28.たとえ、私が消えたとしても
「おや。こんな所でお茶会ですか?」
夜の茶会に掛けられたのは、静かな声。
幾重にも年を重ねながらも強くしなやかな筋を一つ通した、女性の声だ。
「これはきのとさん、お久しぶりです」
山肌に唐突に設えられたガーデンチェアから立ち上がり、ホスト役を務めていた仮面の老紳士は恭しく一礼をしてみせる。
「生憎紅茶しかありませんが……いかがですか?」
「いただきましょう」
差し出された薔薇を受け取った老婦人を前に老紳士が指をひとつ鳴らせば、ガーデンテーブルの空いた一角に音もなく現われたのは老婦人用の新たな椅子だ。
「お知り合いですか?」
「うむ。彼女はキースリン嬢の同級生の……」
きのとの着席をエスコートしながらの老紳士の言葉に、彼女自身も向かいの男に軽く頭を下げてみせる。
「大神八朔の祖母です。いつも孫がお世話になっています」
「ああ、大神柚子さんの。ということは……」
この日、この場所に来ているという事は……事情は承知の上なのだろう。目の前の紳士が招待状を出している可能性もちらりと考えたが……仮面の紳士は、その視線に軽く首を振ってみせる。
「しかしよく許しましたな……。私が同じ立場なら、とても娘を十六年の未来へなど行かせる勇気は……」
家の事情がなければ、娘をこうして華が丘に出す事も反対していたはずだ。もっとも出した今でも、今回のように機会があれば会いに来てしまうのだが……。
しかし十六年後の世界では、そうして会いに行くことも出来ない。時の迷宮は余程のことがなければ立ち入れないし、中も未解明の所がほとんどで、闇雲に歩いたところで無事に目的地に着ける保証はどこにもないのだ。
「まあ、責任の一端は私にもありますので……」
「………どういう事です?」
知り合いがいることで、警戒心が緩んだのだろうか。
ぽそりと漏らしたそのひと言に、ギースは思わず目を見張る。
「彼女とは若い頃、フラン達と共に戦っていたことがあってね。……皆殺しのソニアと言えば、分かるかな」
「…………っ!」
皆殺しのソニアと言えば、数万のメガ・ラニカの魔物の群れをたった一人で壊滅させる力を持つという、伝説に等しい存在だ。
ギースの記憶では、二十年ほど前に『再』出現したという噂を聞いていたが……どうやら、そのオリジナルに当たる存在がいたらしい。
「……そんな古い事、忘れましたよ」
差し出された紅茶を静かに口に運び、大神家の主は穏やかにそう呟くのだった。
○
9月28日の朝は、ここ数日とはうって変わった薄暗い空で迎えることとなっていた。
「おばさまには……?」
「うん。誰かの役に立てるなら、行ってこいって」
朝一番にはいりの家にやってきた柚子は、どこか戸惑いの抜けぬ様子で、報告をしてみせる。
昨日の晩は、柚子とルーナが大神家に戻り、柚子の母に事情を説明する事になっていた。厳格だが話の分かる人物だという事は、はいりも八朔達も知っていたが……まさか、こうもあっさり許可が出るなどとは思ってもみなかった。
「俺達も、挨拶に行った方がいいんじゃないか……?」
昨日の晩は話がややこしくなるからとはいりの家で待機だったが、決まったのなら挨拶をしておいた方がいいだろう。
何せ柚子を未来へと連れて行くのだ。新居に行けば会えるわけでもないから、結婚どころの騒ぎではない。
「来なくて良いって。顔を見たら……殴りたくなるからって」
「…………あのおばさまが?」
叱られた事やお茶の稽古に付き合わされた事は何度もあるが、手を上げられた事は一度もない。
「若い頃は、かなり有名だったとは聞いてたけど……92年は現役なのかよ」
そして八朔達にも、彼の祖母といえばいつも和服を着ている老婦人というイメージしかない。そんな彼女が挨拶に行ったレイジや祐希を殴りつけるシーンなど、想像の範疇を越えている。
「ただ、今日一日はちゃんと学校に行けって」
事情が事情過ぎるから、正規の手続きで転出などをするわけにはいかない。歴史の辻褄を合わせるためにも、柚子は山で事故に遭った事にしなければならないのだ。
だから、最後の挨拶に向かわせたいのだろう。
気持ちははいり達にも、八朔達にもよく分かる。
「そっか……。なら、作戦は夕方から……かな」
