石の舗道を包むのは、夜の闇だった。 既に夜も更け、朝を待つ方が早いほどの刻限だ。歓楽街からも明かりが消え、束の間の『本当の夜』が石畳の街を支配している。 そんな中、蠢く影があった。闇夜をそのまま形にしたような、黒マントの集団だ。 マントに隠れて見えぬ足元で鳴るのは、が、に近い重い音。街娘の履くような洒落た靴ではなく、冒険者や軍人が使う重装の靴の放つ音だ。 重音の連なりは三。 しかし、月の僅かな灯りに映し出される影は四。 かつ、という軽い音さえ出さぬのは、一際小柄な影が町人の使う布靴を履いているからに他ならぬ。 闇の中、闇から抜け出した一団は、闇を味方に街を往く。 その向こう。 街の中心を貫く石畳の果てに、新たな影が姿を見せた。 数は重音の影と同じく、三。 蠢く影達の正面に、浮かび上がるよう立ち上がる。 「……その娘を、返して頂こう」 三人影の一人が歩を進め、朗と響く声を打った。 「……嫌と言ったら?」 答えたのは、四人組の中程にいた、長身の影。 「無論」 新たな影は静かに呟き、 「成程」 旧い影も愉しげに答え、 同時に、彼らの周囲を白銀の光が乱舞した。 セルジラの朝市の中を駆けながら、ヒューロは誰とも無しに悪態を吐いていた。 「相変わらず、人使いの荒い」 背中のデイパックにはギルドマスターから頼まれた海鳥の卵が入っている。朝市用に降りてきたものではなく、わざわざ塔の上まで登って、海鳥を飼っている有翼種の一団から買い取ってきたものだ。 わずかな釣り銭はヒューロの懐に入るが、塔に登る手間からすれば割に合わない、とも思う。 セルジラは今日も快晴。海上橋架ゆえの海風が吹く、いつもの一日だ。 (嫌な……風だ) しかし、その風を受けて走りながら、ヒューロはそんな事を思考する。 潮の匂いのする風は少年の嫌いな風だった。潮風だけではない。塔の上に吹く強い風も、街の外に吹く柔らかい風も、好きだと思った事はなかった。 少年の嫌いな風は止まる事はない。 そんな中ふと、少年は足を止めた。 カフェの入口でぼんやりと空を見上げる姿に、目が留まったからだ。 「どうしたの? 一人?」 「……」 問われた言葉に、褐色の肌の娘は答えない。 「下、下」 言われ、少女は空を見上げていた視線を下へ。 視線よりわずかに下にいたのは、ヒューロだった。 相手が誰だが分からないのか、少女はわずかに首を傾げる。 「昨日、ガイドギルドに来てた子だよね?」 そう問い掛けるが、少女は黙ったまま。ガイドギルドが分からないのか、そもそも答える気がないのか、いずれにせよ少年の言葉への答えはない。 「ギル……昨日の案内人は? 昨日から案内してもらってたんじゃないの?」 試しに近くのカフェを覗き込んでも、見飽きた金髪は見えなかった。今朝もギルドに来ていなかったから、昨日から専属で案内を続けているのかと思ったが……どうやら違うようだ。 少なくとも、彼の知る有能な案内人であれば、三人しかいない客を置き去りにするなどありえない。それも、残る二人があれだけ丁重に扱っていた少女の事を、だ。 (迷子報告は入ってなかったよな、確か……) 最悪、客が迷子になったりはぐれてしまった場合は、ギルドに捜索の要請が来る事もある。そんなときは今日のヒューロのように手空きのメンバーが捜索に駆り出される事になるのだが、今日はまだそんな話を聞いていなかった。 「……」 少年がそんな事を考えている間も、もちろん少女からの返答は無い。 慣れない事はするものじゃないな……と、ヒューロは一瞬だけ後悔する。ギルならともかく、少年はこの手の事は得意ではないのだ。ふと気になったから声だけ掛けてみたが、それ以上の事は考えていなかった。 「そうだ。フードはしてなくていいの?」 今日の少女はフードはおろか、マントも付けていない。趣味の良い青いワンピースに流行りのサンダルを履いたその姿は、ジニーのようなごく普通のセルジラ娘にしか見えなかった。 傍目には、ヒューロが少女をお茶に誘っているようにしか見えないだろう。 「……」 言葉はないが、少女は細い首をこくりと縦に振った。 ようやく返ってきたリアクションに僅かに安堵するものの、それ以上の会話が続かない。どうしようかと思った所に、カフェの奥から冒険者の一団が姿を見せた。 「おっと。御免よ」 革鎧をまとった男とヒューロの肩がぶつかり、ひゅうと街に風が吹く。橋上都市セルジラにいつも吹く潮風。ヒューロの嫌いな風だ。 「……か、ぜ」 潮風と共に流れたのは、微風の如きか細く澄んだ声。それが褐色の娘の声だと気付くまでに、わずかな時間がかかった。 「風?」 聞き慣れぬ声にヒューロが振り向けば、そこにいたはずの少女の姿がどこにもない。 「……あれ?」 周囲の店に入った様子も、人混みに紛れた様子もない。幼い頃からガイドギルドに引き取られ、案内の経験を積んできたヒューロだから、見ればそれくらい分かるはずなのに。 