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「ぷはーっ!」
 分厚いテーブルに勢いよく叩き付けられたのは、空になったジョッキ。
 吐き出した息は酒臭く、青年の顔は既に真っ赤に染まっている。
「……少しはわきまえろ。勇者様」
 向かいに座るのは、フードを目深に被った男だ。彼の前にも酒のグラスが置かれているが、青年ほどペースは速くないのだろう。乾杯の後も、さほど量を減らした様子はない。
「ばっかおめぇ、これが楽しみで帰ってきたんだろ。なぁ!」
「だよねー! 師匠、固いですよー」
 そして青年に元気よく応じるのは、長い髪を軽やかにまとめた娘である。
 まだ幼ささえ残る少女は、剣を腰に提げたままの青年や席の脇に木の杖を立てかけた男とは違って寸鉄帯びた様子もないが、これでも青年達の大切な仲間の一人だ。
「てかお前まで勇者様とか言うのやめね? それ言ったら仲間のお前らだって勇者様だろうが」
 だが、青年の言葉に娘は露骨に顔を曇らせ、フードの男も口元をしかめてみせる。
「ちょっと。そういうのやめてよー」
「そうだぞ。勇者の剣を抜いたのは、お前だろうが」
 青年は一行のリーダーだ。先陣に立って戦うのも、パーティの方針の最終決定を行うのも、彼の役目である。
 そして各所から任された困難な任務に当たるのも……勇者の剣をその手に取った、勇者たる彼がいるからこそ。
「そんなん知るか。今回だってお前らの魔法と調査がないと、どうにもならんかっただろ。お前らの手柄だよ。勇者様ども」
 勇者と呼ばれてはいるが、青年は単に剣の腕が立つだけでしかない。一行の決定権は確かに彼にあるが、それまでの判断や分析を行うのは魔術師たる男の役目だし、調査などで分析の足回りを固められるのは娘の働きあってのこと。
「ああ、魔法と秘術はないと死んでたから、師匠が勇者様でいいじゃないですか」
「いらん。お前らの勘と嗅覚があったからだ」
 ちらりと向けられた弟子兼仲間兼幼馴染みの娘の視線に、男は小さく肩をすくめるだけ。
 魔法も秘術も、使いこなせるタイミングあってのこと。
 男の固まった思考を外れた勇者の判断は、その絶妙なタイミングを何度も言い当ててきた。愚かで直情径行な所はあるが、その神がかり的な判断力は、男が青年に付いていく理由の一つでもあった。
「それに、今度の探索でアレが見つけられたのはお前のおかげだよ。これで俺の研究も……」
 男がそう呟き掛けた所で、テーブルにどんと置かれたのは料理の盛られた大皿である。
「はいはい。俺様にとっちゃ、三人とも偉大な勇者様だよ。依頼を回しといて何だけど、今回は正直三人揃って帰ってこられるとは思ってなかったからな……」
 依頼をこなす間に命を落とす者達は、決して少なくない。そして依頼の斡旋人を兼ねた酒場の店主は、長い経験のうちに依頼の難易度を自ずと判断出来るようになる。
 だが彼ら三人は、店主の勘と経験が警鐘を鳴らすどんな困難な依頼でも、必ず三人揃って戻ってきてくれていた。
「今日は俺様のおごりだから、好きなだけ呑んでいきな! 勇者の剣の勇者様!」
「やったマスター話が分かるぅ! じゃエールもう一杯おかわり!」
 通い慣れた店の親父相手に、遠慮する様子もない。勇者と呼ばれた青年は楽しそうにジョッキを突きだし、それをマスターも笑顔でカウンターに持ち帰っていく。
「……勇者様とその愉快な仲間くらいでいいんだけどなー。ね、師匠」
「そうだな」
 まあ、愉快かどうかはともかくとして。
 口の中でそう転がし、魔術師の男はグラスを小さく口に運んでみせるのだった。




Bre/Bre/Bre
[3/6]




