「あなた……だれ?」 実験室の入口にいたのは幽霊……のはずだった。 「はぁ?」 ぞんざいな口調でメイを呼び捨てるのは迷宮で幽霊だけ。いや、それ以前に、迷宮でここまで来られるのは幽霊ただ一人しかいない。 はずだ。 「……ああ」 ようやく状況を理解したらしいそいつは、やれやれと頭をかいた。 「俺だ。幽霊だよ」 「幽霊……さん?」 本人にそう名乗られてもメイは今一つ理解していない様子。こちらを呆然と見つめたまま、タチの悪い冗談を聞かされたような顔をしている。 「俺以外に誰がいる? 誰だと思ったんだよ……」 「……女の子」 そう。 メイの目の前にいるのは、正真正銘の女の子だった。 年の頃は死体の娘と同じかほんの少し上くらいだろう。目の覚めるような腰までの金髪にシンプルな白いワンピースをまとっている。右腕だけ指先までの長手袋をしているのが気になったが、そういうオシャレなのだろう。 正直かなりの美少女だったが……幽霊そのものの不機嫌そうな表情と口調が、こつこつ積み上げたそれを一発で台無しにしている。 「まあ、そうだよなぁ……。普通、そう思うよなぁ」 「ってそんな事より!」 今の問題は死体だという事を思い出したメイは、慌てて幽霊の手を掴み、くいと引っ張った。いつもならそんな事は絶対にしないから、よっぽど慌てていたのだろう。 「あ、おいっ!」 小柄な少女の体はメイにあっさりと力負けし、ベッドの前へと引き込まれる。 「おい。どした?」 だが引っ張ったっきり、メイから次のアクションがない。どうしたのかと見てみれば、先程と似たような表情で、掴んだままの幽霊の手と自分の手を見比べている。 「いや、幽霊さんの手が引っ張れたから、意外で……」 「探索者の体を動かしとくように言われて、ちょっと入ってんだよ」 「入るって……ええ!?」 「……魂の入ってる体には入れんから。そんな目で見んなよ」 やれやれ、と美少女の姿でいつもと同じため息を吐き、幽霊。姿がどれだけ変わろうと、その中身はあくまでも『彼』なのだ。 「で、これがどうかしたのか?」 もう一度ため息を吐き、ベッドの上に乗っかっているモノを一瞥。 呼吸は無く、心臓も動いてはいない、命のない物体がそこにはある。 「『これ』……って!」 幽霊のぞんざいな物言いには、さすがのメイも声を高ぶらせた。 「そんな、幽霊さん……この子、死んじゃってるんですよ! なのに、なんて事を……」 最後の辺りは声になっていない。くしゃくしゃに歪んだ顔を両手で覆った彼女の表情は、極端に下がった幽霊の視点からでも伺うことは出来なかった。 「……変です。みんな。何で……何でこんな小さな子が死んじゃってるのに……そんな、モノみたいに……」 そっと手を伸ばした幽霊の手を振り払い、娘は子供のように泣き続ける。 「ん……」 ふと、幽霊は気が付いた。泣きじゃくるメイのポケットからひらひらとこぼれ落ちた、一通の手紙の事を。 魔法を使わず自らの手で拾い上げ、内容をざっと流し読む。 「あの暇人は……また、手の込んだ事を」 三度目のため息を吐き、ぽんとメイの頭に手を伸ばす。 いつもなら余裕で届く頭が、やけに遠い。 「おい、こら。メイ。いいからちょっと聞け」 「な……なんですかぁ……いたた」 頭に届かないからと手袋をした手で髪を引っ張られ、さすがのメイも泣くのを止めて幽霊の方に向き直る。 「お前は知らんらしいから言うけどな……」 ベッドの上に力なく横たわっている少女の体をぽんぽんと叩き、幽霊少女は疲れたように言葉を続けた。 「これ、死体じゃなくて人形だぞ」 牛耳の少女は、言葉の意味を理解できなかった。 「……人形?」 もう一度、ベッドの上に横たわっている死体を落ち着いて眺めてみる。 「そう。人形」 体中の関節に、可動部を切り分ける分割線が入っていた。 「こんなに人間そっくりなのに……?」 膝小僧には皮膚の代わりに、黒いガラスの板がはめ込まれていた。 「人間そっくりに動くように作ってんだから、まあ、当然だな」 力なく流れた髪の間に、コネクタのような機械部品が埋め込まれていた。 「じゃあ、死んでない……の?」 まぶたを押し上げると弛緩した瞳孔はなく、代わりにレンズがはまっていた。 「もともと生きてなけりゃ、死にようがないだろうな」 錬金術の奥義が一つ、ホムンクルスの先の先。培養された生物部品と機械を組み合わせた完全なる人工体。小さな閉鎖フラスコの世界を飛び出した、魔法と科学の集大成。 