-Back-

 手向けられたのは花束と、ワインの入った小さな瓶だ。
「伯母さん……。それじゃ、行くね」
 呟くのは一人の娘。腰には矢筒と、折り畳み式の小さな弓が提げられている。
 対する伯母からの答えはない。
 聞こえるのは、脇にある小さな川……ブレティニー川のせせらぎだけだ。
 だが、娘は彼女からの答えを聞くように墓標の前でしばらく目を閉じて……やがて、静かに瞳を開く。
「……ごめんね。伯母さんは許せって笑うだろうけど、やっぱりアイツは、許せない」
 彼女が流行病に倒れた時も、今際の時も、葬儀の時も。
 彼は、帰っては来なかった。
 もともと旅がちな男ではあったのだ。命がけの、そして長期に渡る探索で、数年に渡って帰って来ない事も珍しくはなかった。
 娘が彼と一緒に過ごした月日は、恐らく数えるほどしかない。
 だが。
 よりにもよって、このタイミングでなどと……。
 それに今回の探索は、さして時間は掛からない、規模の小さな探索だと言っていたのに。
「勇者の剣の勇者だなんて……何が勇者よ」
 勇者なら、どうして一番身近な者を救ってくれなかったのか。
 彼女は最期まで笑っていたけれど、心の中では彼に戻ってきて欲しかったはずだ。彼女を入れれば二人だけの肉親である、彼に。
 そして、何より……。
 誰一人として身寄りの無いまま、事後の処理も、屋敷の処分も、全て娘のあずかり知らぬ所で行われてしまった。もしその場に彼が居たなら状況は違っていたはずだが、それはまだ年若い娘の力と経験では遠く及ばぬ事だった。
 その想いを感じ取れなくて……何が勇者か。
「絶対に見つけて、伯母さんに謝らせてやるからね」
 そして、娘は旅に出た。
 その探索が例え何年、何十年……いや、何百年かかったとしても、やめるつもりなど……ない。




Bre/Bre/Bre
[4/6]




 大穴の空いたホルスターに、矢筒。太もものスローイングダガーは手挟んでいたベルトごと。
 地面に積み上げられていくのは、銃使いの娘が仕込んでいた武器の数々だ。
「で、いたいけな若い娘をひん剥いてどうするつもりよ」
 矢筒の根元の短剣を鞘ごと引き抜いて、山の上に放り投げる。
「……本当にいたいけな若い娘は、自分じゃいたいけなんて言わねえんだよ。まだあるだろ」
 男の言葉にしばしの沈黙があった後……。
 娘は渋々、革製のブーツと手甲の隙間から幾本かのダガーを引き抜いた。
「全部か?」
「全部よ。何なら裸になりましょうか?」
 薄手のシャツを押し上げる豊かな胸元をちらりと襟元から覗かせながら。娘が男に向けた視線に宿るのは、どこか挑発的な色だ。
「レ二、はだかデスか?」
「そそ。このこわーいおじさんが、裸になれって強要するの。こわーい」
「こわーい?」
 武装解除の場面を見るのも初めてなのだろう。レ二の様子を覗き込んできた蜘蛛脚の少女に甘えるようにそっと抱き付き、レ二は大げさに怖がってみせる。
「……ティニーに変な事吹き込むんじゃねえよ。俺はお前の事、まだ信用してないんだからな」
 不思議そうに見上げてくるティニーに小さくため息を吐いて、男は武器の束をコートに包んでゆっくりと抱え上げた。
 背中に向けられた娘の視線など、気付きもしないままで。


 洞窟を照らすのは、入口から射し込むわずかな月明かりだけ。新月が過ぎたとはいえ、その光量は本当に僅かなものだ。
「その子が、ホントに人食い蜘蛛女なの?」
「あの豚親父の出任せだろ。地図もデタラメだったし」
 壁に背を預けて座る男は、しがみついてくぅくぅと寝息を立てている蜘蛛脚の少女の頭を優しく撫でながら、そう答えてみせる。
