15.その選択、ようか陰か
「……ちゃん」
沈む意識に呼びかけるのは、舌っ足らずの甘い声。
繰り返し、繰り返し。
呼ばれる度に、意識は少しずつ表層へと浮かび上がり……。
「冬奈ちゃん………」
やがて耳に届くのは、己の名前。
「んぅ………」
そして瞳に映るのは、目の前の小さな顔。
冬奈に抱きついたまま、そっとその名を呼んでいたのは……ファファだ。
「あれ……。寝過ごした……?」
目覚めきらないその頭で考えるのは、数日前の出来事だった。あの時はプール掃除で疲れ切っていたが、昨日のフォークダンスはそこまでハードなものではなかったはず……なのだが。
「大丈夫だよー」
ファファが見せてくれた携帯の液晶には、いつもの起床時間が表示されていた。という事は……。
「ああ、ごめん。起こしちゃった?」
「ううん。ちゃんと、自分で起きたの。冬奈ちゃんに、お話したいことがあったし……」
ファファは冬奈の胸元に顔を埋め、そのまま冬奈を見上げている。
「あたしに?」
抱き付き癖のことは、既にちゃんと聞いていた。ニンジンが嫌いな事は解決していなかったが……それはまあ、朝食の時にでも話せば良いことだ。
こんな時間から、何だろう。
「うん。あのね……」
きゅ、と冬奈にしがみつき、ファファはわずかに押し黙る。
決意をまとめるように少しだけ時間を置いて。
「わたしの、パートナーになってほしいの」
言葉を、紡いだ。
「…………」
冬奈の寝起きの頭に、ファファの懸命な言葉の意味がゆっくりと刻まれて。意味を完全に解するまで、ほんの少しだけ時間がかかった。
「……それは、抱き枕的な意味で?」
ようやく返ってきた間の抜けた言葉に、ファファはぷぅっと頬を膨らませてみせる。
「違うよぅ……冬奈ちゃんといると、何だかふんわりするから……」
やはりそれは抱き枕的な意味のように思えたが、これ以上引っ張るのもファファに悪いので、口にしないでおくことにした。
「……ダメかなぁ?」
「……いいよ。まだパートナー、決まってないし」
まあ、抱き枕扱いも、ファファ相手なら悪い気分ではない。
「うん! じゃ、がんばって、わたしも早起き出来るようにするね!」
「や、別にパートナーになったからって、無理に早起きしなくてもいいんだけどね」
ファファのわずかにズレた気合の入れ方に、冬奈は思わず苦笑いを浮かべるのだった。
中庭の土を踏む音に、真紀乃はわずかに視線を上げる。
けれど、そこに現れたのは、この時間に来るはずの冬奈ではなく……。
「ソーアさん」
金の髪を短くまとめた、細身の少年だった。
「真紀乃さん……ここで朝の稽古してるって、聞いてたからさ」
「うん……」
少年を前に、さすがの真紀乃も思わず言葉の数が減る。普段ならまだしも、このタイミングでは……ほんの少し、顔が合わせづらい。
「えっと、昨日のことなんだけど……」
どさくさ紛れにこぼれ落ちた、そのひと言。
それを思い出して、真紀乃も思わず照れ笑い。
「いやはや。もうちょっと格好良く申し込もうと思ったんですけど。百音ちゃんに先、越されちゃいました」
本当なら、いきなりセンターをジャックして、堂々と申し込むつもりだったのだ。けれどその前段階、踏み台となる高いところに登った瞬間、一同の前でパートナー宣言をしたのは……。
真紀乃ではなく、百音。
相手が被らなかったのが不幸中の幸いとはいえ、真紀乃の登った所からの降り場は、なかった。
「……十分心臓に悪かったっつの」
だからこそのグダグダなポロリ発言だったのだが、サプライズである事には変わりない。
むしろ本当に不意打ちだった分、余計にタチが悪かった。
「で、だな。ひと晩考えたんだけど……」
真紀乃に言葉を促す様子はない。
だから、レムはひと晩考え抜いた答えを、口にする。
「もうちょっと……考えさせてもらって、いいか?」
その答えを受け取っても、真紀乃はいきなり泣いたりはしなかった。既にその答えが来ることを理解していたかのように、平然としている。
「いいですよ。徹夜して考えてくれたソーアさんが、悪い人なはずありませんもん。ゆっくり……考えてください」
実際、レムは一睡も出来ていない。
「そこまでお見通しかよ……ごめん」
ひと晩考え、堂々巡りの考えに終止符を打ったのは……夜が明けたことを確かめたからだった。朝から真紀乃と冬奈が武術の練習をしているのは知っていたから、そのまま答えを伝えに来たのである。
「でも私って魅力的ですから、早めに決めないと誰かに取られちゃうかもしれませんよ? あの時答えておけば良かったー、なんて思わないでくださいね」
「自分で言うなよ」
「えへへ……」
そんな真紀乃の言葉に苦笑していると、中庭に本来来るべきだった者が姿を見せた。
「あれ? 今日はレムも一緒なの?」
冬奈だ。