まさしく、神に至る所行。 それが目の前の娘の本質だった。 「なら、イザヤさんのした準備っていうのは……」 「起こす準備が出来てるって事だろ。奴らの基準なら」 代理人達の基準からすれば、目の前の少女のような奉仕種族などは常識であり、いちいち詳細を説明する必要を感じなかったのだろう。幽霊に黙っておくよう言ったのは、口うるさい彼に邪魔されるのが面倒だったからに違いない。 「じゃあこの子、生き返るんですか?」 「……まあ、そういう事だな」 メイとの間には何か致命的な見解の相違があるような気がした幽霊だったが、大まかな所は一緒だし詳細を説明するのは面倒だったのでやめた。 「このタイプの魔術機関は聖者が息吹を吹き込む事で活動を開始する。俺は死人で属性違うから、メイ、お前がやれ。神聖系の力、使えるんだろ?」 大まかに説明して投げやりに手を振り、そのまま幽霊は部屋の隅へと。 「……あれ? 私、幽霊さんの前で力って使いましたっけ?」 神聖系の力。いわゆる、癒しや治療に関する力だ。ここに来るまでは何度も世話になった能力だが、迷宮に来てからは使った覚えがとんとない。 「何となく……そう思っただけだ。それより早くやれ、早く」 すっと息を吸い込み、ふう、と吐く。 それを繰り返す事二度、三度。 メイは、ベッドの上に横たわっている少女を静かに見据える。 再び吸い、吐く。 息吹を与えれば少女は生命を取り戻すという。そしてそれは、メイに与えられた仕事。 いや、この迷宮ではメイしか出来ない仕事。 「じゃ、行きます」 大きく息を吸い、そっと唇を重ね合わせた。 体温の失われた唇の冷たさが、リップも引いていない唇に直接伝わってくる。 「ン……」 固く閉じた娘の唇を舌先でちろりと舐め、口全体を使ってくわえ込み、吸い付くようにして優しく揉みほぐしていく。メイの唾液とねぶるような唇での愛撫に硬直が弱まった所で、ゆっくり舌を差し込み、てらてらと光る唇の間へ柔らかくもぐり込ませた。 空気の通り道を確保する為、そのまま舌を娘の口の中へと押し込んでいく。乳歯の硬さを確かめられる処まで舌を進ませて、半開きに開いた口に唇をねじ込んだ。 「ん……んむッ……」 幼子にするには、あまりにも深いキス。メイにとっても初めての、唇。 だが、人の命が掛かっているのだ。そんな些事にこだわっている場合ではない。 「ん…………っ」 人工呼吸の仕方も知らないメイの稚拙な吐息が、冷たい娘の体に唾液と共に少しずつ吹き込まれていく。やがて同時に止まっていた少女の胸が僅かに上がり、ゆっくりと下がっていった。 膝頭のディスプレイに無数の文字が疾走し、やがてCOMPLETEの指示を出す。 メイはその動きに気付かない。ただ、少女を生き返らせるべく、苦しい肺の中から必死に吐息を送り続けている。 「んっ」 と、限界を迎えたメイの唇がわずかに離れた。 娘達の唇を繋ぐ細い橋も切れない距離で、メイは再び息を吸い込み……。 「んっ!?」 唇を重ねてきたのは、死んでいたはずの少女からだった。 「んむぅ……ッ!?」 幼子の舌がメイの歯を割り、舌を求めて押し入ってくる。とっさの事に抵抗できないメイは舌を奪われ、先程自分がした濃厚なキスに今度は自分が翻弄される羽目になってしまう。 息吹どころか魂まで吸い取られそうな恍惚としたキスに、経験のない少女の躯は火照り、助けるはずの少女にしがみついて必死に耐えるのみ。 「ぷはっ……」 やがて、解き放たれる。 「汝が、我が主か?」 ベッドの上に起き上がったのは、既に命を失った人形ではなかった。幼い外見に似合わぬ婉然とした微笑みを見せる、鋼鉄の少女。 「えぁ……は……ぃ……」 対する主はベッドの下にくずおれたまま。強烈なキスの余韻に頬を淡く染め、呂律もロクに回っていない。 「我はR。ロット名はNo.3。奉仕種族として生まれる前のこの体を支配する、原初の存在なり」 Rと名乗った少女は僅かに言葉を切り、続けた。 「汝が我に望むのは、剣か?」 「……けん?」 「攻撃兵器って事だ。並みいる敵を片っ端から打ち砕く、無敵の剣」 とろんとした瞳のまま。呆けたように繰り返すメイを見かねた幽霊がそう口を挟んだ。 「判断は自分で付けろ。そう、エミィにも言われただろ?」 そうだ。手紙にもあったではないか。 「……わたしのぉ……はんだん、で?」 なら……。 「……じゃ、剣じゃ……ない」 ふらふらする首を、イヤイヤをするように横に。 