12.閑・話・休・題 白木の床に腰を下ろすのは、巫女装束を身に纏う、虎の性質を備えた小柄な姿。 その向かいに腰を下ろすのは、彼女と同じ性質を備えた、老齢の男である。 「し損じたか、珀牙」 男の言葉に、珀亜の姿をしたままの珀牙は、静かに平服してみせた。 魂を正常に戻す術は、互いの了承があってこそ成立する。 室に籠もる前に見た珀牙の瞳には、一片の迷いも感じられなかった。ただ務めを果たした清々しさと、妹にようやく身体を返せる安心に満ちていたはずだ。 ならば……拒んだのは、彼ではなく彼女の側だったのだろう。 「ですが、珀亜に会うことは出来ました」 そうか、と小さく呟き、男は娘の姿を借りた息子の瞳をじっと見る。 そこには未だ、迷いはない。 「戻ります。彼の地に」 すべき事は、まだ終わっていない。 ならばそれを果たすだけだ。 「……先ほど、帝都から使いが来た。ビャクの整備も終わっておるそうだ」 男の言葉に小さく頷き、珀亜は再び平服してみせるのだった。 そんな帝都から遙か北。 山を越え、薄紫の荒野を抜けた先に……その街はある。 珀亜たちの属する神揚帝国の街において、ただ一つだけ、遙か北の大国との交わりを許された街。 八達嶺。 「同行させてしまって、申し訳ありませんでした」 その街の市場を歩きながら、済まなさそうに頭を下げたのはリフィリアだ。 「構いません。私も、いい息抜きになりましたから」 彼女の傍らにいるのは、この八達嶺の若き主である。 万里もソフィア達と同じく、街の市場に顔を出す事は珍しくないらしいが……それでも他国の長と一緒に買い物をするのは気を使う。 実際のところ、自分たちの主と出歩くことさえいまだ慣れてはいないというのに……。 「それに、最近不審者の目撃情報もあるんですよ。一人歩きは物騒ですから」 「そうなのですか……」 「ここ数日、町を歩いてると妙な視線を感じるっていう報告が結構上がってるみたいで……。今のところ、実際の被害は出てないんですけど」 もちろんそんなご時世だから、万里とリフィリアだけで買い物に出ているわけではない。彼女の護衛として、昌と千茅が付いている。 「そ、そうか……」 千茅の話を聞きながら、リフィリアは微妙な表情を浮かべていた。 (まさか、私の事ではあるまいな……) 報告が上がっているのは、数日前。 それは恐らく、リフィリアがこの街にやってきた頃と一致する。 そんな事を考えている間にも、彼女の周りを動物の特性を備えた者達が平然と行き来しているのだ。神揚の街だから当たり前の光景ではあるのだが……。 (うぅぅ…………やっぱりかわいい……) それは、リフィリアにとっては様々な意味で目の毒な光景でもあった。 「それで、頼まれた物はこれで全部?」 だから、昌のその問いにもリフィリアからの返事はない。 「アルツビークさん、大丈夫ですか? 何だか気分が悪そうですけど……」 「あ……ああ、大丈夫だ。……どうかしたか?」 「だから、頼まれ物はこれで全部?」 そもそもリフィリアが買い物に出掛ける事になったのは、別に彼女が買い物をしたかったからではない。預かったメモは、ソフィアやジュリアからの頼まれ物がほとんどだ。 「ああ……。このくらい、自分たちで買いに来れば良いと思うのだが…………」 実のところ、八達嶺とイズミルはそれほど離れてはいないし、つい先日もソフィアは調査報告に来たばかりだ。買い物を頼む相手も、行き来の多いタロや、それこそ八達嶺に住んでいる昌にでも頼めば良いはずなのに……。 「……ミズキ様、何を笑ってらっしゃるのですか」 けれど、そう思うような彼女だからこそ、ソフィア達は彼女に買い物メモを渡したのだろう。 それがおかしくて、昌は思わず笑ってしまう。 「ううん、何でも。そういえば、アルツビークさんは何も買わないの?」 「ええ。私は特には……」 「じゃあ、この後はアルツビークさんのお買い物にしよう!」 「え、いえ、それは別に………っ」 正直、この状況だけでも彼女にとっては拷問に等しいのだ。これ以上この街を散策していては、それこそ目の毒どころの騒ぎではなくなってしまう。 「決定! 万里もクマノミドーさんもいいよね?」 それに、久々に万里も街に連れ出せたのだ。最近は気分転換の時間もめっきり減っている彼女を遊ばせるためにも、昌としてはここで撤退するわけにはいかないのだった。 「あの、ちょっと……っ!」 困るリフィリアと嬉しそうな万里の手を取って、昌は元気よく市の奥へと進撃を開始する。 八達嶺の中枢は、街の中央のさらに中央。 屋形の一角にある。 「なんだ。今日はお前だけか」 万里の執務室を訪れた鳴神が見たのは、書類に埋もれている青年の姿だった。 だが、部屋にいるのは彼だけだ。いつもなら一緒に執務を行なっているはずの部屋の主がいない。 「ああ。リフィリアが来ててな。何か買い物があるって言ってたから、みんなで出した」 ただでさえ最近は執務ばかりで、遊びに行く時間も取れないのだ。無理矢理にでもそういった時間を取らせないと、いつかは身体を壊してしまうだろう。 「そんなわけで、万里なら昼過ぎまで帰って来ないと思うぞ」 「別に用があったわけではない。プレセアから土産をもらってな。皆で食わんかと思っただけだ」 そんな彼の脇から顔を覗かせたのは、車椅子の美女だった。メガリ・エクリシアの交渉役であり、商人でもある彼女だから、今日も何らかの商談に来ていたのだろう。 「だが、貴様一人なら、そうだな……菓子よりも身体でも動かす方がいいか。最近事務作業ばかりで鈍っておろう」 鋼の右手をぐいと差し出し、鳴神は不敵な笑みを浮かべてみせた。 「………やめておく」 だが、鳴神に本気で武技の相手をされては、その後は正直仕事どころではないだろう。奉は露骨に嫌そうな表情を浮かべ……。 「……鳴神殿、最近ムツキに似てきたぞ」 「…………勘弁してくれ」 その言葉に、鳴神はさらに嫌そうな表情をしてみせる。 「ふふっ。大変ですわね、お兄ちゃんも」 「まあ、お兄ちゃんだからな。……妹達が笑ってりゃ、それで十分だよ」 そう。 例え目の前の仕事が山積みになっていようとも、彼女たちの笑顔が見られるなら、迫るそれを端から打ち倒すだけだ。 |