-Back-

 戦いは終わった。

 指揮官である狐頭九尾の怪物の撤退に合わせるかのように、魔物の群れは彼らの住処たる南の巣へと退いていった。本来であれば追撃を掛けるはずの鋼鉄の騎士達も、その時ばかりは彼らを追う気力など持ち合わせているはずもなく……。

 それから、数日の後。

「兄様………」

 白い蒸気と、灰色の煤煙に包まれたその街。
 普段ならアームコートの出撃や物資の輸送で賑わう、メガリ・エクリシアの大通り。

 その終着点、城前の広場に広げられているのは、彼らが属するキングアーツの王国旗。
 旗を掲げるという習慣は彼らにはない。
 彼らの旗は、鋼の手足。
 彼らの紋章は、鋼の戦衣。
 王の技巧たる義体とアームコートこそ、彼ら王国の兵達が掲げる旗の代わりとして相応しいものだったからだ。

 そんな王国旗が用いられるのは……王国の名の下に散っていった英雄を、弔う時だけ。

「兄……様ぁ………」

 アレクサンド・カセドリコス。
 キングアーツ第二王子にして、キングアーツ南部開拓軍 メガリ・エクリシア司令官。
 王位継承権は、第二位。

「兄様ぁ………っ!」
 肩を震わせる小さな身体をそっと抱き寄せてやりながら、銀髪の青年も溢れる涙を止める事が出来ずにいる。
「あの戦いで、上手くいくはずじゃなかったのかよ……」
 そのはずだったのだ。
 あの戦いで、全てが終わって。
 アレクも、環も、ソフィアも。
 そして、アレクが選んだ少女達も……。
 全てが上手くいくはずだったのに。
「何でお前が死んじまうんだよ……。やっとここまで来たのに……今度は上手くやるって言ったじゃねえか……アレク……!」
 青年の慟哭は、もはや友には届かない。
 煤煙に烟る空に、空しく消えていくだけだ。





