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8.鯨神千客万来 (くじらがみせんきゃくばんらい)

 琥珀色の霧をゆっくりと割り裂いて降下してくるのは、あまりと言えばあまりに巨大な物体であった。
「……これが『鯨』というやつか」
 さしもの鳴神も、ここまで大きな神獣を見るのは初めてだ。彼の愛騎である雷帝もかなり大型の部類に入るが、この巨体の前ではそれさえ小兵に見える事だろう。
「これで、戦えます」
 そんな彼の隣で呟くのは、奉である。
 あの巨体の中には、帝都から彼用に調整された神獣を含む、多くの補充騎が積まれているはずだった。
「あまり気負うなよ、若いの」
 誘導のために地上から飛び立ったリーティの黒い烏を眺めながら、鳴神はあえて軽い口調で笑ってみせる。
「分かってはいるのですがね。……本当はもう少し、昼寝の一つもしていたいです」
「全くだ。昼間から酒を呑めば叱られるし、因果な商売だな」
 彼の属するトウカギの家は、王家に代々仕える神職の家系だ。万里の側仕えとして彼女に仕えている事が、全て彼の意思で行われた事かどうかは、恐らく彼自身さえ理解する事はないだろう。
「それと、もう一つお聞きして構いませんか?」
 無言で促す鳴神に、奉は僅かに声を潜め……それでも確かに、そう問うた。
「どうして貴方は……あの評定の時、半蔵の化けた沙灯の姿を見て驚いたのです?」


 白木造りの政務の間に通されたのは、猫科の性質を受け継いだ二人の娘達だった。
「柚那・ミカミ、珀亜・クズキリ、到着致しました。こちらが搬入した神獣と補充物資の一覧です」
「ご苦労様。優理は元気にしている?」
「はい。万里様に申し訳ない……と言付かって参りました」
 彼女が王都に戻った直後に、戦友であった珀亜の兄は壮絶な最期を遂げたのである。柚那は明るくそう言っているが、実際の姉はその事をかなり気にしているようだった。
 その罪滅ぼしの一つでもあったのだろう。彼の遺志を受け継ぐと宣言した彼の妹を、異例の速さで戦場へと送り届ける事が出来たのも、ひとえに彼女の後押しあっての事だ。
「構いません。子を産み、育てるのも神揚の民の大事なお役目です」
 もちろん彼女の戦線離脱に対して、万里が思うところは何もない。ただ、早くこの地を平和にして、彼女と彼女の子供を招きたいという思いを持つだけだ。
「それと……珀亜・クズキリさん」
「はっ」
「お兄様には、申し訳ない事をしました」
 武勇に優れ、いずれは八達嶺を……いや、神揚を支える有能な将となっただろう人物だった。しかしその夢は、今や永劫に絶たれてしまったのだ。
「兄より後の損害はなかったと聞きました。あの戦場で殿を務めた事を、兄は誇っておりましょう」
 だが万里の謝罪を、彼女は穏やかに否定する。
 それは彼女の……いや、その内に宿る彼自身の、紛う事なき本当の気持ちであった。
「……さて。聞いてるとは思うけど、以降はミカミさんは万里の馬廻衆、クズキリさんは私の隊に入ってもらいます」
 短い挨拶を終えれば、万里の傍らに控えていた昌から伝えられたのは、今後の配置である。
 それはこの八達嶺までの旅の途中、空の上で確かめた辞令と同じ内容だった。
(ミズキ衆か……ちと、やりにくいな)
 昌からそんな説明を受けながら、珀亜は心の内で小さなため息を吐く。
 彼女に対して特に思う事があるわけではない。ただ、かつての戦友の元で部下として戦う事が、いささか居心地悪く思えただけだ。
「それじゃ、後の案内は……」
 その言葉に応じて、昌の後ろに控えていた足軽装束の少女が進み出た。
「千茅・クマノミドーと申します。本日は、お二人のご案内をおおせちゅ…………」
「……仰せつかりました、ね」
 既に千茅は半泣きである。
「お、仰せつかりました!」
 そんなどこか微妙な雰囲気のまま、珀亜と柚那は政務の間を後にした。
 一人は死ぬ前に。
 もう一人は夢の中で歩き慣れた八達嶺を、もう一度案内されるために。