わずか数秒で気配もなく姿を消すなど、一流の魔術師や冒険者にも難しい芸当だ。 「っかしいな。何処行ったんだ?」 ふと足元を見れば、何かが落ちている。 (落とし物……か?) 拾ってみれば、手のひらに収まるほどの大きさの金属板だ。描かれた紋章に覚えはないが、かなりの価値がある物だろうと判断する。 落とし主はおそらく先程の少女だろう。 もう一度見回してみるが、やはり少女の気配はない。 (ま、いいか。何かあれば、ギルドに来るだろ……) いない者は仕方がない。金属板をポケットにねじ込み、ヒューロは再びセルジラの街を走り出した。 カフェの一角。泣きじゃくる少女に、二人の男は穏やかに声を掛けた。 「過ぎた事よ。仕方あるまいて」 少女がほんの少し目を離した間の出来事だ。もちろん、少女一人に全てを任せ、情報収集をしていた二人にも責任はある。 「そうだね。悔やむより、まず探そう、エミュ」 「うん……」 だからこそ少年は相棒の少女を責めはしない。責めるより先にやるべき事は、山ほどあるのだから。 少なくとも、相手は目的を果たすまでセルジラを離れる事はないはずだ。 状況は振り出しに戻っただけだ。今ならまだ、取り返せる。 「レアル。貴公はエミュと二人で廻るが良い。幸い、助っ人も来てくれておるしの」 「ええ。そうさせて貰います」 まだ瞳の赤い少女の肩を抱いたまま、少年は真剣に頷く。 四人掛けの席に座るのは、少年と少女、老爺の三人と、もう一人少女がいた。ネコ族の彼女は、老爺達の話を聞いているのかいないのか、目の前のパフェに意識を集中したままだ。 「ルティカ……だったかの? お主も到着早々悪いが、手伝って貰いたい」 呼ばれたネコ族の娘は、パフェを食べながら元気良く答えた。 「わかったにゃあ!」 夕日に染まるビッグブリッジを、少年が翔けている。街に慣れぬ旅人のいない橋下を移動するには、鞭を使った機動が最も安全で、かつ早い。海竜の革で作られた革鞭が唸りをあげ、少年の手の延長となり宙を駆ける翼となる。 最後は横材に絡み付いた右手の鞭を解くことなく、反対側の梁に左手の鞭を放って空中減速。加速がゼロになった所で左の鞭を解放し、家の前へ音もなく着地した。ヒューロの家は斜めに渡された補強材に廃材を組み合わせて作った掘っ建て小屋だ。ギルドの時のような勢いで着地すれば、それだけで床が抜けてしまう。 「やれやれ……」 立て付けの悪い扉をこじ開けてザックを下ろし、申し訳程度の窓を開けて風を入れる。嫌いな風だが、だからといって湿気の籠もった部屋に居るのも好きではない。 食事も済ませた。日も沈む。後はもう、寝るくらいしかする事はない。 (ああ、そうだ) ふと思い出し、ポケットから例の金属板を取り出してみた。本来ならギルドに預けるべき物なのだろうが、帰ったら案内の客が来ており、頭の中からすっかり消え去っていたのだ。 板張りのベッドに寝ころび、夕焼けの残光にかざしてみる。 鈍く光る六角の板は銀より重く、鉄より固い感触があった。中央に嵌め込まれた青い宝石は周囲に精緻な細工が施されており、高名な彫金師の作である事を感じさせる。ヒューロ自身は素人だが、職人街で作られた細工物は仕事の度に目にしており、作品のランクくらいは分かるようになっていた。 少なくとも、並の旅人が気軽に買えるような物ではない事だけは確かだ。 「まあ、いいや」 プレートを枕元に起き、窓を閉めようとベッドを立つ。 その時、風が、吹いた。 「な……っ」 ギシギシと軋む家の中、ヒューロは強い声を上げた。 セルジラは海沿いの街だ。潮風は常に吹くし、橋の内を走る海風も強い。 しかし、その潮風は全てが異質だった。 潮の匂いの無い風を、潮風とは呼べぬ。 螺旋に巻く風を、走る風とは呼べぬ。 「収まれ……収まれ……ッ!」 渦巻き、駆け抜け、上へと昇る風は、ヒューロの家を揺らし、砕こうと逆に巻く。 「収まれッ!」 叫ぶ、声。 共に、風が止む。 「……何だったんだ……今の……は」 見回せば、扉は開け放たれ、窓代わりの板は飛んでいたが、家自体は無事のようだ。 だが、ヒューロは既に家の事など忘れていた。 開け放たれた扉の前。 月光を背に立つ、少女の姿を目にしたままで。 ナンナ。 褐色の肌の少女はそう、名乗った。 そして始まる、少年と少女の奇妙な共同生活。 しかし風は、澱みはしない。 それはただの凪。 新たに吹き始めるまでの、僅かな静けさ。 Excite NaTS "EXTRA" セルジラ・ブルー 02話 獣機后スクエア・メギストス 「悪いな、ヒューロ。その娘、渡して貰えるか?」 登場人物 ・ヒューロ・セーヴル フェレット種のビーワナで、ビッグブリッジのガイドギルドの一員。 移動手段として二本の鞭を使う。 ・ナンナ 謎の少女。 ・黒マントの一団 ナンナを連れていた謎の一団。 ・黒マントの一団 黒マントの一団の対抗勢力らしい。 |