第4回 前編




 薄暗がりの世界は、琥珀色の霧の彼方に掛かる雲だけが原因ではない。
 いつもなら上げられているはずの御簾は、降りたまま。寝所を隠すそれが上がらぬ限り……そこはいつまで経っても薄暗がりのままだろう。
「姫様の具合は」
「まだ……」
 そんな御簾を視界の隅に置き、ため息を吐くのは黒豹の脚を持つ青年だ。
「それにしても、巨人の正体か……」
 側仕えの沙灯から、既に報告は受けていた。
 巨人の中には人がいる。
 けれどそれは、巨人に囚われたわけではなく……彼ら自身の意思を持って、巨人と共にいるのだという。そして万里が倒した灰色の巨人の中には、彼女と結ばれる約束をした青年が、自らの意思を保ったまま乗っていたのだと。
 だがそれが分かったのは、万里が灰色の巨人を打ち倒した後の事。
 灰色の巨人に乗っていた人間も、薄紫の呪いの空気の中では生きる事が出来ない。故に……。
「……しばらく、執務はこちらで引き受けます。小官には何も出来ませんから」
 戦いが始まるまでは希望に燃え、幸せの絶頂にいたことだろう。そこからいきなり絶望の底のさらに底まで……いや、そんな甘い予想を絶するほどの彼方の底へと、一瞬で叩き落とされたのだ。
 それにテウメッサの人型への強制変形も、彼女の肉体に大きなダメージを与えているはずだった。これでテウメッサの中から出、滅びの原野までその身を晒していればどうなったか……テウメッサ自身が万里の暴挙を拒み、沙灯が彼女達を戦線から無理矢理引き離していなければ、本当に取り返しの付かない事になっていただろう。
 そんな万里に青年が出来る事など微々たるものだ。
「姫様を頼みますよ、沙灯」
 後の事を鷲翼の少女に任せ、青年はその場を後にする。
 青年の背中を見送って、沙灯が戻るのは御簾の中。
 薄暗いその世界でぼんやりと身を起こしていたのは……。
「万里……起きてたんだ?」
「…………沙灯ぉ」
 やつれ、涙でくしゃくしゃになった顔を、沙灯はそっと抱きしめる。
「沙灯ぉ………私……私ぃ……っ!」
 あの日から、もう何度こうしただろう。
 目覚めては泣き、泣き疲れて眠れば悪夢にうなされ、恐怖に叩き起こされてはまた泣きじゃくる。
 食事もろくに喉を通ってはいない。
「大丈夫。万里、大丈夫だから……」
 憔悴し、艶を失った黒髪を撫でながら……沙灯も万里の耳元に、そう声を掛ける事しか出来ずにいる。
 ロッセは自分には何も出来ないと言った。
 だが、それは沙灯も同じ事だ。
 同じ事……。
「……ね、万里」
 呟いたのは、主の名。
 本来ならばロッセのように姫様と呼ぶべき相手。それを私的な時間だけとはいえ呼び捨てにして許されるのは、幼い頃から共に育った護衛兼側仕えとしての特権だ。
「ぐす……っ」
 そんな主はしゃくりあげたまま、沙灯の呼びかけに答えない。
「万里。わたしが万里の護衛だって、知ってるよね」
 答えないが、小さな頭は腕の中で頷きを返してくる。
 それを少女の答えと理解して、沙灯は優しく言葉を紡いでいく。
「何でわたしが護衛なのか、分かる?」
「…………私が」
 反応が、来た。
 数日ぶりに聞いた、泣き声と名前……そして悔恨以外の万里の言葉。
「私が……いて欲しいって言ったから」
 二人が少し大きくなり、沙灯の体調不良が目立ち始めた頃、沙灯を万里の側仕えから外す話が出たことあった。それを聞いた万里は必死にそれを止め、沙灯に泣きながら抱きついて離れることをせず……結局、万里の最初で最後の我が儘が叶い、二人の関係はそのまま今も続いている。
 以来ずっと、沙灯は万里の護衛兼側仕え、そして世話係兼親友の神術師として、万里の側にいてくれていたのだが……。
「違うよ」
 それを、沙灯は優しく否定した。
「……ホントは、ヒサ家の神術師だから」
 ヒサ家は万里たちナガシロの家に仕える、古い神術師の一族だ。一族全てが翼を持ち、空からの神術と大きな翼で仕える主を護り、助け、導いてきた。
「ヒサ家の……翼?」
 体の弱い沙灯ではあるが、それでもその神術や翼には何度も助けられた万里である。護衛としての確かな結果を残している事も、今の沙灯が万里の側にいられる原因だと万里は理解していたのだが……。
「違うよ。ヒサ家だけに伝わる、特別な術があるの。そのおかげ」
 神術も、翼も、鷲の瞳も、その力の前では余録でしかない。
「ホントは掟で、万里には言っちゃダメって言われてたんだけど……」
 それは、生まれて初めて聞く話だった。
 沙灯の事なら何でも知っている……などと思うような年でもない。けれど、沙灯が万里に秘密を持っていたことが……万里には、少しだけショックだった。
「時間を戻す術、だよ」
「時間……を……?」
「うん。一回だけ。自分が戻りたかった時間に……記憶を持ったまま」
 神揚帝国の第一皇女は聡い娘だ。
 いかな悲しみのどん底にあろうとも、紡がれた言霊を正しく解し……鷲翼の神術師が言いたかった事を理解してくれるだろう。