 中天に上った太陽を見上げ、大柄な男は小さくため息を一つ。
「……全然違うじゃねえか」
 男が目指していたのは、この森でひと月の間過ごしたあの崖だ。
 男の旅は、長い長い時を経てもなお終わりの見えない、長い旅。元々戻れるなどとは思っていなかったからと……適当に前だけを見て歩いていたのが、失敗だった。
 太陽の位置を元に、現在位置を確かめる。
 近くの村で買ってきた森の地図と照らし合わせれば、確かにここが崖の位置であるはずなのに。
 目の前にあるのは、果てしなく広がる広葉樹林。
 ずれているどころではない。
「あの豚野郎」
 羊皮紙を丸めて背負い袋の中に放り込み、苛立ち混じりに足元の石を蹴りつける。
 とはいえ、進まないわけにはいかない。
 あのひと月で男が少女に教えたのは、自身を清潔に保つ方法と、簡単な料理の作り方。ひととおりの薬草の知識。
 そして……伝え忘れが、ひとつだけ。
「…………くそっ」
 問われるがままに様々な事を伝えたあの少女に、情が移ったのは否定しない。だが、無邪気な好意を寄せられて、必要以上の優しさを返してしまったのは……己の判断力の無さだと今更ながらに思い知る。
 その愚かしさは、男がどれだけの齢を重ねても……いかにそれを克服したと思っていても、完全に抜けきりはしないらしい。
 けれど、悔恨は全てが終わってからで良い。
「とにかく日の沈む方に……だな」
 崖から村まで、とにかく日の昇る方に進めば着いたのだ。逆に進めば、いつか巨大な絶壁は見えてくるはずだった。


 揺れるのは、緩やかなウェーブを描く蜂蜜色の長い髪。吹き抜ける風がもてあそぶに任せながら、少女は静かな森の中をゆっくりと歩いている。
 白いシャツが何故男物なのは良く分からなかったが……森の中を歩く少女の姿は、一枚の絵とするに相応しいだろう美しい光景だった。
 ただ一つ。
 少女の下半身が、黄色と黒に彩られた蜘蛛の体でなければ。
「あれが噂の蜘蛛女かー。ホントに腰から下は蜘蛛なんだ」
 口の中で小さく言葉を転がして、黒髪の少女は腰のホルスターの中身を確かめる。
 旅慣れた彼女にとって、森の中でそれらしい魔物を探し出すのは、さして難しい事ではなかった。
 どんな生物も、生きていく以上は生活の痕跡を残す。人とも、普通の動物とも違う痕跡を見つける事さえ出来たなら、後はその糸をたぐり寄せればいいだけだ。
「これはこれでいいとして……。大丈夫よね、ちゃんと動くよね」
 ホルスターの中の鉄の塊に、既に実包は装填済み。後は安全装置を解除して引き金を引けば良いだけだ。
 けれどそれは娘にとっても最後の切り札。確実に効果を発揮するタイミングで無ければ、使う意味は無い。
 試射と練習はいくらかしたから、大丈夫だとは思う。だが、実戦で使うのは初めてなのだ。腰の弓ほど素早く取り扱えるかどうかは微妙な所だった。
「頼むわよ……」
 念を押すようにそう呟き、もう一度ホルスターの上から軽く叩いてみせる。
「さて、どうするか。あんまり悪人っぽくないし、ホントにあの子なのかな」
 とはいえ、羊を喰らう狼も、群れの中では家族を可愛がるものだ。いかに愛らしい少女に見えても、人を襲うとなれば退治されてしかるべきだろう。
 蜘蛛脚の少女は息を潜める娘に気付く様子もなくのんびりと森を抜け、彼方まで見下ろせる断崖へと。
「ま、いっか」
 崖の高さは確認済み。例え銃の一撃が致命傷に至らなくても、無傷という事はないはずだ。その隙を突いて崖の上から叩き落とせば、さすがの蜘蛛女も無事では済まないだろう。
 仮に落として倒せなかったとしても、上から追加の攻撃も出来るだろうし、最悪、逃げる時間くらいは稼げるはずだ。
「とりあえず……」
 ホルスターの中身をもう一度確かめ、娘はゆっくりと立ちあがる。
「おーい!」
 あろう事か娘は大きく手を振りながら、蜘蛛脚の少女の前へと飛び出していた。