 先代の蜘蛛女はどうだか知らない。けれどひと月の間一緒に過ごしていて、この少女が人を避けるようにという父の教えを破ってわざわざ人を襲いに行くなどとは、男にはとても思えなかったのだ。
「あれ、ブレゲも買ったんだ。くしゅっ!」
「まあな。寒いなら、使うか?」
「ありがと」
 放り投げられた男のコートを遠慮なく受け取り、レ二は洞窟の床にごろりと横になる。
「てかお前、着替えは」
 普通の旅人なら、重ね着用の防寒具も兼ねた着替えくらい持っているはずだ。それとも、それが必要ないほどの暖かい所ばかりを旅していたのか。
「これがその着替えよ。前の服は、色々あって破れちゃったの」
「あっそ」
「理由は秘密ー」
「……聞く気もねえよ」
 実際、特に興味も無いのだ。
 あまりに投げやりなその様子に、レ二は小さく口を尖らせる。
「……やっぱりおっさんの服じゃ寒いわ。ティニー、暖かそうなんだけど?」
「そこまで寒くないだろ」
 男がもともと寒さに強い事を差し引いても、春も終わろうかというこの時期は朝でもそこまで冷え込まない。男はコートを脱いだ軽装だし、ティニーに至っては大きめのシャツ一枚である。
「心が寒いのー。女の子の暖かくて柔らかいお肌が良いー。ティニー、良い匂いするしー」
「俺ぁお前の事、まだ信用してねえからな」
 全ての武器は取り上げたはずだが、実際の所は、ピン一本でも人は殺せる。旅の経験を積んだ者であればなおさらだ。
 そもそも目の前の娘は、怪物退治をするためにここまで来たのである。村から支払われる礼金など知れているが、かといって怪物に対して躊躇する者などいないのもまた事実。
「……いまさらその子を退治しようなんて思ってないわよ。もう分け前は十分あるし」
「……崖の近くにいたアイツから抜いたの、お前か」
「有効活用って言ってよ。死体が豪遊出来る?」
 年若い娘だが、そういった事には慣れっこなのだろう。反論の言葉をさらりと紡ぐレ二に、ブレゲは何も答えない。
 実際の所、その件について男はどうこう言う気は無いのだ。もっと重要な点は、他にある。
「……あれ、どう見る?」
 それはレ二も理解出来たのだろう。くるまった男のコートをわずかに掻き寄せて、見せる瞳は真剣な色。
「狼や魔物にしちゃ、手際が良すぎるでしょ。盗賊でもないから、暗殺者か、狙撃で一発か……。その子はどんくさそうだから、違うわね」
 彼女の推論も、ブレゲのそれとほぼ同じ。
「狙撃ねえ……」
「……あたしじゃないってば」
 報酬が桁外れに多ければ、独占のためにと考えたかもしれない。
 けれど、今回の報酬などたかが知れている。いかに有利な状況でも、割に合わない。
 何より死体漁りをするのと、死体を自作してから漁るのでは、ワケが違う。
「お前が犯人だったら、ティニーももっと手際よくやるだろ」
 銃の命中率がどれほどの物か男はよく知らないが、飛び道具を使う者が相手の視界にわざわざ出てくるなど論外だ。
「……その子に、聞きたい事があったのよ。もう済んだけど」
「こいつがどれだけバカでも『犯人ですか?』って聞いて『はい』とは言わねえと思うぞ」
「だからもういいんだって」
 男の言葉に面倒くさそうに言い返し、娘は洞窟の寝心地が悪かったのか、もぞもぞと体勢を変えてみせる。
「そういやお前、何でこんな所にいたんだ?」
 それを会話の拒絶と感じ、男は話題そのものを変えてみた。
 あの村は、街道からも離れている。男のように森の近道を通ったならともかく、他のルートからは相応の目的がないと辿り着かないはずだ。
