17.ボーイズトークの夜
そっと胸元のボタンを外せば、細身の肩から滑り落ちるのは薄手のシャツだ。
下着代わりのTシャツも脱ぎ、丁寧に畳んで用意されていた籠の中へ。
「ホリン君達も、落ち着かないみたいだったな……」
いきなり玄関に通じる正門に始まり、執事にメイド、桁外れに広大な館。祐希もどれも貴族だからこそのものだろうとは思っていたが、レイジの話だとやはりそうらしい。
そんな事を考えながらトランクスを脱ぎ、浴場へ足を踏み入れれば……。
「…………」
湯船からちょうど立ち上がった、先客と目が合った。
キースリンである。
「あ…………すいま……」
男同士だから、今更恥ずかしがることなど無い。もちろん謝りはするが、その程度。
「…………」
だが、目の前のパートナーの姿に、祐希はそれ以上の言葉を紡げない。
ほんのりと上気した肌に、すらりと伸びた華奢な腕。
肩口から繋がるバストは程良いふくらみを描いた後、しなやかなウエストへとそのラインを繋げている。
目の前のものは明らかに女装している少年のそれではなく。
正真正銘、女の子のそれ。
「ご、ごっっごおおっごおおごごごごごっっっっっ!」
言葉にならない叫びを上げて、祐希は浴場を飛び出していった。
「…………変な祐希さん」
三度目のテストも無事に済んで上機嫌のキースリンだ。そんな祐希の微妙な心情など、気付くこともない。
そう。
彼女の部屋に置かれた錬金術の秘薬は、三度のテストを終わらせて、ついに空っぽになったのだ。
ローゼリオンの屋敷を晶達が後にしたのは、既に夕方に近い頃。
冬奈やファファと別れ、飛竜で近くの村まで戻る頃には、とっぷりと日も暮れていた。
「あ………そういえば」
魔法の明かりを灯した携帯を弄びながら歩いていた晶は、進めていた足を唐突に止める。
「どしたの?」
「……ヘアピン買って帰ろうって思って、すっかり忘れてた」
冬奈達と会って、ウィルの家に行く前のこと。
最初に立ち寄った露店で、ちょっと気になる髪留めを見つけたのだ。帰りにもう一度覗いてみて、残っているようなら買おうと決めていたのだが……。
その後のごたごたで、すっかり記憶の中から取りこぼされていた。
「流石に、もうお店も閉まってるよ?」
それ以前に、今日はもう牧羊都市から王都に戻る飛竜がいない。自前の飛行で飛んで行くには、さすがに距離がありすぎた。
「あーあ。買っとけばよかったな……」
次に買いに行ける機会は、明後日の集合前になるだろう。果たして、そこまでお目当ての品は残っているだろうか……。
「晶ちゃん」
「何よ」
明日買いに行けばいい、という意見は却下するつもりだった。
明日はハークを連れて、もう一度オーヴィスの辺りを見て回る予定なのだ。昨日寄った時に情報を仕入れたから、それを確かめに行きたかった……というのもある。
もちろん、ハークには話していないが。
「これ」
だが、ハークが続けたのはそんな空気の読めない台詞ではなかった。
差し出した手の中にあるのは……。
「え………? これ………」
白い鈴蘭の飾りが付いた、小さなヘアピンだ。
「欲しいみたいだったか……」
照れたような、拗ねたような。
けれどそんな少年の言葉は、最後まで続けることが出来ない。
「ありがと! ハークくん!」
満面の笑みの少女に、力一杯抱きしめられて。
「ま、まあ………良かったよ。喜んでもらえたなら」
そんな事をぼそぼそと呟きながら、そっとパートナーの頭にヘアピンを留めてやる。
何かの魔法が施されているのだろう。白い鈴蘭のヘアピンは晶の喜びを示すかのように、ふわりと黄色い光を放つ。
「ねえ、ハークくん。あたし、もいっこお願いがあるんだけど……」
「な……なに……?」
こちらを見上げる潤んだ瞳に、ハークは胸がどきりと打ったのを理解する。そんな少女の、艶やかに濡れた唇が……。
「今晩…………帰りたくない、な」
確かにそう、呟いた。
見上げれば、そこにあるのは自動で明るさを調節する魔法のシャンデリア。
視線を落とせば、並ぶ家具はどれも精緻な彫刻の施された一流の品。
「なあ、レイジ……」
豪奢な天蓋の付いたベッドの上で、良宇は隣のベッドに腰掛けている相棒の名を呼んだ。
「何でぃ、相棒」
剛胆さなら良宇に勝るとも劣らない相棒も、今日ばかりはベッドの隅に所在なさげに腰掛けている。
「オレ……今晩、寝られそうにないんだが」
「奇遇だな。俺もだ」
とにかく、キースリンの家は桁が違っていた。百音の家も想像を絶するという意味では相当なものだったが……あちらは本当に想像を絶するレベルの驚きばかりだったから、良宇などはもはや一周回って驚くことさえ出来なかった。
