19.竜を打ち倒すもの
夕闇の中。
ゆっくりとした羽ばたきで降りてくるのは、巨大な影。
飛行機能そのものに直接に関わるわけではないのだろう。重厚な甲殻に覆われた翼は既に半ばまで畳まれて、そいつは山肌に空いた縦坑を、緩やかに降りてくる。
両の脚で地面を踏めば、周囲を短くも激しい揺れが襲い、小山のような巨体の圧倒的な重量をダイレクトに伝えてきた。
どうやら重厚な外観から分かるとおり、地上を歩くことはそれほど得意ではないらしい。鈍重な動きで二歩、三歩、地面を揺らしながら歩を進め、広間の真ん中にたどり着いたところで、緩やかに天を仰ぐ。
咆哮。
聞く者がいれば思わず耳を押え、大気揺らす振動に瞳を閉じる者もいるだろう。
だが、その姿を見ることを止めなかった者達は、見た。
その吠える口元に、小さな小さな……人間の手の平に載るほどの布の塊があることを。
やがて、その咆哮も止まり。
曇天を体現した天候の化身は、天を仰いだその姿勢のまま、その重厚な姿をゆっくりと薄れさせ始めた。曇り空をそのまま映し込んだ暗灰色の甲殻も、その向こうに苔むした岩陰を透けさせていく。
生きるもの、動くもの、ざわめくもの。
今だけは全ての存在が沈黙し、少しずつ非実体化していく天候の化身を見守っているかのように見えた。
そんな、静寂の世界の中。
大気を引き裂き、まっすぐに駆け抜ける銀の弾丸の飛翔音が、広い洞内に木霊した。直線軌道の弾丸は着弾寸前で奇妙にねじ曲がった軌道を描き、天候竜の口元を斜めから打ち上げるように着弾する。
連なるのは、その衝撃で支えを失ったポーチが下へと落ちる、ぱさりという音だ。
天候竜は、動かない。
そして、奇襲をしかけた少年達もまた、沈黙を守ったまま。
先に動いたのは、天候竜。
「撤退! 撤退ー!」
敵の動きが引き金になった。即座に各委員長の声が洞内に響き渡り、一同は撤退を開始する。
「待って! 天候竜さん!」
そんな中、こちらを向いた曇天竜に、声を投げかける者がいた。
ファファだ。
その声に反応を示したのだろう。灰色の巨竜も、ゆっくりと頭をそちらへ巡らせて……。
「わたし達、悪いことをしに来たわけじゃないの! もし天候竜さんが持っていったポーチの中に欲しいものがあるんだったら、あげるから……! 中の小さな瓶だけ、わたし達に返して欲しいの!」
ファファが使っていたのは、先日トビーを説得したときに使っていた、意思疎通の魔法だ。もっともメガ・ラニカに戻っている間に覚えた魔法だから、こちらの言葉を向こうに伝えるだけの魔法……のはず、なのだが。
「ふぇ……っ!? え、あ……シ、ユウ………っ? ひゃ、やあぁぁぁあぁあぁあっっ!」
連なるのは、絹を引き裂くようなファファの悲鳴。
魔法を介して、彼女の元へと流れ込んだのは……。
その名と、全てが押し潰されそうになるような、悪意。
「……ひっ!」
ひとの到底持ち得ぬ悪意・敵意を正面から向けられて、少年に逃げろという方が無理だったろう。十秒も曝されれば心さえ崩されかねないそれから逃げることが出来たのは……。
「バカ野郎! 天候竜と意志を交わそうなんて……呑まれるぞ!」
少年の身体を激しく揺らす、小さな姿があったから。
頭の両側で結われた白銀の髪に、鋭い瞳。
ファファとそれほど背丈が変わらぬ、その少女の名は。
「あなた……誰……? セイルくんじゃない……?」
強すぎる悪意に曝され、ぼんやりとした思考で正面を見据えれば……セイルの外見ではあるが、明らかに普段の少年のそれとは持つ気配が違っていた。