「人捜しよ。父さん……あたしの母さんの仇」
「……へぇ」
 あまりに軽い口調だったから、反応が一瞬遅れた。
 意外と重い旅の理由に男が黙れば、レ二は思わず苦笑い。
「まあ、実際に殺したわけじゃないし、気長な旅だから焦ってるわけじゃないけどね。……殺しても死ぬような奴じゃないし」
「……そうか」
 家の事情は色々あるのだろう。そこまで深く踏み込む必要は無いし、そもそも踏み込む気にもなれない。
「むにゅ…………」
 そんな話をしていると、ブレゲの膝にかじりついて眠っていた少女が、小さな体を起こしてくる。
「ああ、起こしたか?」
 少女は寝ぼけまなこをくしくしとこすると、ふわぁと大きなあくびを一つ。
「んぅ……ブレゲ……。わたしモ、お話ししたい……みゅぅ……」
「無茶苦茶眠そうじゃねえか。寝ろ寝ろ」
 軽く頭を撫でてやれば、小さな体はそのまま首筋にしがみついてきた。
「ふぇぇ……」
「話はここまでだ。とりあえず、もう寝ようぜ」
 全身で抱きつき、くぅくぅと寝息を立て始めたティニーの蜘蛛の体を優しく撫でながら、ブレゲも静かに瞳を閉じる。


 夜が明けて、日が昇り。
 ティニーに地上まで下ろしてもらい、三人は森の中を歩いていた。
「で、ブレゲは魔物の正体に心当たりはあるの?」
 無論、最大の目的は、半月前から現われたという怪物の正体を突き止める事だ。
 それが明らかになれば、村から想定外の旅人が入り込む事もなくなるし、ティニーも穏やかに暮していける。
 そのうえレ二もわずかなりとも賞金を手に入れられて、互いに円満解決というわけだ。
「無い」
 だが、巨躯の男はあっさりとレ二の期待を裏切った。
「役に立たないわね。ティニーは?」
「わたしも……そんな魔物? あた事ないデス」
 ずっと森で暮してきたティニーも、答えはさして変わらない。となれば、なおのことここ最近この界隈に流れてきた魔物の可能性が高いという事になる。
「せめて、何かの痕跡があればいいけど」
 数日の調査では無理かもしれない。
 あまり長期にわたるようなら、この男に押し付けて程よい所で逃げだそう。レ二は心の中でそう決めて、二人の後を追っていく。
「後は、早く三人目を見つけて、ティニーは違うって事だけは説明しないとな」
 それが、彼らのもう一つの目的だった。
 ブレゲの前に森に入った旅人は、三人。一人はレ二、もう一人は既に骸となり、所持金だけがレ二の懐で新たな使い道を待っている。
 残るは、あと一人。
 地図を買った時にブレゲやレ二と同じように、いい加減な豚族の道具屋から蜘蛛女の話は聞かされているだろう。そんな輩が森の中でティニーを見つけてどんな対応を取るかは……レ二の例を見ずとも、想像に難くない。
「……?」
 それが終わってから、ティニーには『人間は危険』という事を教え込む必要があるだろう。
す。
「ねえ。あの魔法は使えないの?」
「魔法?」
「あたしとティニーの前に出てきた時の。あれ、転移魔法でしょ?」
 意識を集め、呪文を唱えるだけで、思い描いたどんな所にでも行ける力。大地を動かしたり傷を癒やしたりと、超常的な事象を生み出す魔法の中でも、とびきりの力を持ったものだ。
 レ二も噂に聞いていただけで、見た瞬間には何が起こったのか分からなかったが……あれこそが、そのとびきりの力のはずだった。
「ありゃ無理だ。よく知ってる相手でないと効果がない」
 無制限に万能の力などあるはずもない。男が使える転移の術は、多くの制約の課された、とても実用的とは言えないものだ。
 男の中ではそれでもなお、会得するだけの意味があったが……普通の使い手ならば貴重な魔法を覚える限られた機会を、こんな術のためには使わないだろう。
