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第5話 R、目覚める

 かちゃかちゃと、食器のぶつかる音が響き渡る。
 パスタにナスとベーコンを絡め合わせた、出来たてのトマトソーススパゲティ。ベーシックな料理だが、トマトは完熟、バジルも摘みたて。ナスとベーコンは程良く炒まり、パスタはもちろんアルデンテ。塩コショウも手慣れたもので、ニンニクの風味が少し薄い事を除けばほぼ満点の出来だった。
 だが、何が気に入らなかったのか。食堂の主はそのパスタを半分片付けた所で、銀色のフォークをかちゃりとテーブルに置いた。
 フォークは食事の中断を示すハの字ではなく、終了を示す皿の上に真横の位置。
「……私、贅沢なのかな」
 広い食堂、ただ一人でそう呟き、メイド服の少女はまだ湯気の残ったパスタを文字通り片付けるのだった。


 古びた紙の匂いに包まれた世界。紙の上に羽根ペンの走る音を聞きながら、男は小さな声で呟いた。
「……なあ」
 広い執務机に腰を下ろしたまま顔を上げれば、見上げられる限界の高さまで本棚がそびえ立っている。この建物そのものよりも書庫の方が広いんじゃないだろうか、という錯覚を覚えるほどに、その空間は果てなく、高い。
「なあ、聞いてるのか?」
 男は部屋にただ一人。しかし、疾走する羽根ペンは彼が握っているワケではない。
 誰も座る者のない椅子の前で独りでに走っているのだ。
「聞けよ、オイ」
 さらに苛ついたように叫び、男は机の上で自分の背にある翼を広げた。ばさりという音と共に、机の上に広げられた無数の羊皮紙が紙魚臭い空間に舞い上がる。
 それに驚いたのか、羽根ペンはようやく書きかけの紙の上に停止した。もちろん倒れる気配などない。まさに誰かが書き物を止めたかのように、広い執務机の真ん中に静止している。
「最近さ……」
 ようやく話を聞く気になったらしい羽根ペンに、男は再び相談を投げかけた。
「アイツ……メイの元気がないんだよ。夜は何だか泣いてるみたいだし。お前、心当たりねえか?」
 仕事の間もため息が多いし、食事もあまり摂っていないようだ。悩み事があるのかと問えば、笑顔と共に返ってくる答えはいつも「大丈夫です」の一言だけ。それが無理して作った笑顔なのは、人付き合いの苦手な男ですら見抜けるほどだった。
「仕事が不満なのか、他に何か悩みでもあるのか……」
 そう言いながら、男は羽根ペンが書きかけだった文章をすいと拾い上げる。
 世界の全てを見通す力を持つ羽根ペンの主。姿無き『探索者』の描き出した、この世の真実の断片を。
「……これを、俺にどうしろと?」
 形の良い眉をひそめて呟いた男に、どこからともなく二枚目の羊皮紙が流れてきた。
『我に体は不要なれど、たまに動かさねば鈍り過ぎる故』
 迷宮の奥底にある彼(もしくは彼女)の体に宿り、適当に動かしておいて欲しいという。そのために男の力が必要だと。
「まあ、確かに俺でないと出来ない事だけど……よ」
『我の願いが叶えば、汝の願いもいずれ達されよう』
 そんなこと、別に今日じゃなくても良かろうに……とぼやきかけた男のぼやきを封じるかのように、三枚目の羊皮紙が空から降ってくるのだった。


「……はぁ」
 牛耳の少女はパスタの乗っていた皿を洗いながら、陰鬱なため息を漏らした。
 仕事の内容に不満などない。
 もともと料理は平気だし、掃除も得意。洗濯だって大好きだ。裁縫は少し苦手だったが、繕い物の必要な場面は少ないし、慣れた今では大して苦でもなくなっている。迷宮の住人である幽霊や探索者が彼女に辛く当たった事もなく、幽霊が警戒している代理人とやらも少女に敵意を持っているわけではないようだった。
 だが、それでもため息が出てしまう。
 今までの彼女の生活を考えれば、夢のような場所なのに。
 いや、居場所がある事だけでも信じられないことなのに。
 今の彼女から出るのは、ため息がひとつ。
「私って……なんて図々しいんだろう」
 自己嫌悪に陥って枕を涙で濡らした事も一度や二度ではなかった。心配して声を掛けてきた幽霊の行動も、おそらくはその辺に気付いての事だろう。
 心配してくれた幽霊がこっそり寝所を覗く事に不快感はない。
 不快感を抱くのは、幽霊に迷惑を掛けた自分自身だ。
 そんな事をつらつらと考えているうちに皿洗いが終わる。一人分の皿と調理器具を片付ける時間など、ほんの僅かしかかからない。
 洗い物が済めば次は玄関の掃除だ。広い玄関の掃除は大変だが、一生懸命掃除している間は今の悩みも少しは忘れられる。
「……あら?」
 いつの間に届けられたのか。少女が玄関のポーチに置かれた手紙に気付くのは、もう少し後の話になる。