「通りすがりの幽霊だよ! さっさと撤退しろ!」
「ファファ!」
やや遅れてきた冬奈にファファを放り投げ、セイルは懐から携帯を取り出した。
慣れた手つきでストラップを取り外し、携帯は再び懐へ。
手に握られているのは、いつもの巨大なハンマーではあったが……何の意匠か、鎖付きの鉄球が繋がれていた。
「なかなか親らしい事もしてやれなかったけどな……よっく見てろよ、セイル……」
既に天候竜は眼前だ。
額に穿たれた二つの傷跡に苦笑いをひとつして。
「これが……鋼の輪鎚の戦い方だっ!」
周囲の逃げる生徒達の時間を稼ぐよう、セイルの姿をした『誰か』は、これ以上ないほどに絶望的な戦いを開始する。
鉄球で巨体を打ち据え、車輪を出しては再実体化した重殻の表を駆け抜ける。セイルの戦い方は、危険極まりないものだったが……フォローに入っていた他のメンバーの撤退に役立ったのも、また事実ではあった。
だが、それも一時のこと。
咆哮と共に竜が翼を拡げ、全身の鱗の隙間から極限まで圧された空気を発すれば。巨体はふわりと浮き上がり、そのまま翼のひと打ちでセイルの追撃をあっさりと引き離す。
「ちぃっ!」
瞬発的な加速で言えば、ハンマーの車輪形態でさえ竜のそれには遠く及ばない。
極限に頭を下げ、その顎門で喰らい、引き裂こうと迫るのは……。
「っ!」
やはり、弾丸を放った張本人。
せめて注意を寄せられないかと、銀の弾丸の残りや人型のメカニックが竜の眼前に向けて殺到するが……あまりにも小さなそれらに竜は気付く気配もなく、ひたすら自身の定めた目標へと突き進むのみ。
唯一の注意の払い手であったセイルは後方に。
標的の悟司も、そして傍らにいた百音も、逃げるにはもはや時間が足りなさすぎて。
迫る顎門は、すぐ目の前に。
もはや竜の進撃を遮る者も、遮れる者も一人として…………。
「やらせんっ!」
いた。
悟司の、百音の前に立つのは、小柄な姿。
袴履きのその姿は勇ましく、だがしかし、迫り来る巨竜の迫力を前にしてはあまりにも非力に過ぎた。
「良宇!?」
その拳は短く、遠隔からの攻撃に足りはしない。
その脚は遅く、近接からの陽動も出来はしない。
だが。
「やらせるかあああああああああああああああっ!」
輝く両腕を覆うのは、真白な鋼から打ち出された、竜のそれに劣らぬ重甲だ。
それができるのは、たった一つ。
護ること。
迫る巨竜の顎門を、圧倒的重量差と加速のあるそれを、真っ正面から受け止めること。
「でええええええええええええええええええええええいっ!」
己の信念全てをその一手に込め、良宇はそれを……。
成し、遂げた。
無論、良宇一人の力ではない。白い手甲から放たれた無数の光の帯が、迫る竜にからみつき、その加速を緩め、重量を削ぎ取っているからだ。
けれどその力の源は、全て小さな彼女の内に。
足りぬ経験と実力を信念の二文字で端から補い、レリックに眠る力を引きずり出したのは、紛う事なき彼女の想い。
「どっせぇぇぇぇぇぇぇいっ!」
良宇の小さな両腕が、直線方向に定まっていた竜の軌道を、弓なりのそれへと強引に変換していき……。
「………これは、なかなか……!」
やはり撤退の支援をしていた真紀乃を拾うと、セイルの姿をした少女は小さく笑い、外へと続く洞窟へと進路を取った。
セイルが洞窟に飛び込むと同時、投げ飛ばされた天候竜が大地を揺らす轟音が、地下空洞の内に響き渡る。
天候竜を、投げ飛ばす。