「ごめんなさいしたい人に、使うデスか?」
「ああ。まだ、見つかってないけどな」
 男もいまだ、自身の術に関して全てを把握しているわけではない。想う力が足りないのか、距離の所為なのか……それとも……。
「ブレゲの旅も、人捜しなの?」
「ごめんなさいしたいひと!」
「……それ以上は言わなくて良い」
 元気よく答えたティニーの頭をぽんと叩いて黙らせておいて、ブレゲはさらに歩き出す。
「なになに? 逃げられた奥さんとか?」
「……喧嘩した友達だよ」
「なにそれつまんない。もっとこう、ドラマチックな話じゃないのー?」
 興味津々のレ二を適当にはぐらかしながら、一行は先へと進んでいく。


 ぱちぱちと爆ぜるのは、焚き火の音。
 その上に乗っているのは、ブレゲの携帯用の鍋である。
「ねえ、ブレゲ」
 そこから煮込まれた野草と肉を小さな椀によそいながら、レ二は男の名を呼んだ。
「あなたが探してるのって、どんな人なの?」
「わたしも聞きたいデス!」
 椀を受け取りながら元気よく言葉を継いだティニーに、露骨に嫌な顔を浮かべてみせる。
「しつこい女は嫌われるぞ」
「ふぇ…………? ブレゲ、わたし、嫌いデス……?」
「しつこく聞くようならな」
「じゃ、じゃあ、聞かないデス!」
 それ以上、話を聞こうとしない事の意思表示なのだろう。慌てて耳を塞ごうとして……片手が椀で塞がっている事にオロオロしているティニーの頭を、苦笑しながらぽんぽんと軽く撫でてやる。
「こっちを信用してない男に嫌われたって、別に痛くも痒くもないわよ」
「俺も信用してねえ相手に、そこまで話す義理はないな」
 売り言葉に買い言葉。不機嫌な顔を浮かべたレ二は、残る一つの椀は放りだしたまま黙々と食事を始めてしまう。
「でも……ちょと、聞きたいデス」
 自分の椀に鍋の中身をよそいながら、蜘蛛脚の少女のおずおずとした物言いに苦笑い。
「……ただの友達だ。友達と、その女か」
 言葉にすれば浮かぶのは、炎に包まれた屋敷でのやり取りだ。
 あれ以来、二人とは一度も顔を合わせてはいない。
「三角関係とか?」
「さんかく……?」
「あのね……」
「ティニーに変な事吹き込むなっつの。……ただの旅仲間だ。悪いが色恋沙汰には興味なくてな」
 がつがつと椀の中身をたいらげて、早々に二杯目を。
「なら、何で……?」
「見解の相違って奴さ。今となっちゃ、くだらんと思うが……あの頃はガキだったからな」
 自分でよそって良いのか迷っているティニーの椀を取ってやり、彼女にも二杯目をよそってやる。嬉しそうなティニーに椀を渡して、自分は三杯目にとりかかる。
「ガキったって、たかが十年そこら前なだけの話でしょ?」
「……まあな」
 十年そこらと言うが、目の前の娘は十年そこら前にはまだ幼子だったはず。若いが故の物言いなのだろうが……それは男にとっては眩しすぎるものだ。
「それで、蜘蛛女に手を出したの?」
「……どうしてそこで蜘蛛女が出てくるんだ」
「だって、ティニーってブレゲの子供でしょ?」
 その言葉に、半ばまでたいらげた三杯目を思わず吹き出していた。
「ちょっと、汚い!」
「吹かせるようなこと言うからだ! 馬鹿野郎!」
「親子じゃないの? ……すごくブレゲに懐いてるし」
 初めて会ったときもそうだ。崖の下に落ちたティニーを見た時のブレゲの怒りようと言い、その後のずっと離れようとしないティニーの甘えぶりといい……どちらも相当なものだった。
……。
「ふぇ? ブレゲ、わたしのお父サン違うデス」
「……そうなんだ」