「じゃあ………あの戦いの、前に……?」
「戻れるよ。何人戻せるかはわたしの力次第だけど……万里一人だけなら、大丈夫」
 それがヒサ家に伝わる秘伝の奥義。
 神術が使える事が珍しくない神揚において、少女が神術『師』と呼ばれる所以。
 一族固有の奥義を伝えられたが故に、少女は彼女の側仕えとして、神術師として、体が弱かった幼い頃から万里の側に仕える事を許されているのだ。
「だったら戻して! お願い! 私、アレクを殺したくなんかない!」
 沙灯の話が確かならば。記憶もそのままに戻れるならば。
 あの戦いの寸前に戻れば、万里は灰色の巨人を倒さずに済む。巨人が囁きかけた少女の名前に応える事も……それどころか、あの決戦すらも、回避する事が出来るかもしれない。
 もう一度やり直せれば、みんなが幸せになれるのだ。
 アレクも、沙灯も、ソフィアも……。今度こそ愛しい人たちと、みんなで幸せに。
「分かった。じゃあ………使うね」
 狐耳の姫君の縋り付くような懇願に優しく頷き、沙灯は小さく言葉を紡ぎ出す。独特の抑揚を持ったそれは、神術の構築と発動を促す古い古い時代の言葉。
「…………沙灯」
 だが。
 その古い言葉を耳にしていた万里は、ふと神術師へと問いかけた。
「何?」
「どうしてそれを、黙っていたの?」
 一度きりという制限は分かる。
 恐らくは、万里に向けられた暗殺や不測の事態に備えての保険として、沙灯は万里の側に付けられたのだろう。
 しかしそれだけなら、沙灯がここまで術をためらう必要はなかったはずだ。例え一度きりのやり直しが出来なくなったとしても、今の沙灯には十分な護衛としての実績がある。それに、万里が沙灯を手放す事などありえないのだから。
「……代償が、ちょっとね」
 神揚帝国の第一皇女は聡い娘だ。
 いかな悲しみのどん底にあろうとも、紡がれた言霊を正しく解し……鷲翼の神術師が言いたかった事を理解してしまう。
「でもいいんだ。こんな万里、見てられないから」
 ……それどころか、隠しておきたかった事さえも、理解してしまう。
「代償? どうなるの?」
 魔力を失うのか。
 沙灯が大切にしている、鷲の翼を失うのか。
 それとも、記憶の一部か、何かもっと大きなものか。
「でも、私は沙灯とずっと一緒にいるよ。だって……」
 沙灯は沙灯だ。
 万里の側仕えにして、幼い頃から共に育ったただ一人の親友。
 例えどんな事になろうとも、万里は沙灯と共にいる。護衛としての力を失っても、万里の記憶を失い、あるいは嫌いになったとしても……万里のこの記憶が続く限り、絶対に離れたりはしない。
「代償は……わたし」
「沙灯……? 沙灯が、どうなるの?」
 代償は、沙灯の何かではなかった。
「消えちゃうの。この、世界から」
 何かではなく……沙灯そのもの。
 それは、いかに聡い第一皇女にも、予想だにしない答えだった。
「消え……ちゃう……。あ、でも、時間が戻ったら!」
 例えこの世界で消えたとしても、時が戻ればその時間の沙灯はいるはずだ。それが今の沙灯と同じなのかはさしもの万里にも分からなかったが、記憶と想いをそのまま引き継ぐ術だというなら、それは今の沙灯と変わりないのではないか。
「消えるのは、世界全部から。だから、その時間からも消えちゃうんだって」
 それは、過去の神術を『使われた』者達が告げてきた事実。
 巻き戻された世界からは、術者の姿だけが抜け落ちていたのだという。守られたナガシロ家からも、術を伝えるヒサ家そのものからも。
 故に、万里にその真実は伏せられていたのだ。
 万里が討たれたとき、身代わりとして沙灯が心置きなく力を使えるように。
 そして彼女が万里の側にいたのは、もしもの時にも迷いなくその身を捨てられるように。心の底から彼女を護り、救いたいと、自身からその術を紡げるように。
「え…………」
 ならば。
 戻された世界は、沙灯のいない世界という事なのか。
「じゃ、使うね」
 耳に届くのは、独特の抑揚を持った古の言葉。
「やだっ!」
 だが万里は、沙灯の小さな身体を力任せに抱きしめて、その詠唱を無理矢理に止めてみせる。
「万里……」
「やだ! アレクがいても……沙灯がいないんじゃ、そんなの意味ないよ……!」
 記憶が受け継がれるのだとすれば、万里の沙灯への想いだけはそのままになるのだろう。
 ならば……万里は、沙灯を失ったという記憶を持ったまま、残りの生を過ごさなければならない事になる。誰も万里を知らない世界でたった一人、沙灯への思いを残したまま。
「もう、誰もいなくならないでよ……」
 アレクを喪った事は悲しい。
「いなくなっちゃ、やだよ……」
 けれど、彼を取り戻す代償として沙灯を喪うなど、決してあり得ない事だった。
 アレクを喪ってぽっかり空いた心の穴が、そのまま沙灯を喪った悲しみに……いや、それよりもさらに大きな悲しみとなって入れ替わるだけではないか。
「万里……」
「沙灯ぉ…………」
 薄暗がりの寝所に、少女達の嗚咽の声が、静かに流れていく。


