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6.傾く天秤

 世界樹の頂を突き破り、太い枝の重なり合った広間らしき場所に降り立ったのは、赤く彩られた猟犬の騎士だ。
 眼前にひときわ高く伸びる、広間から立ち上がる巨大な枝。洞のようにくぼんだその中腹にあるのは、枝から削り出したかのように刻まれた、少女の姿だった。
 それが誰か、ペトラが見間違えるはずもない。
「セノーテ……!」
 ただの木彫ではない。樹皮のように見える表面は僅かに動き、枝と一体となった彼女がいまだ呼吸し、心臓を動かしていると分かる。
 その場所まで、歩みにして二十歩ほど。
 けれど五歩ほど進んだ所でペトラを押し留めたのは、足元から伸び上がる無数の枝と……それらが絡み合って生まれた、幾つもの緑色の人型だった。
「……随分と無礼な挨拶であるな。イズミルの兵よ」
 その緑の一体から聞こえるのは、人の声。
 まさに枯れ枝の如くかすれ、しわがれた、老人の声だ。
「お前が……風然か!」
 ペトラの問いに答えはない。その代わりにあるのは、辺りを囲み、打ちかかってくる緑の兵だ。
「セノーテに何をした!」
 かつての神王も、世界樹と一体となるため大樹の一部と同化したと聞いていた。恐らく目の前の少女も、それと同じ扱いを受けているのだろう。
「陛下には、ヒサの新たな力となって戴く」
 緑の兵はセノーテではなく、風然が制御しているらしい。彼女ほどの鋭い剣戟はなく、ペトラでも容易く倒す事が出来た。
 一体ならば。
「故に、我らの儀式の邪魔はさせぬ」
 しかし一体倒しても、二体を切り伏せても、緑の兵は足元からそれと同じ早さで生まれ、襲いかかってくる。
「邪魔するに決まってるだろ!」
 少女の元まで、たったの十五歩。
「……セノーテ!」
 けれどその距離が、今のペトラには恐ろしく遠い。


 万里の控えた処から神揚皇帝の玉座まで、距離にして十五歩。
 それは、神揚皇帝に謁見する者が守るべき絶対の距離。仮に謁見者が刺客だったとしても、ひと息には斬りかかれぬ距離として定められたものだ。
 故にこの距離を一歩でも縮める事は、謁見者は皇帝に対して反意ありと示すに等しい。例えそれが、皇帝の親族だったとしても……いや、皇帝の血縁者であれば、なおのこと厳しい処罰が下される事さえあった。
「して、今日は何用だ」
 その十五歩の距離を保ったまま。
 眼前の愛娘を見据えるのは、玉座の老人だ。
 既に齢はかなりのものだろう。けれど細く絞られた体と鋭い目線は、その体から老いという物を一切感じさせる事はない。
「手紙の事ならば、言を違えるつもりはないぞ」
 少し前、使者を通じて送らせたものだ。何か意見があるとすれば、恐らくはそれだろう。
 けれど十五歩の距離を開けて頭を伏せた愛娘は、その首を静かに横に振る。
「では、何だ」
「……ヒサ家の……いえ」
 万里は言葉を促す皇帝に、少し言い淀んだ様子だったが……。
「時巡りの秘儀についてのお話で、参りました」
 やがて顔を上げ、凜とした声で言葉を紡ぐ。
「ヒサの禁呪とは、縁をお切り下さいませ」


 切り裂き、踏み込み、死角からの攻撃に下がり、距離を取る。
 既に何体の兵を倒しただろうか。
 しかしペトラとセノーテの距離は、何度繰り返しても十五歩よりも縮まることはない。
「こんな事にセノーテを使って……ッ!」
「これこそ、神王陛下の御心に叶うもの」
 風然の言葉を放つ緑の兵を否定の言葉と共に両断すれば、老人の言葉を継ぐのは別の緑の兵である。
「世界樹を新たな神術機関と成せば、ヒサの民の数に煩わされる事もない。自らの意思で、限りなく時巡りの力を使う事が出来る」
「神術機関……クロノスの!?」
 それは、かつてロッセが開発した神獣の名だ。
 時巡りの代償として世界の狭間に消えた瑠璃を探すため、彼は時巡りの術を解析し、それを擬似的に再現する機関さえ造り上げたのである。
 たった一人で、誰も力も借りることなく。
 クロノスのそれが本当に時巡りの力を再現出来たのかどうかは、誰にも分からない。後に多くの者の力で瑠璃と沙灯が救われたため、クロノスの神術機関は真の力を一度も解き放たれることなく、解体処分されたと聞く。
 しかしそれと同じ事が、無限に出来るというならば……。
「陛下は死者の都から世界を見つめるだけの無力な存在ではなく、世界に最善の選択をもたらす存在となるのだ」
 それこそ、まさしく神の所行。
 世界に新たな秩序をもたらす、神の王としての行いに他ならない。