「ったく……何だかねぇ」
 男はぼやきつつも手を伸ばし、その体の上に掛けられた毛布を取り払った。
 無論、実体を持たない幽霊が物を持てるはずがない。毛布の周囲の空気を魔術で動かし、自分で物を動かしているように見せかけているだけだ。誰も見ていない所でそう見せかける必要はどこにもないのだが、近頃の習慣でついやってしまう。
 やれやれと苦笑し、横たわった体を確認する。
「とりあえず、問題はナシか」
 この部屋に来る前に探索者から聞いたとおりの状態だ。右手が欠落している点……その右手は今も探索者の右手にある……を除けば、見た感じ傷一つない。
 探索者の胸元に実体のない手で触れ、その先へゆっくりと伸ばしていく。実体のない掌がメイにぶつかった時のようにするりと重なり合い……メイの時と違うのは、その反対にすり抜けなかった事だ。
 憑依。
 他人の体に宿り、男の制御下に置く力。
 もちろん誰にでも使える技ではない。本来の魂が不在である、探索者の体だからこそ出来る芸当だ。
 誰も座っていない魂の座に易々と腰を下ろし、新しい体へ己の意志を通していく。内臓、胴体、頭、足、左腕。存在しない右手以外の触覚を全て確認してから、ゆっくりと残る四つの感覚を接続していく。
 肺が空気を出し入れする、呼吸の音が耳に届いた。
 地下室の埃臭い空気が鼻孔をくすぐり、乾いた舌の上に唾液の味が広がる。
「……久々だな、この感触」
 自らの声を確認し、ずっと閉じていた瞳を開いた。
 見えるもの自体は幽霊の時とそう変わらない。ただ、目が光に慣れていないのか、少しだけ部屋が眩しく見える。
「まず右腕か」
 そう呟き、軽く集中。
 肉体を凌駕した精神が切断面の細胞に幽霊の情報を上書きし、組織の本質を少しずつ書き換え始める……。


『前略、メイさまへ
 管理人のお仕事、いつもご苦労様。お馬鹿な幽霊にいぢめられていませんか? 陰気な探索者の無理難題に付き合わされていませんか?
 迷宮でのお仕事はそろそろ慣れた頃でしょうか。慣れましたね? 慣れたでしょう。もしかしたら、ぼちぼち飽きてきた頃かもしれませんね。

 というわけで早速ですが、追加のお仕事をお願いしようと思います。
 同封の地図に指示された地下の扉を開けて、中での指示に従ってください。鍵は先日貴女が受け取った鍵束の中にありますからそれを使ってね。
 イザヤ(先日そちらに行ったウサギです)は「解るようにしておいた」と偉そうにほざいていましたが、あいつは莫迦なので、もし解らない所があったり判断が必要な場面があればメイ、貴女の判断で決めて構いません。

 それでは用件だけですがこれで。仕事が増えて大変になるでしょうが、頑張ってください。遠く離れた世界なので私の力も及びませんが、皆で応援しています。かしこ。

 代理人 エミィ・ランティア

PS.この件はメイ、貴女にお願いしたものです。幽霊には話さないように、貴女の判断で行ってくださいね。約束ですよ?』


 メイ宛てに書かれた手紙の内容は随分と一方的なモノだった。後は薄汚れた地図が一枚、おおざっぱに折り畳まれて入っているだけ。
「大変なお仕事って……なんだろう?」
 内容はさておき、問題はそれだ。
「まあ、いいや」
 もともと綺麗に片づいている玄関の掃除はさっと切り上げておいて、メイは先にそちらの指示に従う事にした。
 膨大な広さがあるとはいえ、迷宮の大部分は魔法で管理されている。人手の掛かる所はその間のごく僅かな部分だけだから、メイの生活は今の所かなりの余裕があるのだ。多少の仕事が増えたからといってどうこうなるわけでもない。
 それに……忙しい仕事なら、今の悩みもきっと忘れられるだろう。
「地図は……えっと……」
 地図は玄関を中心にした狭い範囲を示しているようだ。手紙を便箋ごとポケットへ丁寧にしまい、メイは指示された場所目指して歩き始めるのだった。


