-Back-

 それは一瞬の出来事だった。
 全身に響くのは、ごぎりという異音。
 武器を抜く暇はおろか、相手の正体を確かめる隙も、顔を向ける間さえも与えられない。
 体内を伝わって鼓膜に届いた異音の正体が、圧倒的な力で背骨を折り砕かれた音だという事さえ、哀れな犠牲者に理解出来たかどうか。
 夜を照らすのは上弦の月。
 おかしな形に折れ曲がった人体は、黒い髪を揺らし……そのまま糸の切れた操り人形の如く、その場にくたりと崩れ落ちた。
 迫るのは、影。
 一瞬で標的を葬り去った、影。
 相手の眼球は、既に機能を停止している。開いたままになった黒い瞳に映るのは、衣服を裂かれ、露わにされた腹に牙が突き立てられる光景だ。
 相手の鼓膜は、既に機能を停止している。もう二度と音を拾う事の無いそこに届く振動は、自身の内臓を喰らわれる、くちゃくちゃという咀嚼音。
 月明かりも届かぬ森の奥。
 漂うのは、余りにも濃い血臭だ。
 無論相手の鼻孔も口も、自らの血臭も口内にあふれる鉄の味も、とうに感じる事はない。
 その光景を見届けたのは、亡骸の血肉を食らう、殺したものだけだ。




Bre/Bre/Bre
[2/6]




 ゆっくりと昇る太陽が天の頂に掛かる頃。
 村で一軒しかない酒場の扉をくぐったのは、見上げるばかりの大男だった。
 ボロボロの背負い袋に擦り切れたコート、腰に提げた古びた大鉈。もっともそんな装いまで確かめずとも、小さな村では住人は皆顔見知り。
 よそ者である事など、立ち入った時の物腰だけですぐ分かる。
「水。あと何か適当に食えるもの」
 大きな躯をカウンターの小さな椅子にどかりと落として、男はひと言。
「…………」
 だが、男の言葉をカウンターの老人はじろりと一瞥しただけで、それ以上の反応を示さない。
「……これで、水と食えるだけのモノ」
「…………この辺じゃエールの方が安いよ」
 カウンターに銅貨を数枚置けば、老人は再び視線をこちらに向けて……ようやく言葉が返ってきた。
「ならそれでいい」
 大男の注文に、カウンターの老人はのろのろと作業を開始する。
「今日は何日だ」
 男の問いに、やはり老人は一瞥したきり答えない。
「今日は何日だ?」
「……青山羊の月の晦日だよ」
 再びの問いに、今度は渋々と答えが返ってきた。耳が遠いなら、聞き返してくるか、そもそもこちらに視線を向けたりはしないだろう。食い逃げを警戒しているなら、前金をカウンターに置いた段階で愛想も少しはマシになるはずだ。
 元々愛想が悪いのか、そうでないなら……。
「……そうか」
 故に、男も軽く流してみせるだけ。
 男が前の街を発ったのは、同じ月の初めだった。結局、まるまるひと月を蜘蛛脚の少女の所で過ごしていた事になる。
 近道として選んだはずのルートが、とんだ遠回りになってしまった。
「お客さん、森を抜けて?」
 そんな愛想の悪いはずの老人が、今度は向こうから話を振ってきた。
「ああ。山際の細い道を抜けてきた」
「へぇ……よくもまあ、無事で」
 実際には無事どころか、蜘蛛脚の娘がいなければどうにもならなかったのだが、無論説明する気など無い。老人の勘違いに任せておくことにする。
「だが、良く分かったな」
「東の砂地を渡ってきた連中は、最初に酒。西の森から来た連中は水を頼むんでね。……エールより水の方が安いなんて、信じられませんけど」
 西に広がる森の先にある街は、海に注ぐ大きな川が街を横切っているため、水には不自由しないのだという。老人自身はこの村から一歩も出た事はないから、今でも真面目に信じているわけではないが。
「それより、森は大丈夫だったのかい?」
 カウンターに生ぬるいエールとかさかさの固いパン、焦げ気味の薄い燻製肉を並べながら、老人は気味の悪い笑みを浮かべてみせる。
「……森? 道ではなくて?」
 パンも肉もエールでさえも、お世辞にも美味いものではない。塩を振っただけのウサギの串焼きと新鮮な野草に既に懐かしさを覚えながら、男は老人の言葉に眉をひそめた。
「森だよ。この半月ばかり、あの森で何人も行方不明になっててね」
 最初は、狩人の青年だった。
 若く力もあるが、それ故に自信過剰な所のある男だったから、熊に挑んで返り討ちにでも遭ったか、危険な山道を進んで踏み外しでもしたのだろうと誰もが思っていたのだが……。
「……野盗か?」
「この村襲った方がまだ儲かるだろうさ。俺なら街道まで行くけどね」
 それから、薬草取りの老婆と、薪取りの子供がいなくなった。
「薬草取りのばあさんは俺を取り上げてくれた産婆でね。森とも長い付き合いだから、子供や若いもんみたいに調子に乗るような事はないはずなんだが……」
 適当に聞き流しながら、質の悪い燻製肉を生ぬるいエールで流し込む。
「魔物でも来てるんじゃ無いかって事で、懸賞金も掛かってるんだよ。森に入れねえと、この街はやっていけないからね」
「…………ふむ」
 壁に貼り付けられているのは、羊皮紙に炭で書き殴られた幾つかの文字だった。所々間違っている文を目で追っていけば、『森の怪異を解き明かした者に賞金』とある。
 この手のトラブルを抱えている村の多くがそうであるように、どうやら男は怪異の正体ではないかと疑われていたらしい。
「どうだい、あんたも。もう何人も腕利きが森に行ってるよ」
「……生憎、そういうのには興味なくてな」
 深い森や山の麓にある村ではよくある話だ。いちいち付き合っていては、どれだけ時間があっても足りはしない。
 半月ほど前から始まった怪異というなら、それより遙か前から森で暮している蜘蛛脚の少女は関係ないだろう。人のいる所には近寄らないという父親の教えを守っていれば、事件調査に向かった腕利き達に出くわす事もないはずだ。