だが、キースリンの家は違う。
直球で、驚きなのだ。
言い方を変えれば、金額という分かりやすいベクトルで桁が違っていた。
「このベッドとか、いくらくらいすんだろうな……」
「オレの家とか、買えるんじゃないか……?」
実際には良宇の家一軒どころの騒ぎではないのだが、家一軒の段階で、既に二人の基準の桁が違っていた。
「俺、今晩、床で寝ようかなぁ……」
そんな小市民全開な事を話していると、廊下の方からばたばたという足音が聞こえ……。
半裸の少年が、逃げ込んできた。
「……どした。祐希」
「お、おっぱいが……」
どうやら、どこかおかしくなっているようだった。
「……ンだぁ? おめぇ、ハルモニアの風呂でも覗いたのか?」
ニヤニヤ笑いのレイジの言葉に、祐希の挙動が明らかに凍り付く。
「い、いや、あ、あの、その……」
あからさますぎる慌てぶりが、レイジの言葉が間違ってはいないと分かりやすく教えてくれていた。
「っかぁぁ………青春だねぇ! うらやましいやつめ! 良宇、手ぇ貸せ!」
とりあえず男ばかりの一室だったので、良宇と一緒に祐希をボコボコにすることにした。
「いや、そうじゃなくって!」
故意でも偶然でも、見たものは見たのだ。どんな弁解であれ、殴るのをやめるつもりはあまりなかった。
「む、胸が……」
「女の子なんだからンなもんあるに決まってるだろ!」
あまり、という言葉も取り消すことにした。
「くそーっ! うらやましいぜコンチクショー!」
むしろ、君が泣いても僕は殴るのをやめないことにした。
「な、なんだよ……っ! ホリン君も彼女くらい作ればいいだろう!」
金髪の美少年で頭脳明晰、気も利いていて、ユーモアもある。さらにその辺りをひけらかさないから、男子の評価もおしなべて高い。
これだけの好条件が揃ってるレイジが、モテないはずがないだろうか。
本気になれば、彼女の一人や二人、出来ないはずがない。
「…………い、いや、それはなんつーか、なぁ……」
だが、苦し紛れの祐希のひと言に、レイジの制裁の手は止まってしまう。
「森永。男には、色々あるんだ」
「それで流すの!?」
「ま、そういうワケで……ハルモニアと続き部屋で寝てるとか、どんだけ美味しい思いしてんだこの委員長は!」
理不尽なボーイズトークの夜は、まだ始まったばかりだった。
メガ・ラニカの月は、大陸に寄り添う衛星ではない。
魔法世界の森羅万象を司る不可視の存在『精霊』が転じた、弱い光を放つ発光体だ。
その仮初の月光すら届かぬ暗がりの中。
「ちょっと……晶ちゃん。こんな所……ダメだってば」
思わずそんな呟きを漏らすのは、ハークだった。
パートナーに連れられてきた先は、街から外れた森の中。促されるままに奥へ奥へと踏み行って、こんな事になっている。
「ほらほら。大丈夫だって。男の子でしょ?」
対する晶は手慣れた様子。どう考えても初めてのハズなのに、臆する気配など微塵もなく、大胆すぎるほどの動きでそこへ踏み行っていく。
「………何よ。思ったより、大きいじゃない」
掻き分けた先に目指すものを見つけ……それでも少しは緊張していたのだろう。乾きかけていた唇を、細い舌でぺろりとひと舐め。
「ちょっとぉ……!」
ハークの拒絶の声など、どこ吹く風だ。
「じゃ、おじゃましまーす」
晶は明かりの魔法を掛けた携帯を掲げると、目の前に広がる巨大な洞窟へゆっくりと踏み込んだ。
「ねえ……。それで、ここってどこなの?」
街の外れにこれほどの規模の洞窟があるなど、聞いたことがない。
何せ娯楽の少ない地方都市だ。こんな珍しい場所があれば、噂になっていてもおかしくはないはずなのに。
「ゲートの裏口。ちょっと前に発見されたんだって」
「………はぁ!? 何でそんなの、晶ちゃんが知ってるんだよ!」
メガ・ラニカでゲートと言えば、たった一つの意味しかない。
王都メガラニウスの南。小さな村の遺跡に開かれた、母なる大地への通り道。
その裏道が警備結界の一つもなく、こんな西方の田舎町にあるなど……信じられるわけがない。
「こないだ、お婆さまの家に行く途中でちょっとね。……あたしだって、ホントにあるなんて思わなかったわよ」
呟きながら携帯を開き、電源をオンに。弾むように流れる音が、広い洞窟へと消えていき……晶はそっと瞳を閉じる。
「中から、おかしな音は聞こえないわね……誰もいないみたい」
使っていたのは感覚強化の魔法だ。一時的に聴覚を強め、中に流れていった着スペルに対する反応がないか、確かめていたらしい。