「こないだ怪我した所を助けてもらってな。会ってからまだふた月も経ってねえよ」
 その割には、ティニーに三杯目をよそってやる様子も堂に入ったものだが、それは年齢の成せる技なのだろうか。
「……そんなのに名前なんか付けてもらって、良かったの?」
「お前が付けろって言ったんだろうが」
 真顔で問う弓使いの娘に、男は小さくため息を吐く。
「いいデス。わたし、ブレゲに名前つけてもらたの、嬉シイ! いしょも、嬉シイ!」
 まあ、本人が満足しているなら、問題無いのだろう。
「じゃあ、ブレゲって偽名とかじゃないの?」
「何でいちいち偽名使う必要があるんだ。本名だ」
 裏社会に渡りを付ける時など、本名を使いたくない時に偽名を名乗る事は確かにある。けれど三人だけのこの世界で、偽りの名前を使う必要は特に感じられない。
「……まあ、そっか。そうだよ、ね」
 弓使いの娘にとってはそれが意外だったのだろう。鍋を食べる手を止めて、しばらく何事か考えている様子だったが……。
「ね、ティニー。お父さんの名前って、何て言うの?」
「お父サン……? 名前……お父サン」
「……いや、お父さんは名前じゃなくてだな」
 夕食の話題は、ティニーに父親という呼称と名前の違いを教える事に移っていくのだった。


 木々の間を鋭い音をまとって駆け抜けるのは、放たれた鉄矢。
 甲高い悲鳴が一瞬上がり、やがて沈黙の後に響くのは、小さな手を叩く音だ。
「レ二! すごいデス!」
 森の奥、悲鳴の起きた場所に転がっているのは、短めの矢に貫かれたウサギである。手負いになるどころか、一撃であった。
「……やるじゃねえか」
「ま、一応ね」
 山を歩いていると、銃使いの娘がふと足を止め、腰に提げていた折り畳みの弓に矢をつがえて解き放ったのだ。
 まさに流れるような、一瞬の出来事の後……その技の冴えは、ティニーが笑顔で抱えているウサギを見れば明らかだった。
「すごいでしょ」
 レ二はウサギから矢を引き抜くと、折れても曲がってもいない事を確かめて、それを再び矢筒の中へ。銃弾ほどではないが、矢も貴重な消耗品だ。再利用出来るなら、それに越した事はない。
「何でそれでティニーを狙わなかったんだ?」
「銃の方が威力あるのよ。まさかあそこで暴発するとは思わなかったけど」
 むしろここまで精密な速射が出来るなら、弓を使われた方がよほど脅威だったとも思うが……いずれにしても、運が良かったとしか言いようがない。
「……なに? 珍しい?」
 きらきらと目を輝かせているティニーに、折り畳み式の小さなそれをそっと握らせてやる。蜘蛛脚の少女はレ二の真似をして弦を引こうとするが、小さなはずのそれは少女がいくら頑張ってもぴくりとも動かなかった。
「あはは。重いからねー。慣れないと難しいかも」
 木や革、大型獣の腱など、いくつもの部材を貼り合わせて作った合成弓だ。小柄な見かけとは裏腹に、弦はそこらの大弓よりもはるかに重く張られ、相応の破壊力を出す事が出来るよう仕上げられている。
 うんうん唸ってようやく少し弦が引かれるが、そこで力尽きたのか、ティニーはすぐに手を離してしまった。
「初めてでそこまで引ければ大したもんよ。ティニーは力持ちねー」
 満面の笑みを見せてくれるティニーの頭を撫でながら、レ二は合成弓を受け取ると、慣れた様子で腰へと戻す。弓の重さを理解した後のティニーの視線は、先程よりもさらに驚きと感動に満ちているものだ。
「初めて見たデス。ウサギ捕まえるの、いつも糸だたから」
「糸? …………ああ」
 そこで、レ二は僅かに表情を曇らせた。
「どうかしたのか?」