「ああ……」
冬奈が来たからには、特訓とやらが始まるのだろう。邪魔にならないようにと、レムはその場を後にしようとして……。
「そうだ! ソーアさんも、一緒に特訓していったらどうですか?」
真紀乃の誘いに、思わず言葉を失っていた。
「そうね。確かあんた、刃物持ってたわよね?」
「え……ま、まあ、な?」
正直、緊張の糸が切れたことで、眠気がじわじわと湧き上がってきているのだ。十分な睡眠を取っている二人とは、状況が違う。
この場に布団が出されたならば、問答無用で飛び込んで、五秒以内に寝られる自信すらあった。
「一人でするより、練習になりそう。良かったら相手、してくんない?」
どこからともなく身よりも長い六尺棒を取り出した冬奈に……。
もう帰る、という返答は、通用しそうにない。
ぐるりと回る六尺の木棒は、嵐のようにレムの細身をなぎ倒す……かのように、見えた。
もちろん練習だ。直撃する間合にまで踏み込む事はない。
代わりに舞うのは、二本の木の棒。刀の代わりに握られた、レムの得物である。
「だから、そんなへっぴり腰じゃ相手にならないって!」
戦闘開始からわずか一分。
「ちょっ! おま、強すぎ……っ!」
そもそも眠気と戦っていて集中力など限りなくゼロに近いレムと、目覚めたばかりで気力充実全力状態の冬奈では、戦う前から結果は見えているわけで。
「筋トレからかしらねぇ……。ついでだから、真紀乃と一緒にやっていきなさいよ」
「お前、鬼か」
鬼に金棒。
何とかに刃物。
そんな日本のことわざが、レムの脳裏にちらりと浮かぶ。
「どうでもいいけど、刀に振り回されない程度の体力くらいは付けといた方がいいわよ」
だが、ぽつりと付け加えられたその言葉に、レムは返す言葉がない。
体力がないのは、ある程度自覚している事だ。自身だけのことなら諦めもつくが……その足りない体力が招いた事態は、これから先、自分以外をも巻き込むとしたら……?
「ほら、ソーアさん」
「………分かったよ。あれ?」
真紀乃の言葉に応じる形で、レムも彼女と同じポーズを取ろうとして。
裏庭に入ってきた小柄な影に、気が付いた。
「……どうしたんだ? セイル」
現れた姿に、レムは首を傾げ。
「あ……」
真紀乃は思わず息を呑み。
「あの……冬奈さん」
「な……何?」
そして冬奈は、明らかにうろたえている。
どう見ても、さっきまでレムを相手にしていた鬼と同一人物だとは思えなかった。
「……あの……その………えっと」
もともとセイルは、口数の多いタイプではない。
必要なことだけを断片的にぽそぽそと呟く喋り方をするのだが……今日ばかりは、その必要なことすらも出て来ない。
「ど、どうしたの?」
ごくりと、口の中を飲み下し。
「…………パートナー」
呟いたのは、たったひと言。
「へ?」
視線の先には、冬奈の姿。
それは即ち……。
「パートナーになって欲しいってのか? 冬奈さんと」
レムの言葉に少し驚き、やがてこくりと首を振る。
縦に。
そこまでは、まあ、ありえる話だった。
「その………一緒に、寝てたとき………良い匂い、したから……」
ただ、そのひと言はいくらなんでも想定外。
「へ……? そ、それって……どういう……?」
冬奈がファファや真紀乃と一緒に寝ていたというなら、まあ分からないでもない。けれど、セイルはこれでも男。
悪い言い方をすれば、ケダモノなのだ。
「こ、こら、そんな事、人前で言わないのっ! 誤解されるでしょ!」
しかも冬奈の口から出た言葉は、否定ではなかった。
「な、なあ、真紀乃さん。この二人……」
誤解もなにも、ここまでど真ん中の直球に言われて、どうやって誤解すればいいのかが分からない。
「え、ええっと……冬奈ちゃんにボコボコにされてもいいなら、説明しますけど……」
問われた真紀乃はどうやら真相を知っているらしい。だが、それだけにどう言って良いモノなのか、微妙な表情を見せているだけだ。
「そこ! ボコボコくらいじゃ済まさないからね!」
そう言われると直球な想像をするしかないのだが……。
「…………だめ?」
憤怒の鬼も、おどおどと見上げるセイルのひと言に、その形相を困惑の色に変えざるを得ない。
「う………えっと、その………ね」
どう言えば良いものか。
気まずいこと極まりない沈黙を経て、冬奈はようやく口を開き。
頭を、下げた。
「本当にごめん。さっき、ファファとパートナーになるって約束したばっかりなの」
そして、顔を上げたとき。
セイルの姿は、その場からは消えていて。
「…………」
二人に無言で問いかけたなら。
「……さすがに、止められねえよ」
レムと真紀乃も、そう答え、首を振るだけだった。
続劇
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