 森の中に揺れるのは、肩までの黒髪。
 細い腰に下がるのは革製の大きなホルスターと、やはり大きめの矢筒。肩から下がる小さめの鞄からは、折りたたみ式らしき短い弓が覗いていた。
 娘である。
 歩みを進める度にカチャカチャと音を立てる矢筒や荷物を合いの手に、のんびりと流れるのは、調子外れの鼻歌だ。
 それが、止まる。
「あンの豚親父……」
 程よい形に膨らんだ胸元から取り出したのは、ボロボロの羊皮紙である。炭の欠片で数行の文字が描かれた一枚目をめくり、表に出したのは二枚目だ。
「やっぱ全然違うじゃない。帰ったら覚えてなさいよ」
 方角の確認は旅の基本である。無論、娘もその術は身に付けていたが……自分の感覚が告げるそれと地図の相違は、誤差では済ませられないレベルに達しつつあった。
「依頼受けたの、失敗だったかなー」
 用事のついでと、大きな街に出た時の小遣いがてらに引き受けた依頼だ。正直な所、事件を解決してもしなくても、少女にとって損害はない。
「……ま、ついでだからいいか」
 ついで、なのだ。
 あくまでも。
 そんな事を呟きながら、再び歩き出した娘の鼻歌が止まったのは、少し進んでからの事。
「…………」
 あるのは僅かな沈黙と、迷いの表情。
「う……。どしよっかな……」
 辺りに漂うのは、いくら嗅いでも慣れる事は無く、出来る事なら嗅ぎたくは無い臭い。
 そして娘の経験からすれば、このままあと三歩も歩みを進めれば、その臭いの源に辿り着く……着いてしまう、はずだった。
「……けどまあ、なぁ」
 ぽつりと呟きはするが、選択肢など実のところあるようで無いのだ。
 黒い瞳を幾度かしばたたかせ、ため息を一つ吐いて、覚悟完了。
 畳んだ羊皮紙を胸の谷間にぐいと押し込んで、一歩、二歩……三歩。
 ジャスト。
 地図は間違っていたが、経験は嘘をつかなかった。
「……うぇぇ。やっぱこっちは、調べないでいいかな」
 小さくそう呟きながらも、娘は惨劇の調査を開始する。


