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 薄紫の闇の中。
 そいつが見たのは、何だったのか。
 魔物と呼ぶに相応しき、巨人にはない巨大な翼か。
 それとも分厚く頑丈な、魔物には纏えぬ巨人の鎧か。
「……また、見られたね」
 鳳の翼を鋼に打ち替えたようなその翼を、ある者は魔物と呼び。
「……いいのよ。予定どおりだもの」
 そいつの重装の戦装束を、またある者は巨人と呼ぶ。
「……いいのかな?」
 少女達のはるか眼下にある、巨人とも魔物とも付かぬ何かは、逃げていく兵達など興味もないかのようにゆっくりと数歩を歩き……。
 その場で、忽然と姿を消す。
「……いいのよ」
 薄紫の夜空の上。闇の中に溶けるように消えたそれに、少女達は驚く事もない。
「なら、帰ろう」
「ええ。帰りましょ」
 なぜならば。
 薄紫の夜空の上。語り合っていた少女達もまた、夜の闇に混じり合うように消えてしまったのだから。





第4話 『調印式の悪夢』




1.再び、彼の地へと

 眼下に広がるのは、巨大な湾の奥に築かれた鉄と石の町並みだ。
 その一角の覆うかのように垂れ込めた灰色の煙は、キングアーツの都市群であればさして珍しくもないものである。
 それがキングアーツ第二の都市となれば、なおさらだ。
 緩やかな潮風に押されながらゆっくりと進むのは、真っ白な帆を青空へと広げた大きな船。
 この蘭衆は王国第二の都市だ。街から各地へ伸びる街道も少なくはないが、馬車や輸送用のアームコートで運べる量はそこまで多いわけではない。
 殊に巨大な港湾部を備えたこの街や王都であれば、今でも船便を使う方がより効率の良い輸送が出来るのであった。
「……本当に良かったの? ヴァルちゃん」
 船の上。木造甲板には不釣り合いな車椅子に身を預け、静かに問うたのは穏やかな声だ。
 彼女が身を預けた車椅子も、顔を覆う一つ目の仮面も、見慣れたいつものもの。けれどその身がまとうのは、いつもの軍服ではない、もっとゆったりとした作りのワンピースだ。
「ああ……」
 だが、彼女の脇でぼんやりと町並みを眺めていた娘がまとうのは、いつもと変わらぬ軍服。
 ヴァルキュリアの私物に、服という物はない。
 軍に属していれば最低限の衣類の支給はあるし、彼女もそれ以上の物を求めようとはしなかったからだ。
 故に、初めて申請した長期休暇を利用しての初めての旅行で、彼女が普段着代わりに持ち出そうとしたのも……当然ながら軍からの支給品であった。
(……やっぱり、あの格好は落ち着きませんでしたわねぇ)
 同行者の女性としては、服の一着も贈ろうとしたのだ。
 家業の手伝いを兼ねた船旅とは言え、半分は私的な旅行である。何より目の前で軍服の娘がウロウロしていては、彼女としても落ち着かない。
 だが、目の前の娘は「半分は護衛だ」と言い張って、結局その申し出を頑として聞き入れようとはしなかったのだ。
(そのくらいの俸給は貰っているでしょうに……)
 あの戦いの後、部隊を任せられるのが嫌だからと特例での昇進を蹴ったと聞いていたが、それでもそれなりの蓄えはあるだろう。
 商人の家で育ってきた彼女としては、無駄な浪費は敵だと思っている。けれどそれと同じくらいに、金の動きが滞る事にも許しがたいものを感じてしまうのだ。
「……どうした」
「……いえ、別に」
 小さく呟き、空を仰ぐ。
 見上げたそこは青く、広い。
 まだ岸に近い場所だからか、白い雲の合間には海鳥が舞い、キラキラと輝く水面には時折波のそれとは違う、魚鱗の反射も見える。
 彼女たちの駐屯する世界とは全く違う、生に満ちあふれた世界がそこにはあった。
「ご家族に会うことだって、環君は禁じたりしなかったのでしょう?」
 ヴァルキュリアが初めての長旅で訪れていたのは、キングアーツ第二の都。
 記憶を失った彼女の、故郷だと目された場所であった。
 だが、そこで彼女がした事は、車椅子の女性の警護と、ほんの少しの散策のみ。食事は彼女と一緒に取っていたから、それなりに良い物を食べていたはずだが……せいぜいその程度だ。
 調査記録にあった家族の顔を見に行くどころか、生家をあるブロックに足を踏み入れる事さえしていない。
「……ああ」
 彼女が仕える青年は、今の彼女の意思を何よりも尊重してくれる。故に彼女が望んだ、彼女が記憶を手繰る事も止めようとはしなかった。
「だが、記憶になければそれは他人だろう」
 けれど、訪れた街も、目にした景色も、彼女の記憶に響くものは何一つありはしなかったのだ。
 恐らく、元の家族を見たとしても、抱く想いは同じだろう。むしろ元の家族だという相手を惑わせ、混乱させてしまう可能性の方が高い。
「今の私は、私だ」
 小さく呟き、視線を外へ。
 煤煙に覆われた街も、その向こうにある目を惹く初夏の新緑も、彼女にとっては他の緑や、生きるもの皆死に絶えた薄紫の世界のそれと何ら変わりの無いものだ。
「そう……」
 呟き、女性も視線を外へ。
 遙かに望むのは、キングアーツの第二の都。
 王都とは違う文化に支えられ、独特の薬草技術体系を持つ、かつて同じ名の国の首都だった港町だ。新たに開かれた南方との流通に乗せられる薬草がないかと思い、彼女はこの街へと訪れていた。
(そういえば、あの子もここの出身でしたわね……)
 思い出すのは、半年前に行方をくらませたきりの少年のことだ。
 自分と、目の前の少女と、行方不明のままの少年と。
 ここから見える港町の景色は、恐らく三者とも違うものになるのだろう。
「なら、戻りましょうか。私たちの街へ」
「……ああ」
 王都に戻った後は、ただひたすらに陸路を南へ。
 そこから数日もすれば、あの懐かしくもおぞましい、薄紫の世界が二人を待っているのだ。


続劇

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