起こさせない、優しい一龍の声。 「……スイ」 「はい?」 「こっちの世界では、寝るときの挨拶はどうするんだ?」 「え……?」  スイは少し考え。 「額に、キスするんです」  寝るときの額へのキスなど、幼い子供が母親にしてもらうだけだ。  でも、スイは自分でも分からないまま嘘をついた。 「……そうか」  短くそう言うと、一龍は再びスイの額をかき上げ、薄く汗ばんだ額に軽く唇を寄せてく れる。  ぎこちないキスは、母親のものより暖かく、少し硬かった。
続劇
< Before Story / Next Story >



-Back-
C-na's 5th Dimentional Labyrinth! "labcom.info"
Presented by C-na.Arai