「おや。旦那も森かい?」
 村に一軒しかない道具屋の扉をくぐれば、男を迎えたのは豚の顔をした小太りの男だった。
 比喩では無い。この地方では珍しくも無い、豚の性質を受け継ぐ獣人族である。
「……違う。シャツと靴底の換え……あと、石鹸はあるか」
「あるよ。……そうかい。最近はあの騒ぎのせいで森に行くお客さんが多いから、もしやと思ったんだけど……違うのかい?」
 奥の戸棚を掻き回して見つけてきたのは、小さな紙包み。がさがさと包装を開けば、中からひび割れた固形の物体が転がり落ちてきた。
「固い所を削れば十分使えるよ」
 男の不審な視線に平然とそう言い放ち、酸化しきった安石鹸を他の品の上にひょいと置く。
「オリーブの石鹸はないのか?」
「あるけど、森向こうの街で買った方が安いよ」
 お前のようなむさ苦しい男が使うのか? という視線を暗に感じながら、男は小さく咳払いを一つ。
「森にはもう何人くらい入ってる? 道具はここで揃えるんだろう?」
「なんだ、やっぱり行きたいんじゃないか。……ああ、隠してるのはちゃんと内緒にしといてあげるよ。こっそり行きたい連中もいるからね。例えアンタが魔物でも、俺を襲わないなら事情は聞かないよ。信用第一さね」
 おそらく世界でも五本の指に入るほど信用出来ない言葉を口にして、豚族の店主は口元を愉快そうにひん曲げてみせる。
 どうやら男も森の謎とやらに挑む勇敢な冒険者か、情報収集に来た人食いモンスターとしてカウントされてしまったらしい。もはや誤解を解く気力も沸かず、男は適当に相づちを打つだけだ。
「ウチで森の地図を買っていったのは、三人だね」
 多分この後で同じ話を振られたら、店主は「森に行ったのは四人」と誇らしげに答えるに違いない。
「地図を売ってる所は」
「自慢じゃ無いが、ウチだけだね」
 旅をしながら魔物退治を請け負うようなお節介な連中が探索を行うなら、足りない土地勘を補うために地図を求めるだろう。地元の狩人や山男達が調査をしていないなら、森に向かった物好きは三人……あるいは三組という事になる。
「もう少し挑戦者が来てくれると、ウチももっと潤うんだけどねぇ」
 報奨の額は、一般的な相場からすれば、笑えるほどに少額だ。偶然この村に寄って小遣い稼ぎにというならまだしも、噂を聞きつけてやってくる……などという物好きはさすがにいないはずだ。
 さらに言えばこの村は街道からも離れているから、善意の誰かが来る可能性はなおのこと少ない。その基準からすれば、三人の旅人は、この村の住人にとって三人『も』と評するに値する規模なのだろう。
「怪物の正体に心当たりは無いのか?」
「んー。ウチの死んだ爺さんが子供の頃には、人を食う蜘蛛女がいたとか何とか言ってたけどな……」
「蜘蛛女?」
「人間の女の上半身が、蜘蛛の顔あたりから生えてるんだと。何とかっていう旅の勇者様が退治しに行って、それっきり人食いはなくなったって聞いたけど……」
「……『勇者の剣の勇者』か」
「ああそれそれ。お客さん、よく知ってるねぇ」
 前に寄った街でも聞いた名だ。『勇者の剣』と呼ばれる王家の秘剣を扱いこなす、旅の勇者の血湧き肉躍る冒険譚。
「その勇者の倒した蜘蛛女が戻ってきたと?」
「さあねえ。その勇者様も結局戻ってこなかったって話だし、もう何十年も前の話だからな。俺が話聞いたときには、爺さんもう半分ボケてたし」
 男から差し出された硬貨を数え、豚族の男は再び口元をひん曲げてみせる。
「にしても、蜘蛛女なんてなあ。獣人の俺でも、そんな種族聞いた事無いぜ」
「……この村を出た事は?」
「ないよ」
 平然とうそぶく豚族の店主に苦笑いを浮かべ、男は荷物を背負い袋の中へ。
 おそらく他の旅人達も店主の話は聞いているだろう。
 だが、三人が例え三組でも、あの規模の森を探索するには少なすぎる。さらにその中で、あの崖の中程にある洞窟に辿り着ける者など……。
「で、結局旦那は行くのかい? 蜘蛛女退治に。勇者の剣ほどじゃないけど、よく切れる剣もあるよ」
 店の入口を誇らしげに指差して……うっすらと錆の浮きかけていたそれに、慌てて「研げばね」とあの笑い顔で取り繕ってみせる。
「そう……だな。考えておこう」
 小さく呟き、男は店を後にするのだった。