 笑いながらの鳴神が手短に語ったのは、王家たるものの本質であった。
「……ナガシロ家の秘中の秘、ですか」
「うむ。俺が帝都からの密使であれば、この瞬間にお主の首と胴は離れておろう。……あの時の敵国の娘のようにな」
 鳴神は彼のさらなる追求を避ける体を装いながら、その言葉の内にあの夢を見た者だけにしか分からぬ符丁を組み込んでいく。
「では、これ以上は嗅ぎ回るなと?」
「そうは言っておらん。俺にとっても、お主の軽挙は大きな収穫であった」
 あの夢の中で沙灯は、術が及ぶのは彼女の力の及ぶ人数、と言っていた。少なくとも今の時点で、自分を合わせて三人はあの夢を見た者がいる事になる。
「……言うたであろう? 若い内は無茶も良い。死ななければ、とな」

 神獣厩舎から食堂を抜け、生活の場となる兵士宿舎へ。
 千茅の案内は道こそ間違っていなかったが、いまだ新人の性か、どこか微妙に怪しさの残るものであった。
 もっとも、珀亜も柚那も八達嶺内の施設に関してはひととおりの事は頭に入っている。むしろそれは案内を受けるというよりも散歩に近いものだった。
「そっか……。お二人とも、ちゃんとした理由があるんですね……」
 珀亜は、兄の想いを受け継ぐため。
 柚那は、戦線離脱した姉の後任として。
 歩きながらの話の中で、千茅は二人の武官としての由来にため息を吐くことしか出来ずにいる。
「でも、千茅ちゃんも八達嶺の市街地からの志願兵でしょ? すごいじゃない」
「……全然すごくなんかないです」
 千茅には、二人のように背負った物はない。それが彼女にとっては、羨ましく……そして、眩しくも見えてしまうのだ。
「そんな事はない。剣を持とうとする事は、相応の決意があってこそだ」
「はは……。……そんな大層なものじゃ、ないですよ」
 珀亜の言葉にも小さくため息を吐いてみせるだけ。
(……あんな夢見たからだなんて、言えませんよね)
 彼女が八達嶺の市街地から志願したのは、ある夢を見たからだった。
 それは、出会いと別れの物語。
 八達嶺の長と、北の巨人の国の長が巡り会い……そして、悲劇的な別離を迎える物語だ。
 夢の中では二人がいなくなった後、最後の決戦に慣れぬ神獣と共に志願兵として立ち会った彼女だが……。
 何かが変えられるならと、今はこうして、夢の中とは違う場所に立っている。
「あ、えっと、ここが……」
 だが、そんな冗談のような話を他人に話せるはずもない。
 だからこそ、千茅は誤魔化すように次に案内すべき場所を指差すが……。
「浴場だろう。男湯と女湯は月替わりだな」
「確か、手前の扉は立て付けが悪いのよねぇ?」
「……なんでそんな事まで知ってるんです?」
 千茅はまだ八達嶺の城に上がってひと月経っていないから、今の男湯の様子を知らずにいる。
 そして扉の立て付けも、実際に入るまで気が付かなかった。
 まるで二人とも、この浴場に入り慣れているかのようで……。
「……あ、兄に手紙で」
 珀亜がそれを知っていたのは、兄からの手紙などではなく、つい先日まで実際に入っていたからだ。
「……お姉ちゃんに手紙で」
 そして柚那も姉からの手紙などではなく、長い長い夢の中で、何度も世話になった場所だったから。
「はぁ……。それじゃ、次、行きますね。夜の歓迎会までにはひととおり回った方がいいと思いますし……」
 そんな細かい事まで手紙でやり取りするような兄や姉だったのだろうか。
 仲が良いのを羨ましいな……などと思いながら、千茅は次の目的地へと歩き始めるだけだ。


続劇

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