3.失われた記憶、失われた夜
聞こえるのは、声。
「お前は……生きろ」
薄れゆく意識の向こう。聞こえるその声は、いつも見ている夢と変わらぬものだ。
それは、かつて目覚めた彼女に残されていた、ただ一つの記憶。
「お前は……生きろ……ッ!」
その言葉に縋り付くようにして、彼女は記憶を失った後も戦い、生き延びてきたのだ。
だが、今日はそれだけではなかった。
「こんな所で死んでんじゃねえよ……。まだやる事があるんだって、言ってたろうが……っ!」
続くのは、男の言葉。
生きろと言ってくれた男の、次の言葉だ。
「……! 大丈夫なの!?」
そして聞こえるのは、男とは違う少女の声。
薄く目を開ければ、そこは燃えさかる屋敷の中だった。
メガリ・エクリシアのような、キングアーツ様式の鋼鉄の城塞ではない。白木をそのまま使ったらしき、もっと簡素な建物だ。
「ここは拙者が引き受け申す。瑠璃殿は、環殿達とお先へ!」
彼方から聞こえてくる声は、先程の少女に向けたものなのだろう。こちらに背中を向けたままで、顔や表情は分からない。
ただ一つ、頭に生えた黒縞の入った白い獣の耳だけが、状況の厳しさを物語るようにぴんと上へと伸びているのが印象に残る。
「いや……これ以上逃げるのは無理だろう。すぐに抗戦派が来る」
そんな名も知らぬ男に答えるのは、彼女の手を握ったままの男の声。けれどよく知っているはずの彼の声は、彼女が今まで聞いた事が無いほどに重く、険しいものだ。
「なら、ここで?」
「出来ますか? 瑠璃」
そして場にいた最後の声は、獣耳の男と同じく彼女の覚えの薄い声だった。しかし、あの男と違い、聞き覚えはゼロではない。
それは彼女の知るもう一つの夢。長い長いその中で聞いた……黒豹の脚を持つ、神揚の軍師の声。
けれどその物言いは、夢の中からは想像も付かないほどに優しく、瑠璃と呼ばれた娘への慈愛を感じさせるものだった。
「それは大丈夫だけど、アレク様が来ないと……環だけじゃ……」
「アレク殿は拙者が必ず。瑠璃殿はそれまでにお支度を」
「……すまん。……」
環は白い獣耳の男にそう謝り、名前を続けたようだったが……その先はがらがらと焼け落ちる木々の轟音に阻まれて、彼女の耳には届かない。
(どういう……ことだ……?)
そんな明らかな窮地の中。
彼女の身体は動かない。
それは今が夢だからか、それとも彼女が動けぬほどの深手を負っているからなのか。夢のせいか痛覚遮断があるからか、身体の痛みは一切を感じず……しかし思考だけは、驚くほど鮮明に働いている。
「なら……行くよ」
この場にいる、彼女を除けばただ一人の女性。
瑠璃と呼ばれた少女は意を決したように呟くと、その背に大きな翼を広げ……。
掲げた左手に輝くのは、その名と同じ色をした、小さな指輪だ。
(あれは……あれは、誰なのだ………。それに、ここは……!)