 急ぐ男が思わず足を止めたのは、遙か彼方に目指す崖を見つけたからでは無い。
 目の前の光景が、それほどの物だったからだ。
 広がるのは、一面の赤。
 腰の少し上から、おかしな方向に曲がった胴。
 そして、食い荒らされた躯。
「……森に入った奴らか」
 既に躯の大半が食い散らかされていて、表情はおろか性別さえも分からない。かろうじて分かるのは、髪が金色である事くらいか。
 だが、腰から下がる鞘に収まったままの剣から、そいつが襲撃に反応する間もなく仕留められた事は想像が付く。
「やはり野盗……?」
 辺りに散らばる旅の荷物は丁寧に暴かれ、中身はしっかりと物色されていた。脇に落ちている空っぽの小さな巾着袋は、この骸の財布だろう。
「……いや、違うか」
 赤黒く染まった革の背負い袋は、乾いた血糊が皺の所でボロボロと剥がれ落ちていた。殺した直後に荷物を物色したのであれば、血糊も開いた状態に沿ってそのまま固まっているはずだ。
 恐らく便乗犯が現われたのは、荷物に付いた血糊が固まってから。
「狼でもない……」
 狼の歯形も刻まれているが、狼や熊に襲われたなら、剣を抜く暇くらいはあったはずだ。おそらく狼も荷物を物色した便乗犯と同じく、他の何者かの遺したおこぼれに預かっただけだろう。
 周囲には目立つ足跡も無く、なぎ倒された木々なども見当たらないから、それほど大きな魔物でもない。故に、食人の性質のある一部の竜や巨人、大型鳥類も候補からは外れるとみていい。
 相手に気配を悟られる事無く近寄れて、剣を抜く間も与えず、恐らくは一撃で仕留める戦い方をする存在。
 狼が後でおこぼれに預かれるように、毒なども使わず……その一撃は、力任せか、あるいは魔法的なものか。
「犯人は隠密に長けた人間か……」
 考える男の視界に、ふと、小さな物が目に入った。
「……まさか、な」
 人間ほどの大きさで、気配を気取られずに近寄れ、一撃で相手を仕留めるだけの力を持つもの。
 確かに、人間ほどの大きさではある。
 だがそいつは、気配を気取られずに動く事も、一撃で相手を仕留める力も持たないでは無いか。森のあちこちに糸を使った罠を張り、ウサギなどの小動物を捕まえるのが精一杯のはずだ。
 故に、違う。
 違うのだ。
 違う、はずだ。
 視界の隅。木の葉の上を歩く小さな八脚の生物を見て、男は小さく頭を振り……。
 そこに、銃声が轟いた。


「っ!」
 それは明らかに、銃声だった。
 南方の鉱山街を旅していた頃、何度か目にした事がある。火薬を使う高価な武具だから弓矢ほど普及はしていないが、大した訓練をしていない者でも中位の射撃魔法ほどの破壊力を得る事の出来る、恐るべき武具。
 村から調査に出発した残る二人のうちのどちらかだろう。
 反射的に走り出そうとして、男は足を止める。
 銃声は高い所から聞こえた。恐らく少女達が居るのは、崖の上。
 ここから崖まで、どれだけ急いでもまだ半日はかかる。さらに崖を登ったとして、果たしてどれほどの時間が掛かる事か。
 道具屋で揃えた装備も、崖の上まで一足飛びに向かえるような都合の良い物では無いのだ。
 男は唇を噛み。
 ふと、気付く。
 手を伸ばしたのは、胸元だ。
 半ば習慣になっている動作によって姿を見せたのは、水晶で作られた首飾り。
 小さな羽根に、リング状の部品。幾つかの飾りと共に下がるそれを握り締め、強く願う。
 少女の事を。
 蜂蜜色の髪を揺らし、穏やかに微笑む少女の事を。
 無邪気に男にしがみつき、蜘蛛の体を撫でると喜んでくれた、あの少女の事を。
 そして。
 沈黙を守り続けていた水晶は、男の願いに応え。
 封じられた魔法を解き放った。