 薄暗がりの空は、メガリ・エクリシアにとってさして珍しいものではない。
 白い蒸気に灰色の煤煙。密度が増せば、それは自然と差し込む日差しを遮る雲となるからだ。
「ソフィアが……?」
 そんな薄暗がりを望むエクリシアの執務室。
 大きな机を前にして茫然と呟いたのは、銀髪の青年だ。
「うん。今日付で、メガリ・エクリシアの司令官を拝命したわ」
 大きな執務机に座るのは……かつては、この前線基地の司令官であった黒髪の青年将校だった。
 しかし、今座っているのは金髪の少女。
 彼の妹にして、カセドリコス王家の第一王女。
 アヤソフィア・カセドリコス。
「無茶だろ……。なんでソフィアなんだよ!」
 血筋としては、ソフィアもカセドリコス王家の直系だから問題無い。
 けれど、いち軍人、いち将校としての技量はともかく……このキングアーツ屈指の重要拠点の指揮を取るには、司令官としての知識も経験も足りなさすぎた。
「他にいるだろ。王族なら、カイトベイ様とか、ラスアルティン様とか」
 王族である事が重要ならば、アレクとソフィアの間にも二人の王子がいる。
 どちらもいまだ軍属だし、アレクほどとは言わないが、少なくともソフィアよりははるかに司令官としての経験を積んでいる者達だ。
「カイト兄様はイサイアスの司令官だし、ラス兄様はグレ兄様の補佐で、西部開拓の最中でしょ?」
 メガリ・エクリシアの北に位置するイサイアスのメガリは、大陸中部の開拓の重要拠点。
 中部よりもはるかに強い紫の瘴気に侵された西部地区の開拓も、キングアーツにとっては根幹を成す一大事業だ。
「だから……あたしが父様や兄様達にお願いしたの。やらせてくださいって」
「何で……」
 そう言いかけて、環はそれ以上の言葉を紡げない。
 理由は掃いて捨てるほど在る。むしろ、ソフィアの性格でこうならない方がおかしいのだ。
「魔物は、あたしが全部倒したかったから」
「ソフィア……」
「それだけじゃないよ。万里達の事も、他の兄様達に任せたくなかったし……」
 彼女の数少ない心許せる友の居場所を、最後まで責任を持って守りたかったのだ。もちろん、兄の遺志を継ぎたい気持ちや、スミルナの交渉役という彼女が初めて任された大役を果たしたいという想いもある。
 いずれにしても、彼の地の事だけは兄王子達に任せたくはなかったのだ。
「そうだ……兄様の事、万里達にも伝えなきゃ……」
 そこまで言って、ようやくその事に思い至る。
 あの戦いの事をまだ万里は知らないだろう。辛い役目だが、それを果たすのも……交渉役としてスミルナ・エクリシアを任された、ソフィアの大事な役目のはずだった。
「………それでね、環」
 万里達の件から思考を戻し、ソフィアは再び目の前の青年へと話題を戻す。
「環にも、手伝って欲しいんだ」
「俺に?」
 青年の問いに、少女は思わず言い淀む。
「……えっとね。父様や兄様達は、ホントはあたしがエクリシアの長になるの、反対したんだ」
「当たり前だろ」
 ソフィアの経験不足は、父王や兄王子達にも揃って指摘された所である。流石にこればかりは、いかにソフィアといえども反論のしようがない、厳然たる事実であった。
「けどね……環が補佐になるなら、いいって言われたの」
 しかしそんな未熟なソフィアでも、長年アレクのもとで補佐を務め、メガリの管理の大半を司っていた環が補佐を務めるならば……その経験不足を補う事が出来るだろう。
 それが、父王や兄王子達から出された、ソフィアがこのメガリ・エクリシアの長となる事の条件でもあった。
「だから、環。あたしに力を貸して。このメガリを守って……魔物を全部、倒すために」
 だが、そんな少女の言葉に、目の前の青年は沈黙を守ったまま。
「お願い……」
 ソフィアは席を立って駆け寄ると、環の鋼の両手をそっと握りしめた。
 鋼の義体は、ひやりと冷たいままである。
 けれどそれは、内に宿る熱い意思を覆い隠すための冷たさなのだと、キングアーツの軍人達は口々に言う。それはソフィアもアレクも……そして、環も同じなのだと、ソフィアは信じて疑わない。
「……ダメ?」
 呟き、鋼の両手を握る手に力を込める。
「…………いいぜ」
 やがて青年の口から漏れたのは、ため息だ。
「ホント!?」
「ま……他の王子連中が来るよりはマシだろうからな」
 親友と護り育てた、大事なメガリだ。
 大して面識もない弟王子達に好き勝手にされては、その親友の死も浮かばれないだろう。
「それじゃ……!」
 ならばどれだけじゃじゃ馬で、経験不足だったとしても……彼の想いを受け継いだ、妹姫に預けた方がマシだった。
「ああ。やってやるよ……」
 差し出された小さな手を、青年は静かに握り返してみせる。

続劇

< Before Story / Next Story >


-Back-
C-na's 5th Dimentional Labyrinth! "labcom.info"
Presented by C-na.Arai