「なれば守護か? いかなる攻撃も受け止める、無敵の盾」 「……ううん。それも、ちがう」 さらに否定。唾液に濡れた口元を、袖口でゆっくりとぬぐい去る。 「迷宮の全てを管理する、汝の僕か?」 「それは……私の、仕事だもの」 焦点の定まらない瞳が、すっとベッドに座る少女へと。 「幽霊さん。私がどう決めても、いいんですよね?」 「ああ。俺は口を挟まん。お前のいいようにしろ」 バレたらエミィに何を言われるか解らんからな、と年不相応な苦笑を浮かべ、金髪の少女は隅の椅子へ静かに腰を下ろす。 「なれば、世界でも滅ぼしてみるか?」 機械の娘は自嘲気味に笑み。どうやら『彼女』の力を知っているのか、座ったばかりの幽霊が慌てて立ち上がる。 「そんな事、しなくていいよ」 決断を求められた少女は、柔らかく微笑んだ。 「私が貴女に望むのは……」 「汝が我に望むのは……?」 メイの出した回答にRは艶やかに笑い、幽霊はいつもの苦笑を浮かべるのだった。 珍しくため息を吐き、メイは一人前の皿をテーブルの上に置いた。 「……ふぅ」 今日は大変な一日だった。Rと名乗った少女はメイの望みを聞いた後に再び眠ってしまい、幽霊もどこかに行ってしまった。 何だかんだ振り回されて、結局いつもと同じ、一人きりの食卓だ。 「いただきます」 だだっ広い食堂に少女の声が空しく響き、一人分の食器の音がかちゃかちゃと寂しく鳴る。料理はもともと好きだから苦にならないが……食べる事は苦痛に近かった。 「ウサギさん、また来ないかなぁ……」 幽霊は元の幽霊に戻るだろうし、Rも機械だから食事はしないだろう。 この迷宮に関わった者達の中で食事をするのは、メイを除けばウサギのイザヤただ一人。彼が滞在していた時の賑やかな食卓を思い出し、思いを馳せるたび、寂しさと空しさが募っていく。 かつて彷徨っていた時を考えれば、あまりにも贅沢すぎる望み。 居場所を与えられ、名前を付けてもらい、それでもまだ望むというのか。自分は。 「……」 スープ皿の上に、ぽたぽたと鈍く波紋が広がった。 「ねえ」 その時、問い。 「泣いてるの?」 くいくいと、軽く引かれる袖。 「……え? R、さん?」 こちらを心配そうに見上げているのは、淡い桃色の髪をした機械の少女だった。 「ラヴィだよ。Rちゃんはね、今はラヴィのなかで眠ってるの」 無邪気にそう答える少女は、あの婉然と微笑んだRとは明らかに違う。見かけ相応の、まるっきりの幼子だ。 「……そうなの?」 「Rは管理人。そいつの裏の人格だからな。普段はその子供が表に出てんだろ」 答えたのはラヴィではなく、不機嫌そうな少女の声。 「……あれ?」 憮然とした表情で食堂の入口に立っているのは幽霊だった。それもいつもの青年幽霊ではなく、先程と同じ少女の姿のまま。 「幽霊さん、探索者さんの体を戻しに行ったんじゃ?」 「その予定だったんだが……いつもなら簡単に出られるんだがな」 どこをどう間違えたのか、いくら抜けようとしても抜けられないのだ。 探索者の体から。 「じゃあ、しばらくはそのままなんですか?」 「不本意だが、仕方あるまい」 やれやれ、とため息。拗ねる程度なら地の良さのおかげで可愛げもあるのだろうが、本気で不機嫌な顔をしているから全然可愛くない。 「で、悪いんだが……」 幽霊はブロンドの髪を所在なさげに掻きながら。 「ねー、メイちゃん」 ラヴィは再びメイの服の袖を引っ張りながら。 「この体だと腹が減ってな。何か無いか?」 「ラヴィ、おなかすいたー」 異口同音に、食事をねだる。 「……え? 二人とも、ご飯食べるんですか!?」 さも当然という風に頷く二人。 ラヴィの動力源は有機物だし、探索者の体はごく普通の生身だ。どちらも普通に食事が必要になる。 「ラヴィのぶん、ないの?」 寂しそうに袖を引くラヴィに華のような笑みを返し、メイは弾んだ声で立ち上がる。 「パスタとスープでいいですか? ベーコンとナスのトマトソースと、カボチャのスープ!」 貯蔵庫には昨日の乾麺とナス、使い掛けのベーコンが残っているはず。スープを温めてパスタを茹でて、その間に菜園からトマトとバジルを摘んでくる時間を逆算して……。 「……悪くないな。久々の食事だし、期待するぞ?」 「ラヴィもおっけーだよ!」 「はい! じゃ、さっと作っちゃいますね!」 今日こそ美味しいパスタをみんなで食べよう。 三人ぶんの材料と手順をざっと再確認し、メイはぱたぱたと台所に駆け出すのだった。 |