「うぇぇ……。何よ、これぇ……」
 ブーツに絡みついた粘つく何かに、黒髪の娘は不満そうな声を上げた。
 拾った枝で突いてみるが、その枝もねばねばと貼り付いてくる。どうやら強い粘性を持った物体らしい。
 娘の知る中で、最も近い物体は……。
「でも、普通の蜘蛛にしちゃ、大きいよねぇ。……やっぱり」
 踏み抜いたそこに掛かる細い糸は、そこらの蜘蛛の糸よりもはるかに太く、頑丈な物。もちろんそれに比例して、粘着力も相当な物だ。
 彼女も旅を続けて久しいが、そこで得た知識の中でもここまで太く強い蜘蛛糸を出せる種はいない。
 ならば、通常の生物では無い。
 魔法や特殊な配合によって、自然の摂理の外の原理で生み出された生物……魔物か、魔法生物のものか。
「……ま、どうするかは、正体確かめてからかなー」
 お気に入りのブーツだったが、恐らくは洗っても粘つきは取れないだろう。次の街に着いたら、買い換えた方が賢明かもしれない。
「勝てそうだったら、お小遣い。勝てそうにないなら……っ」
 調子外れのメロディでそう口にして、ポケットから幾つかの金貨を取り出した。
 既にせせこましい報酬以上の収入はあったし、あくまでも彼女の目的のオマケである。危なそうだからと身を引いても、娘にとって損になる要素はひとつも無い。
 血まみれの金貨をひょいと放り投げ。
「『勇者の剣の勇者』……か」
 どこか乾いた声で呟くと同時、踏み出した一歩に絡みついた別の蜘蛛網に、娘はもう帰ろうかと本気で思い始めるのだった。


 巨躯の男が腰を下ろした時、ベッドが男に対して行った抗議は、ぎしぎしという不安をかき立てる音と舞い立つ大量の埃という壮絶なものだった。
 道具屋の『良く斬れる剣』と同じくまともに手入れもされていないのだろう。ひと月ぶりに触れた布団は砂と埃にまみれていて、さらに何となくかび臭かった。
 最近の魔物騒動で宿屋の店主の愛想も悪く、宿代も足元を見られたが、こんな村で宿があっただけでもマシと言える。それに前金で宿代も払ってしまった以上、文句を言っても後は追い出されるだけでしかない。
 唯一の幸いと言えるのは、ひと部屋に六台のベッドが詰め込まれた相部屋が、今日は男の貸し切りということか。辺りにはばかる事無く靴とコートを脱ぎ、ごろりと横になる。
 久方ぶりの布団の感覚は、たとえ砂だらけで埃っぽくても、懐かしいものだった。
 けれど、それだけだ。
 しがみついてくる柔らかな温もりも。
 覗き込んでくる無邪気な碧い瞳も。
 撫でればちくちくする黄と黒の毛並みも。
 どれも、既に彼方のものだ。
 小さくため息を吐き、男は胸元から小さな首飾りを取り出した。
 埃まみれの窓の向こうは新月の闇。もはや余命幾ばくも無い蝋燭の明かりにかざしても、幾つかの飾りと共に揺れる水晶のペンダントは静かに揺れているばかり。
 意識を集中させても、水晶から削り出されたそれは、何の反応も返しては来ない。
 いつも通り。
 そう。いつも通りに戻っただけ、なのだ。
 これまでと同じように。
 これからと同じように。
 男は首飾りを服の内へと戻して蝋燭を吹き消すと、静かに瞳を閉じるのだった。