「いや、この辺で時々ひっかかる糸って、あんたのだったのね。ティニー」
 ブーツから一向に取れる気配のない謎の粘つきの事を思い出し、狩人の娘は小さくため息を吐くのだった。
「だったら、弓の練習もしてみる?」
 まだ探索がどのくらい掛かるのか分からない。
 暇潰しにもなるだろうし……。
「うん!」
 何より、ブーツにこれ以上蜘蛛糸が引っかかるのを防げるなら、それに越した事はないのだった。


 木々の間に漂うのは、オリーブの石鹸の香り。
「ティニーが良い匂いするの、この石鹸のせいだったのねー」
 谷川のほとり。ふんわりと立てられた泡から香る匂いに、銃使いの娘はうっとりと目を細めてみせる。
「ブレゲ、くれたデス」
 向かいに腰を下ろすのは、男物のシャツを脱いで裸になった蜘蛛脚の少女。もっとも、言いかけた所で濡れた髪に石鹸の泡をまぶし付けられてくすぐったそうに笑い出し、後半はよく聞き取れなかったけれど。
「へぇ。意外といい趣味してるじゃない」
 確か、山向こうの街の特産品だったはずだ。娘も出発前に買おうかどうか迷ったが、結局買わなかったのを思い出す。
 これほど良い石鹸なら、買っておけば良かったとも思うが……。さすがに身軽な一人旅でも、石鹸一つのためにそこまで戻る気にはなれない。
「ま、どーせその辺で売ってたから適当に、とかなんでしょうけど。匂いは分かんないんだっけ?」
「うるせえ」
 聞こえた反論に思わず腰に手が伸びるが、さすがに裸では弓の抜き打ちは出来ない。
 代わりに足元の小石を拾って投げつけるものの、男が背負った分厚い茂みを貫通するほどではなく……がさりと茂みを揺らしただけだった。
「こら! あんたは見張り! こっち見るんじゃないわよ!」
 茂みの向こうに一瞬、大きな手がひらひらと振られ。
 今度は小石が直撃して、男の野太い悲鳴が上がる。
「ブレゲ、一緒に水浴び……しないデスか?」
「だーめ。怪物に襲われちゃうわよ? がーって」
「がー?」
 どこか寂しそうなティニーの髪を泡まみれにして、ゆっくりと洗っていく。
「ティニーの髪、キレイねー。お父さんとお母さん、どっちに似たの?」
「お父サン、お母サンと同じ色て」
「そうなんだ。お父さんの髪は、他の色だったの?」
「黒かたデス。レ二と同じ色」
「へぇー」
 ティニーはしっかりと目を瞑ったまま。
 ブレゲは茂みの向こうで、こちらに背を向けている。
 レ二はそっと、自身の黒い髪に手を伸ばし……すいと抜き放ったのは、髪に紛れ込ませていた太いニードルだ。
「…………」
 無防備な首筋か背中に突き立てれば、いかな大蜘蛛の脚を持つ少女といえど……恐らくは一撃で終わるだろう。
 娘はニードルを力一杯握りしめ……。
「そうだ、レ二」
 茂みの向こうから聞こえてきた男の声に慌ててニードルを髪の中に戻すと、再びティニーの髪に指を差し込んでいく。
「蜘蛛の体に石鹸付けるなよ。なんか、良くないらしいから」
「あ、そうなんだ? 洗う前で良かったー」
 ことさら大きな声でそう返すと、布バケツで水を汲み、泡を洗い落としていく。
 泡を洗い流した髪を、ティニーはふるふると振っている。そこから撥ねる水しぶきを、犬のようだと笑いつつ、レ二も自分の髪を洗おうと石鹸を泡立て始めた。
「そうだ、ティニー。帰ったら、髪のもっといいお手入れの仕方も教えてあげるからねー」
「やた! じゃ、次はわたしがレ二、洗てあげるデス」
「いいわよ。あたしは一人でやれるから」
 色々手伝いたい気持ちは分からないでもないが、大抵はろくなオチにならない事を娘は小さい頃の経験からよく分かっていた。何より、髪の中を触られでもしてはたまらない。