中に警備兵がいるにせよ、獣がいるにせよ、聞こえるはずのない音が流れ込めば、何らかの動きがあるはずだからだ。
「っていうか、よくこんなワケ分からない所に入る気になるね!」
中の様子を確かめ、堂々と入っていく晶に、ハークが上げるのはツッコミではなくもはや悲鳴だ。
「よく言うじゃない。穴があったら入りたいって」
「……それ、明らかに使い方が違ってるでしょ」
地上の慣用句は、地上から取り寄せた本や晶に付き合わされたゲームで相当な数を覚えている。この程度のツッコミは朝飯前だ。
「まあ、これであたし達は穴兄弟なわけだし!」
「…………上手く言ったつもりだろうけど、意味違ってるよ!」
だが、そのツッコミを入れた瞬間、ハークは顔を青ざめさせ。
晶はニヤリと楽しそうな笑みを浮かべた。
「おや? どう違うのかなぁ……?」
結局、話はハークのベッドの下に隠してあった秘密コレクションへと言及されるらしい。
「も、もういいだろ! そろそろ帰ろうよ!」
帰ってもベッドの下の件を追求されるのは目に見えていたが……。
こんな怪しげな洞窟に入るよりはマシだと、ハークは思った。
レイジ達の客間のドアに響くのは、控えめなノックの音だ。
叩く回数は四度。礼を守るべき相手に対するときの、正式なノックだ。
「お、おい。レイジ。こういう時、どう言えばいいんだ……」
無論、ノックと言えばトイレくらいでしか使わない純正の日本人である良宇には、正式なノックに対する作法などすぐに出てくるはずもない。
「知らねえよ……。祐希ぃ……」
ノックの意味こそ分かっているが、こんな高貴な場には慣れていないレイジも、似たようなものだった。
「開いてますよ、どうぞ」
ただ一人、悠然と応じたのは、枕でボコボコにされていた祐希のみ。
響く声に、大きなドアは控えめに開き。
「あの……祐希さん、いらっしゃいますか?」
その隙間から遠慮がちに覗くのは、キースリンの困り顔だった。
薄手の夜着にゆったりとしたガウンを羽織り。リラックスした姿でありながら、その体が描くだろう繊細なラインは少年達の目から巧みに隠されている。
「あ……はい。どうか……したんですか?」
「いえ。お風呂から戻ったら、お部屋にいらっしゃらなかったので……どこにいるのかな、と」
寂しげに呟くキースリンの様子に、レイジと良宇は思わず息を呑む。
お風呂上がりの女の子が、部屋にいないからと寂しそうにパートナーの少年を捜しにやってくる。しかもそのパートナーは、先ほどお風呂を覗いた張本人なのだ!
(すまん、レイジ……オレは……オレは……っ!)
(良宇、おめぇは悪くねぇ。そう考えちまうのは、おめぇだけじゃねえ! 俺だって……!)
応えるレイジの心の目には、血の涙を流す良宇の姿がはっきりと見えた。
無論、目と目で言葉を交わし合った良宇にも、同じ色の涙を流す相棒の姿がはっきりと見えたという。
互いの友情が深まった瞬間であった。
「え、ええっと……ホリン君達の話を聞かせてもらってたんですが」
そんな男同士の友情に気付くはずもなく。
祐希はキースリンの問いに、わずかに視線を逸らしながらも穏やかに答えている。
「まあ。そうでしたの」
「よ……良かったら、ハルモニアも聞いてくかい? 美春やウィルの家にも寄ってきたし」
確か、キースリンと百音は仲が良かったはずだ。それに、同じ副委員のウィルとも。
「私がご一緒しては、お邪魔ではないですか?」
「……だ、だだだ、大丈夫だ」
少女の遠慮がちな言葉を、今度は良宇が速攻否定。
「そういうこと。大歓迎だぜ!」
その辺りで、ようやくキースリンの様子にも慣れてきたのだろう。
そうなれば、放送委員のレイジである。男子であれ女子であれ、観客は多い方がトークにも張り合いが出ると言うものだ。
「なら……ぜひ、ご一緒させてくださいな。そうだ! 良かったらお茶、準備してもらってきますわ!」
キースリンはぱっと華やいだ笑みを浮かべると、ぱたぱたと部屋を後にする。
「ンだよ。風呂を覗かれたって割にゃ、全然怒ってねえじゃねえか……。ホントにうらやましいな、オイ」
「……そう、かなぁ」
「当たり前だろうが」
レイジと良宇のしている、たった一つの誤解。
その誤解が、全ての歯車をものすごい勢いで逆方向に回転させているはずなのだが……。
ここ最近、そこに祐希の知らない歯車が加わって事態をさらにややこしくしている。誰が加えた歯車なのかは見当も付かないが、そんな気がしてならなかった。
だがその正体が何なのかは、祐希にもまだ、分からないまま。
続劇
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