そして。
彼女の視界の隅にぼんやりと立ち、こちらを見つめているのは……。
「貴様は……誰だ………っ!」
瑠璃と呼ばれた少女でも、かつて夢で見た鷲の翼の少女でもない。もっと幼い、白い獣の耳を持つ娘。
かつて夢ではない戦場。人など生きられるはずもない薄紫の世界で、一度だけ目にしたあの娘。
その獣の耳は、あの大きな背中の男に生えた耳とよく似たもので……。
「誰だ……っ!」
そして。
その叫びと共に、彼女はその場に跳ね起きた。
○
夜の廊下を進んでいくのは、車椅子だ。
常夜灯のみしか灯らない、ともすれば影に隠れた障害物に気付く事も出来ないような暗い場所だが、仮面の女性にはそれはさして関係のない事だった。
車椅子に仕込まれた、人には聞こえぬ音を発する装置が、その音の反射から構築された光景をプレセアの仮面で覆われた視界に映し出しているのだ。
音で構成された視界の中。
反射された音ではなく、自ら音を放つ存在がひとつ。
「貴女……」
音で構成された世界は、位置こそ正確に掴めるものの、細かなディテールは読み取る事が出来ない。
故に暗がりでは少々不自由な、カメラアイからの通常視界に切り替えれば。そこにいたのは、廊下に身を預けるようにして歩を進めていた……。
「どうなさいましたの? ヴァルキュリア。こんな夜更けに」
「……何でもない」
何でもない様子ではない。
「何でもないなら、もっと平然としていらっしゃいな」
いまだ高めたままのプレセアの聴覚には、彼女の荒い呼吸と激しい心臓の音が聞こえてくる。
感情の起伏の激しいソフィアやジュリアならともかく、冷淡とさえ言える普段の彼女からすればあまりに不自然な状態だ。
「そう言うお前は、どうして……こんな時間に」
故に、ヴァルキュリアも調子を狂わせているのだろう。
彼女にしては珍しい問いかけに、仮面の美女は穏やかな微笑みをひとつ。
「ふふっ。少々、大人の楽しみを。……貴女もいかが?」
「…………」
プレセアの意のままに動く、車椅子からの腕にそっと手を取られ、ヴァルキュリアが選んだのは……。
煤煙に霞む月光の下。
小さなグラスに注がれるのは、琥珀色の液体だ。
無論、茶や果汁の類などではない。
「アディシャヤが生きている可能性……か。根拠は?」
グラスを静かに傾けながら、アーデルベルトは傍らの女にそう問い返す。
場にいるのは、彼を含めて三人。そしてその全てが、ひとつの秘密を共有する間柄だ。
「中佐さんだったら、目の前に虫の息の魔物がいりゃどうするよ」
「……なるほど」
エレのひと言は、ひと言故に説得力のあるものだった。
確かに魔物……かの国では神獣と呼ばれるその正体を知っていれば、アーデルベルトもそれを救おうとするに違いない。
「キングアーツにもこれだけあの夢を見た奴らがいるんだ。あの力の本場にそんな奴らが一人もいねえなんざ、ありえねえだろ」
夢の中の異国の民も、姿形こそ違えど、その心根はエレやアーデルベルト達と変わらないように見えた。
そう考えるなら、確かにシャトワールが向こうの陣営に助けられた可能性は否定出来ない。
「そうだね。知らなければ、あんな絵を描けるはずがない」
そして、先日の戦いでメガリ・エクリシアに運び込まれた、一枚の絵。
それを解読出来たのは結局セタ一人でしかなかったが、その解釈が正しいとすれば、少なくとも一人は神揚にも夢の記憶を受け継いだ者が……キングアーツとアームコートの存在を理解している者がいる事になる。
「なら、その可能性は考慮に入れるとして……。アレク王子はどう思う? 先の事を知っていて動いているのは間違いないだろうが……」
今の問題はそこだ。
アレクが夢の記憶を持っているのは、アーデルベルト以外の二人も間違いないだろうと思っている。思ってはいるのだが……。
「それにしちゃ雑すぎるだろ。自分が死ぬって知ってるなら、普通もっと慎重に動かねえか?」
「……知らなかったら?」
「どういう事だ?」
空になったグラスに新たな酒を注ぎながらのセタの言葉に、アーデルベルトは首を傾げてみせる。
「僕達の知ってる筋書きと、殿下の知ってる筋書きが、違うという事さ」
「……アレク王子の知る筋書きでは、王子は死なないという事か」
だとするなら、アレクの動きに関する辻褄は合う。
異なった前提で動くなら、その後の挙動が違うのは当たり前だ。