「あ……」
 それは、娘にとって予想外の事だった。
 無論、蜘蛛脚の少女に至っては、想像の外に過ぎる。
「え…………?」
 目の前で起きたのは、辺りに木霊する残響音の中、蜘蛛脚の少女がゆっくりと崖の下へと落ちていく所だった。
「え、何で!?」
 爆発音は、娘の腰から。
 慌てて銃を取り出せば、何と安全装置が外れているではないか。
「……さっきホルスターを叩いた時……!?」
 剣や弓と同じように戦闘前に気合を入れる意味でしたそれが、そのそもの間違いだったというのか。
「な…………」
 そして。
 崖下に落ちていった少女とほぼ入れ替わりにその場に現われたのは、光に包まれた『何か』である。
「え……っ? いや、え……!?」
 その中から現われた巨躯の男は、落ちていった少女の方を茫然と見つめていた。
 無論、娘の知らない顔だ。
「アンタ誰よ!? って、どこから来たの!」
 崖下に落ちていった蜘蛛脚の少女を確かめに行く暇も与えられないまま、娘はいきなり現われた男に声を投げつける。
 だが、その問いに男が答える事はなかった。
「て……めぇぇぇぇぇぇっ!」
 男が最初に光の中で感じ取った光景は、拳銃の残響音と、崖の向こうにゆっくりと落ちていく蜘蛛脚の少女の姿。
 そして、その手前にいる拳銃を握った娘の姿。
 光が治まり、自由が戻った中で感じるのは、全身の毛が逆立つような激情だ。
 駆け出した脚が一瞬で翡翠色の揺らめきをまとい、男の巨躯を猛烈な勢いで押し出していく。
 引き抜かれた大鉈は紅き切断の魔力に包まれて、娘がバックステップを掛けた瞬間には、盾代わりに構えた銃身を熱されたバターのように容易く断ち切っている。
「じ、事故よっ! 事故だってばっ!」
 バレルの半ばから両断されて使い物にならなくなった銃を投げつけるようにして放り捨て、太もものベルトに仕込んでいたスローイングナイフを抜き放つ。
 投擲とほとんど同時に響くのは、きぃんという高い音。
 男の瞳と両腕に宿る蒼い魔力は、光を放つ事はなく、ただそこにたゆたうだけで反応速度が格段に増した事を示している。
「ちょっ!」
 一瞬で弾き飛ばされたナイフに重なるのは、娘の悲鳴。
「こ、こんな化物、相手にしてられないわよっ!」
 慌てて森の奥へと逃げ込もうとした娘だが。
 気付いたときには、既に男は目の前に。
 まだ男の足に宿る翡翠の揺らめきは、その効力を失ってはいない。
「こ、降参! 降参っ!」
「テメェ、戦う気の無かったアイツに何をしたぁッ!」
 けれど娘の叫びは、男の怒りに油を注ぐだけでしかない。
「………くっ!」
 降参を無駄と理解して、大きく振りかぶる大鉈を前に腰に手挟んであった短剣を引き抜くが……これもどこまで通じるか。
 迷い無く振り抜かれた斬撃は、銃身よりも薄い短剣の刃などあっさりと両断し。
「…………ッ!」
 返す刀のトドメの次打を放つ一瞬。極限まで反応速度が強化された男は、振り抜いた大鉈をワンアクションでさらに翻した。
 横殴りの斬撃は、刃の背を以て横殴りの打撃へと。
「っ!」
 それは、娘の細い体を両断ではなく、吹き飛ばす力へとなって。
「ふぁあ……びくりしたデス」
「…………え?」
 娘の体は、崖からひょこりと顔を見せた蜘蛛脚の少女の横を、気持ちいいほどの勢いで吹っ飛んでいった。