 謁見の間に響き渡るのは、老人の高らかな笑い声だ。
「面白い事を言う」
 それがひと心地付いた時。ナガシロ帝が口にしたのは、彼女を咎めるでも、叱責するでもない言葉。
 まるで、楽しむようなひと言であった。
「……面白くなどありませぬ!」
 帝の反応は流石に予想外だったのだろう。万里はしばらく黙っていたが……やがて、不機嫌そうに声を荒げてみせる。
「これが面白くなくて何とする。……時巡りが何を成したか、知らぬお前でもあるまい」
 間違った選択を戻し、正す。
 この力があったからこそ、神揚帝国は大陸南部の覇者となり、キングアーツとの和平も成されたのだ。けっして万能とは言いがたいが、それでも人ならぬ……まさに神の名を揚げるに相応しき国の力だろう。
「それは……分かっています」
 時巡りの術の恩恵を知らぬ万里ではない。
 彼の秘儀がなければ、南北の大国は今のような和平どころか、いまだ戦いの最中にあっただろう。
「お主とカセドリコスの王子が結ばれたのも、世界をやり直したがこそ」
 それも、万里は知っている。
 この歴史を手に入れるために、瑠璃が、沙灯が……そしてもしかすれば、万里達の記憶に残らぬ多くのヒサの民が時巡りの秘儀を使ったかもしれないことも。
「分かっています!」
 けれど。
「ですが……!」


 緑の兵の一撃に、弾き飛ばされたのは双の刃の一本だ。
 既に倒した緑の兵は二十を越えていた。倒しても倒しても数を減らさぬ敵を前に、刃を握る気力は尽き、肩にはずっしりと奇妙な重みがのし掛かってくる。
 いかに戦い慣れぬ老人が相手でも、数で気力を削られれば、隙の一つも生まれてしまう。
「そのためにセノーテを使うっていうのか!」
 刃を失った左から突き込まれた斬撃に五歩の距離をひと息に下がり、ペトラは騎体を変形させる。
「ヒサの一族は、もともと平穏を望む一族であった」
 残った刃をハーネスの鞘へと戻し、二本の両手を前脚へ。
 攻撃力よりも、機動力。
「世界を巻き戻し、正しい選択を行なわせる事で世界に平穏を保ってきたのだ」
 ある意味、それは正しいのだろう。
 それがなければイズミルはいまだ神揚とキングアーツの戦いの最中にあっただろうし、ペトラも生まれてはいなかった。
 だが。
「それでも……っ!」


「誰か一人に世界の犠牲を背負わせるなど、間違っている!」
 それでも響くのは、否定の言葉。
 世界樹の頂で。
 神揚帝宮の謁見の間で。
「たった一人で世界の全てを救う事の、何が間違いか!」
 故に平和はもたらされた。
 二つの大国の全面戦争で生まれるはずの数十万、数百万の犠牲を、たった一人の命で購う事が出来たのだ。
「だったら、セノーテは誰が救うんだっ!」
 けれど、その一人は……果たして、それを良しとしているのか。
 ペトラの十五歩先にいる少女は世界樹の幹に覆われ、言葉を返す事はない。
「やり直しが出来ぬからこそ、皆、必死に戦うのです」
 だからこそ、今の平和も成し遂げられたのだ。
 成し遂げられようと、しているのだ。
 幾多の妨害とすれ違いがあろうとも、次の巻き戻しを起こさぬよう。一人だけの犠牲ではない、一人の犠牲も出さぬよう。
「それに、セノーテはそんな事したいなんて思ってない!」
 彼女が……神王があの黒大理の牢獄の中で世界を憂い、無限のやり直しを真に願っていたならば、イズミルの戦いでそれは成し遂げられていたはずだ。
 そんな彼女が、どうしてシャトワールと共に在り、ククロの新たな体を受け入れたのか。
 無限のやり直しではなく、大後退を選ぼうとしたのか。
「負ける事も、失敗する事も……時には必要なはずです」
 取り返せない失敗もあるだろう。
 やり直したいと願う事も、あるはずだ。
 けれど彼女の知る者達は、そんな困難程度を乗り越えられない者達ではない。
「それで世界が滅んでもか!」
 愚かで、若い選択だ。
 一時の感情で、一時の理想で。永遠の平和の可能性を捨てるなど……まさしく愚の骨頂と言えるだろう。
「……それが!」
 けれど。
 それさえも、若い二人は否定する。
「世界の選択なら!」


続劇

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