「……どこまで知ってるんだ、アンタ」
セタが注ぎ終えた酒瓶を次に取ったのは、エレである。
アーデルベルトの記憶が確かならば、セタが持ち込んだその酒は、アーデルベルト達が普段呑む安酒の数倍のアルコール度数と、ついでに言えば数十倍の値段を誇るはずだったが……エレにはそんな事は一切関係ないようだった。
「みんなと変わらないさ」
そしてエレもセタも、酒瓶の半分ほどを空けているのに顔色一つ変えた様子がない。
「だが、スミルナ調査は筋書きの内か」
数日後に控えた清浄の地への調査を、アレクは半月近くも前から決めていた。その日にそこまでこだわるという事は、どうしてもその日でなければならない理由があると言う事だろう。
「王子さんは何を知っているんだろうな」
そのシナリオが分かれば、彼がエレ達の本質的な意味での敵かどうかも分かるだろう。けれど、教えろと言って素直に教えてくれるような相手でもない。
「分からん」
確かなのは、そのシナリオに関する情報が、アーデルベルト達の記憶にはないという事だけだ。
話が行き詰まり、互いに沈黙を迎えた所で……。
「申し訳ありません、遅くなりました」
それを打ち破ったのは、バルコニーの入口に現れた静かな声だった。
「遅えぞ……って、珍しいのがいるな」
プレセアは予定通りだが、その脇にいるのは、メガリ・エクリシアの副官直属の少女である。
「……連れて来られただけだ」
いつもは無表情で冷たい印象すらある彼女だが、月夜の元ではどこか頼りなく、またふて腐れているようにも見えた。
「いいさ。……色々知っているのだろう?」
「何をだ」
アーデルベルトは僅かに考え……。
「俺とアーレスが、営倉で話していた話とか」
静かな月夜だ。特殊な聴覚強化など施していなくても、息を呑む音ははっきりと耳に届く。
「気付いていたのか……」
気配は消したつもりだった。しかし彼は、それを気付いていたというのか。
「あら。何の内緒話ですの? 怪しい」
「他愛ない夢の話だよ。けれど、その様子だと心当たりがあるようだな」
「……あんなもの、ただの夢だ」
そのひと言が夢の存在を暗に認めるという事に、まだ年若い少女は気付いていない。
「タダじゃ話せないってか。なら呑め呑め」
「いらん」
エレが差し出した酒はアーデルベルトの知る限り、間違いなく彼女の持ち込んだものではなかったはずだが……持ち込んだ本人が穏やかに微笑んでいるので、何も言わない事にする。
(そういや、士官学校の寮で酒盛りしてた時も、コイツどこからか酒持ってきてたよな……)
しかも士官候補生の俸給程度では間違いなく買えないような逸品を、だ。
「そうですわね。情報にはそれなりの対価が必要。……なら、こういうのはいかが?」
「……何だ」
「貴女は私たちに貴女の見た夢の話をする」
プレセアの提案に、ヴァルキュリアは硬い表情を崩さないまま。
「そのお礼に、私が貴女の事を調べてあげる。軍に入る以前の経歴は抹消されていましたものね」
「……どうしてそれを」
「さあ。どうしてかしら?」
書庫に至る廊下を青い顔をして向かっていれば、用事の見当くらい付く。
何より情報は商売の基本にして最大の武器。メガリ・エクリシアで気になった人物の軍歴くらいは、プレセアもひととおり目を通してある。
「だが……出来るのか。そんな事が」
ヴァルキュリアが軍に身を置いているのは、そこからの記憶しかないからだ。軍歴も同じく、記憶が始まった所の物からしかない。
キングアーツ軍の軍歴を作った調査部隊が調べられなかった事を、プレセアは調べられるというのか。
「少し時間は戴きますけれど、イクス商会の情報網を使えば難しい事ではありませんわ。それで調べられなければ、それこそ神揚の民か、スミルナ・エクリシアの原住民なのではなくて?」
そして今のところ、その可能性はゼロに等しい。
かの神揚の民でさえ、この呪われた滅びの原野を完全踏破しキングアーツに至ったという情報はないのだ。
「貴女にとって、悪い取引ではないと思うけど」
ヴァルキュリアはその問いに、僅かに沈黙を守った後……。
「……少し、考えさせてくれ」
小さくそう、呟くのだった。
続劇
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