 それから、ほんの少しして。
「ったくもう! 死んだかと思ったわよ!」
 崖のはるか向こうまで飛んでいった銃使いの娘は、地面の上にへたり込んだまま、半泣きでそう叫んでみせた。
「……いや、普通死んでるだろ」
 蜘蛛脚の少女に連れられて男が崖下に着いた時には、娘は既に地面で大の字に寝転んでいた。どうやら本人曰く、落ちる途中で高い木がクッションになって、落下の衝撃を吸収出来たらしい。
 実際は魔法の加護を受けた呪符でも隠し持っていたのだろう。この手の荒事に手を出す連中なら隠し球の一つや二つあるのは当たり前だし、男もそれ以上は問わない事にする。
 少なくとも娘が生きているのは確かなのだ。
「それより、あんたはなんで助かったのよ」
 ひとしきり喚き散らした後、娘が問うたのは蜘蛛脚の少女に向けてである。
「…………?」
 その問いを、少女は理解出来ていないようだった。
 傍らの男にしがみついたまま、小さく首を傾げてみせる。
「銃の暴発にびっくりして、崖から落ちたじゃない!」
「……ジュウ?」
 実物で説明したい所だが、肝心のそれは激昂した男によって真っ二つにされてしまった。
「ジュウ、よくワカラナイ。でも、バン、とてもびくりしたデス」
 どうやら驚いて足を滑らせただけらしい。
「じゃあ、崖に落ちて助かったのは?」
「歩くとき、いつも糸引いてる。だから足、滑らせても平気」
 言われてみれば、確かに少女の蜘蛛の腹の先端からは、細い糸が地面に垂れ下がっていた。驚いて崖下に落ちた時も、これが彼女の命を救ったのだろう。
 まさに天然の命綱だ。
「あー。そういう事ね。あたしその勘違いで、この山男に殺されそうになったんだー」
「……山男言うな。つか、最初にお前がこいつ殺そうとしたからだろ」
「だから、事故なんだって! 暴発……って言っても分かんないか。銃の仕掛けが勝手に動いちゃったのよ!」
 大穴の空いたホルスターを見せられるが、元の形状が分からない以上、男もそれがどういう事なのか今ひとつよく分からない。
「……儀式魔法が勝手に発動したようなもんか」
 滅多にない事ではあるが、特定の動作で発動するようにしてあった魔法が、不慮の事故やうっかりで予期せぬタイミングで発動してしまう事がある。おそらくはそういった事態が起きたのだろう。
「魔法ってアンタ、どう見ても魔法使いになんか見えないんだけど。マシに見て猟師か山男じゃないの?」
「うるせえ。悪いか」
 そもそもさっきの戦いでも散々魔法を使っているはずなのだが、目の前の娘はそれに気付いていないのだろうか。
「つか、アンタはないだろお前」
「じゃあ何て呼べばいいのよ。そっちの蜘蛛女も」
 娘に言われて、男はふと言葉を止めた。
「そういえば……お前、名前、何て言うんだ?」
 ニコニコしながら腕にしがみ付いていた蜘蛛脚の少女は、男の問いに不思議そうに首を傾げてみせる。
「…………?」
「名前だよ。名前」
 男からそう問われても、少女は首を傾げるだけ。
「ナマエ? …………ない」
「はぁ!? 何で名前知らないの……ってか、ないって!?」
 今度は娘が二人にため息を吐いてみせる番だ。
「じゃあこいつからは一緒にいるとき、何て呼ばれてたの?」
「いつも、オーイ、とか、チョト……とか」
「…………最低ね」
 娘の非難じみた視線に、男は聞こえないふりをして明後日の方向を眺めている。
 二人だけだったから、実際それで困らなかったのだ。
「二人はナマエ、ある?」
「ブレゲだ」
 男は短く。
「あたしはレ二でいいわよ」
 銃使いの娘は、不機嫌そうに。
「ブレゲと……レ二。わたしは……ナマエ……ない」
 二人の名前を口にして、蜘蛛脚の少女は明らかにしゅんとしてみせる。
「ブレゲが付けてあげなさいよ」
「俺がか?」
「他に誰がいるの? 義務でしょ、義務」
 そもそも初対面のレ二が付けるような事ではない。
 だがレ二の言葉に、少女はぱっと表情を輝かせる。
「ブレゲ! ナマエ、つけて! わたしもナマエ、ほしい……」
「そういうの、苦手なんだよな……」
「…………」
 とはいえこれ以上断れば、少女は再びうなだれてしまうだろう。
 ブレゲはその場に座り込んだまま、僅かにうなりを上げ……。
 やがて、少女の顔を見遣る。
「なら……ツヴィルン、でどうだ。古代魔法語で、糸の意味がある」
「つび………ん……?」
 けれど男渾身の名前に、少女は言いにくそうに首を傾げてみせる。やがて顔をしかめて舌を出しているあたり、どうやら舌を噛んでしまったらしい。
「……言えない名前付けてどうするのよ」
「じゃあ、ブレティニー」
「ブレティニー……?」
 今度は、さらりと口に出た。
「……どういう意味があるの?」
「俺の故郷に流れてた川の名前だよ。確か、糸の流れる川とか何とかって意味が……」
 そこからふと思い浮かんだだけだ。
「ブレ、ブレゲといしょ!」
「まあ、略したらティニーって所かしらね」
「そっちの方がややこしくなくて良いだろうな。ティニーか」
「ティニー……? わたし、ティニー……?」
 再び口にしたブレゲの言葉を何度も何度も繰り返し。
「じゃあ、ブレティニーでいいか」
「うん! いい! ブレゲといしょ、いい!」
 どうやらこれで、名前付けという大仕事は無事に終える事が出来たらしい。
「良かったわね、ティニー」
「うん! ブレゲ、レ二、うれしい! ありがとう! わたし、ティニー!」
 蜘蛛脚の少女……ティニーは、二人に満面の笑みを浮かべてみせるのだった。

続劇

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