「六番。三番。十七番……これだ」
 鍵束の中から目当ての鍵を取りだし、小さな鍵穴へそっと差し込む。細かく削られた金属片の形が錠前の機構にぴたりと重なり、回転を加えられるごとに内に仕掛けられた複雑なカラクリをぱたぱたと解き放っていく。
 九十度ほどひねったところで、かちり、という軽い音がして錠が開いた。
 扉そのものは小さな鉄の扉だ。少女の力でそっと押せば、金属の扉とも思えない軽さで音もなく内側へと開いていく。
「ここは……?」
 そこはどうやら医務室か実験室のようだった。戸棚にずらり並んだ薬瓶の群れと化学書、医学書の束。新品同様の試験管やガラス瓶などの実験器具。果ては洗い立ての白衣や怪我人が横になれる簡易ベッドまで置いてある。長い間締めきられていた割に空気が澱んでおらず、すぐ使える状態に整っているのは、部屋に施された管理魔法がきちんと働いているからだろう。
「入ったら解るって書いてあったけど……」
 ここで医者や看護婦の真似事でもしろというのだろうか。
 だが、迷宮の住人は今の所たったの三人。あの探索者が自らの分身に等しい書庫で怪我をするとは思えないし、幽霊はそもそも怪我をする体がなかった。唯一怪我をしそうなメイは自力で怪我に対処できるから、よっぽどの事がない限り医療品を必要としない。
 実験器具に至っては、三人の誰に縁があるというのだろう。
「……これ、何だろう」
 そんな中でただ一つ。普通の実験室にはない、異質な物があった。
 部屋の隅に置かれたガラスの容器。球状の本体に細い口の付いたそれは、いわゆるフラスコというやつだ。それだけなら実験室に普通にある物だが、何しろ大きさがメイほどもあった。緑色の液体に満たされていて中身は見えないものの、それが一層フラスコの不気味さを強調している。
 だが。
 首を傾げながらも中身を確かめた瞬間、メイは甲高い悲鳴を上げた。
 巨大フラスコの中にあったのは、あろうことか幼い少女の小さな躯だったのだ。


 ガラスの砕ける鈍い音が、清潔な部屋に響き渡った。
 次いで部屋を占領したのは大量の液体が流れ出す盛大な水音。さらに少女の足音と重い椅子が放り投げられる音が重なり、「大丈夫!? しっかりして!」という必死な声が締めを飾る。
「誰よ……こんな事したの……っ」
 メイに抱かれた少女はまだ年端もいかない子供だった。淡い桃色の髪に人形のような色素の薄い肌。細かい年齢までは解らないが、まだ十には達していないだろう。
 少女は長い間溶液の中に浸されていたせいか、既に息をしていなかった。小さな胸から伝わるべき鼓動も失われている。
 もちろん、そんな状態の娘がメイの呼びかけに応えられるわけもない。
「……何よ……何なのよ、迷宮って……」
 エミィの指示とは、ウサギのイザヤが準備した事とは、この骸の処置なのか。こんな事をするために自分はこの部屋まで呼ばれたのか。
 やるせない想いに涙が浮かんでくるが、せめてこの子だけでも弔ってやるべきだろう。備え付けのタオルで溶液に濡れた裸の体を拭いてやり、簡易ベッドの上まで運んでやる。意識の途切れた体は見かけ以上に重く、ベッドまでの僅かな距離を抱きかかえただけでメイに息切れを起こさせるほどだ。
 薄い布団を掛け、一息。
 瞳を閉じた娘には傷一つない。この状態を写真に撮ってもただ眠っているだけとしか思われないだろう。この穏やかな死に顔だけが、唯一の救いだったと言える……かもしれなかった。
「……どうした、メイ!」
 そこに飛んできた口調は、メイの悲鳴を聞きつけたらしい幽霊のもの。
「え!?」
 だがその声の主に、少女は涙声で聞き返していた。


続劇
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Presented by C-na.Arai