「じゃあブレゲ、洗てあげるデス!」
「はぁ!?」
 がさりと茂みが大きく動き、巨漢が慌てて顔をこちらに向けてきた。
「やだこらバカ! こっち見ないでって言ったでしょ!」
 言った時には既に泡だらけの手は足元の小石を引っ掴み、男の顔に打ち放った後。
 静かな森に男の野太い悲鳴が響き渡るのは、これで二度目である。
「ブレゲ、やぱり一緒に水浴び、だめデスか……?」
「ダメったらダメ!」


 ゆっくりと昇る月は、やがて満月に至る下弦の月。
 その穏やかな輝きを洞窟の出口……切り立った崖の縁で眺めながら。弓使いの娘は、傍らに腰を下ろしてきた男に小さく声を掛けた。
「ティニーは?」
「寝てる。お前の身体洗えなかったの、残念がってたぞ」
「バカ。変態」
 呟きは弱々しく、ごく小さいものだ。洞窟の入口で大きな声を上げては奥まで届いてしまうし、そうなるとせっかく寝入っているティニーを起こしてしまう。
「今日は……ありがと」
 そして、続く言葉は罵倒ではなく、感謝の言葉。
「匂いは分からなくても、殺気は分かるからな。大人なめんな」
「大人……ねぇ」
 馬鹿にしたような、呆れたような言葉も、ごく小さいものだ。月明かりの前では、いつもの毒舌もなりを潜めてしまうらしい。
「でも、今までにも機会なんかいくらでもあっただろ。……そんなにあのはした金が大事か?」
 だが、なりを潜めていたのもそこまでだった。
「そんなんじゃない! あいつは……ッ!」
 強い声を上げたのは、一瞬だ。
 男の言葉に弾かれたように髪の中へと手を伸ばし、力任せに太いニードルを男に向けて打ち付ける。
「あ……」
 激昂は、一瞬の事。
 男の腕に突き立てられた太い針の感触に、昂ぶりはすぐに霧散する。
「気が済んだか」
 男は無言。
 軽く腕を引けば、突き立てられたニードルに掛かる指は、抵抗なくニードルから離れていく。
「……ごめん。知ってたの? これ」
「そんな所に隠してるとは思わなかったけどな。……女は怖え」
 無造作に針を引き抜いて、崖の下へ放り捨てた。傷口にポケットから取り出した布を無造作に巻き、慣れた様子で止血してみせる。
「でも……許せなかったのよ。あいつのこと」
「ティニーが?」
 ブレゲの言葉に、レ二は小さく首を振ってみせた。
「髪の色、あいつと……あの子の父さんと同じって……」
 その言葉を口にするだけで、想いは強く昂ぶるのだろう。ぎり、と噛みしめた唇からは、うっすらと紅い物が滲んでいる。
「……でも、あんたが声を掛けてくれて良かった。おかげで、ティニーを殺さずに済んだ」
 彼女に罪はないのだ。悪いのは、全て……あいつ。
「ティニーに悪気なんかないのにねー」
 呟く言葉は、いつもの彼女の明るいものだ。
 けれどそれは、男に向けてだけでなく、彼女自身に言い聞かせるようにも感じられた。
「……お前、名前は?」
「スレブレニツァ」
 男の問いに、レ二は自らの名前を口にする。
 レ二という通称ではなく、正式な名前を。
「スレブレニツァ……ガン=ブレス。勇者の剣の勇者……ブール=ガン=ブレスの娘よ」
「だとすると……ティニーは……」
 ティニーの父親は人間だと聞いた。
 そして母親である先代の蜘蛛の魔物は……勇者の剣の勇者によって退治されたと。
 だが、おそらく真実は……。
 勇者の剣の勇者は、先代の蜘蛛の魔物を退治したわけではなく……。
「……多分、あたしの妹ね」

続劇

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