それが故に、はいり達も柚子と揃って、最後の学校へと向かうのだった。
はいり達が帰ってくるまでは、一同は待機となっていた。
何が起こるか分からないし、既に作戦は始まっているからどこかに遊びに行く気分でもない。
最低限の買い出しのグループなどを除き、はいりの家でめいめいの時間を過ごしている。
「レム、調子はどうだ?」
そんな中でレイジがやってきたのは、縁側で転がっているレムの所だった。
「ずっと悪いまんまだよ。……ごめんな、役に立てなくて」
思えば、寝込んでいた記憶しかない。調子が良かったのは、真紀乃に連れられて降松に行っていた間だけだ。
「役に立ってないのは俺達もあんま変わんねえ。……やっぱり、原因はそれか?」
そう言ってちらりと指すのは、ポケットの膨らみである。
内からレムがそれを取り出せば、ストレートの携帯にぶら下がっているのは×字に組み合わされた二本の刃のストラップ。
キュウキと呼ばれる異形が封印された、双刀である。
「多分。夜はちょっと落ち着くんだけど……」
降松にいる間は影響がなかったし、夜に沈静化するという事は、マナが影響しているのは間違いない。ただ一つだけ気になるのは、2008年にはここまでの体調不良は出なかったという事だ。
キュウキの侵食がさらに深まっているのか、それとも周囲のマナの密度が第四結界の壊れた2008年の華が丘よりも高いからか。
「なら、悪ィがもう一日頑張ってくれ」
「そうするよ。……けどな」
身を起こして眺めるのは、今にも崩れ落ちそうな曇り空。
「伝わってくるイヤな感じが、どんどん強くなってるんだ。自分の事は何とかしてみせるけど………このまま、何も起こらなきゃいいんだけどな」
最後の日でもそうでなくても、時間の流れは平等だ。
何の変哲もない授業も、友達とのやり取りも……これが最後だと、そしてもう二度と同じ時を過ごすことが出来ないのだと思うと……すぐに涙が出そうになってしまう。
そして迎えるのは、昼休み。
「あの……ローゼさん。お願いがあるんですが……」
「なんだい?」
いつものように庭の作業に現われた仮面の少年は、少女の言葉に柔らかく応じてみせる。
「これからも……ずっと、ここに来てくれますか?」
紡がれたのは、今まで見てきた大神柚子なら放たないだろうひと言だ。
「………何かあったのかね」
柚子が他人に何かを頼むことはほとんどない。限界まで絞っても、出てくる言葉は「教科書を貸して欲しい」くらいだろう。
「はい。……実は、遠いところに引っ越す事になったんです」
「そうか。寂しくなるね」
無論、少年もあの場にいたから、柚子の事情は知っている。もちろん彼女の決めたことである以上、邪魔をする気などあるはずもない。
「だから、この花壇をローゼさんとルーナちゃんに見守っていて欲しいなって。……ダメ、ですか?」
ここで「はい」と言うのは簡単だ。
しかしそれは、少女を裏切ることになる。安易に言って良いものでは……決してない。
「それは、難しいな。……だがね」
故に、仮面の剣士は静かに頭を振ってみせ……その指で、少女達の向こうを指してみせる。
「あの、すいません」
そこに立っているのは、一人の女生徒だった。ローゼはもちろん、柚子やルーナにも覚えがない娘だ。
「園芸部って、いま部員の募集とかしてますか……?」
揃ってクワや移植ごてを持っている集団でそれと理解してくれたのだろう。
だが、問われた言葉は少女達の予想だにしないもの。
「え? ………えっと」
「なんか、変わった格好をした人が花壇で作業してるって聞いて。あたし、この学校に園芸部があるなんて知らなくて……家では花とか色々育ててるんですけど……ダメですか?」
反応に困っている柚子達の様子に、相手は他に何かアピールする必要があると思ったらしい。ひと息にそう言いきって、どうですか? といった表情をしてみせる。
「……ううん。全然、ダメじゃないです!」
「……これを狙ってのその格好か。お前」
「さあ。どうだろうね?」
手を繋いで喜び合う少女と柚子を眺めながらのルーナの言葉に、マスク・ド・ローゼは穏やかに肩をすくめてみせるだけだった。
続劇
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