 そこに吹くのは、穏やかな風。
 降り注ぐのは、柔らかな光。
 こぼれるのは、笑み。
 下草の生えそろったその場所は、森の中にぽっかりと開かれた小さなステージだ。
 中央で踊るのは、まだ幼さの残る少女。
 男が多くの事を伝えた弟子であり。
 そして、多くの事を気付かされた、師でもあり。
 年相応の華奢な白い手を閃かせ、長い髪を風に舞わせて、少女は踊る、踊る、踊る。
 やがて。
 舞い終えた少女は男の拍手に恥ずかしそうにはにかんで、小さく一礼をしてみせた。
 そこに伸ばされるのは、手。
 拍手を終えた、男の手だ。
(やめろ……)
 男の意思など気にする様子もなく、男は少女に向けて手を伸ばす。
 やめろ、やめろ、やめろ。
 そしてこちらを向いた少女も、疑う様子もなく伸ばされた男の手に向けて駆け寄ってくる。
(逃げろ……!)
 男の声は届かない。
 意思の中だけで上がる叫びは、喉も裂けんばかりに張り上げたとしても……触れられるほど近くなった少女にさえ、届く事は無い。
 逃げろ、逃げろ、逃げろ。
 叫ぶのは、男が少女に訪れる『この先』を知っているから。理解しているから。
 否。男が少女に何をしたか、何をするか、知っているから。覚えているから。
 けれど、少女は逃げようともしない。その警告に、気付く事もない。
 ただただ無邪気に男の手に頬を擦り寄せ、微笑んでいるだけだ。
 やがて少女に、男の手が伸びて。
 細い首に、指先が掛かる。
(逃げ……ろ……!)
 白い首筋に、男の指先から染み出した黒い影が落ち。
 それが、少しずつ広がっていく。
(逃げろ……!)
 少女はそれにさえ、気付かない。首を掴んだままの男に、くすぐったそうに微笑んでみせるだけ。
 指先から漏れる闇は少女の喉を覆い尽くし、いつの間にか露わになった胸元を、愛らしく微笑む小さな顔を、黒く黒く染め上げていく。
 そこで、少女はようやく気が付いた。
 男の手の意味に。そこから及ぼされる異変に。
 だが、既に少女がどれだけ力を振り絞ろうと、男の手を振り払う事は出来なかった。
(離せ! 離してやれ……)
 男の叫びは届かない。
 華奢な両腕をばたつかせ、長い髪を振り乱す少女にも。
 沈黙をまとって少女の首を掴む男自身にも。
(離して…………やってくれ…………)
 男の懇願も届かない。
 顔を、髪を、華奢な腕を、小さなへそを、滑らかな腹を。少女の躯を足指の先まで闇一色に犯し終えても、男の声はどこにも届く事は無い。
 やがて。
 闇に染め上げられた少女の全身は、ボロボロと灰の如く崩れ落ち……。


「………………ッ!!!」
 男の叫びが響き渡ったのは、貸し切り状態の六人部屋だ。
 誰もいないのが幸いした。もし誰か居たならば、男は間違いなく非難の言葉……あるいは非難の拳を叩き付けられていただろうから。
「……夢、か」
 のろのろとした緩慢な動作で、枕元の背負い袋から水袋を取り出した。ひと口分のエールで嫌な粘り気に覆われた口の中を洗い流す。
 じっとりと脂汗の滲む胸元から取り出したのは、水晶を削って作られた首飾り。
 男はしばらくそれをぼんやりと眺めていたが……意識を集中させる気力も無く、再びそれを胸元へとしまい込んだ。
 やがて。
「くく…………」
 六台のベッドが並ぶ相部屋に響くのは、声。
「ははは…………」
 笑い声だ。
「はははははははは!」
 爆発したそれは、目覚めた時の絶叫どころではない。同室はおろか、隣の部屋で眠る客達さえも、非難の拳を向けるだろうもの。
 ベッドに転がり、腹を押さえ、体の底から本能のままに声を上げ続ける。
「俺が……この俺がか!」
 見上げれば、夜空は新月の闇。
 そうだ、あの日もこんな夜だった。
「はははははははは!」
 狂ったような笑い声は、誰も居ないフロアに止まる事無く響き渡っていった。


「おや。旦那」
 村に一軒しかない道具屋の扉をくぐれば、男を迎えたのは豚の顔をした小太りの男だった。
「ロープをくれ。出来るだけ細くて丈夫で……長いのを」
「はいよ。山登りでもするのかい?」
「そんなところだ」
 差し出されたロープの長さを確かめ、無造作に突き返す。
「これより長いのかい? ……あったかな」
「それと……」
 奥の戸棚に引っ込み、在庫の山をごそごそとあさり始めた店の豚族の男の背に、男はさらなる問いを投げかけた。
「森の地図と、オリーブの石鹸もくれ」

続劇

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