「………ムチャクチャやるな、良宇のやつ」
目の前で繰り広げられた想像を絶する光景に、死を覚悟していた悟司は、ぼんやりとそう呟いていた。
「って、感心してる場合じゃない! 逃げるよ、美春さん! 僕たちで最後だ!」
だが、そんな時間稼ぎもほんの一瞬のことだ。多少投げ飛ばしたところで、天候竜を倒せたわけでは決してない。
驚いていた悟司もすぐに我に返り、傍らの百音の手を掴み取る。事は命に関わるのだ、相手のプライドがどうこうなどと言ってはいられない。
「でも、悟司くんの弾丸が……っ!」
投げ飛ばしは、さしてダメージにはならなかったらしい。身を起こしつつある灰色の巨竜は、ゆっくりと両の羽根を動かし、こちらに目標を定めつつある。
既に良宇も逃げた後。もはや洞内に残るのは、悟司と百音だけだ。
「そんなものどうでもいいよ! 百音の方が大事だっ!」
そう叫んだ、刹那。
「っ!」
百音の取り出していたロッドが強く輝き、五本目のラインが輝きと共に刻み込まれた。
掴む手は、少女の手。
少年の手ではない。
「美春………さん?」
「百音で、いいよ。………悟司くん」
少女の傍らに立つのは、少年ではなく少女の百音。
いや。
甘い意匠の戦衣に身を包むその名は……ハルモニィ。
五つ目の試練のクリアと共に与えられた新たな力の高まりが、霊薬の効果を振り払ったのだ。
「まだ逃げていないの、あなた達!」
そこに舞い降りてきたのは、やはりハルモニィに近い意匠を持つ戦衣の娘だった。
「あなたは……ローゼ?」
ただ、構えるのはハルモニィのようなロッドではない。いつも見慣れた……マスク・ド・ローゼの細剣だ。
その剣で少女の正体だけは理解するが、急転する事態の最中だ。彼女の本当の正体にまでは、考えを巡らせる暇もない。
「……すべきことは分かるわね、ハルモニィ!」
「ええ!」
携えた細剣は、戦うためではない。
構えたロッドは、竜の額の弾丸を取り戻すためでもない。
「美のために捧げましょう……我が剣の、全てを!」
故に、少女は剣を構えた。
その先にあるのは灰色の巨竜。
「女の子を三人も無理矢理追っかけるなんて、男の子としてどうかしら? 今日はこれでおしまいよっ!」
だから、少女はロッドを構えた。
二人の背後にあるのは、守るべき者。
「魔法の剣姫、ブリリアント☆ローゼ!」
「魔法のお菓子屋さん、スウィート♪ハルモニィ!」
二人揃ってくるりと回ればフリルたっぷりのミニスカートが軽くひるがえり。
「甘〜い時間の、始まりよっ♪」
「ここに………絢参っ!」
名乗りと同時に薔薇の旋風とハートの嵐が巻き起こる。
その後に残るものは……。
地下空洞の中。ゆっくりと実体を失っていく、灰色の天候竜の姿だけだ。
再度組織されたポーチ捜索隊が洞内に送り込まれたのは、晶が聴覚強化で洞内に異音なしと判断し、さらに祐希が偵察のフィギュアを送ってからのことだった。
「拾ってきたわよー」
先頭で戻ってきた冬奈の手にあるのは、手の平に乗るほどの小さなポーチ。
この中に入っていた小さな瓶一つのせいで、楽しいはずの夏休みは良くも悪くも忘れられない夏休みになったのだ。
「……ちゃんと本物だろうな?」
「本物よ。ハークにも確認してもらったし」
晶にポーチを渡しながら、冬奈は苦笑。
ポーチの現物を判断できたのは、晶とハークの二人だけ。
ただ、晶は聴覚強化で中の異変を外から監視する役目があったため、捜索隊には同行できなかった。そのため、ハークが捜索隊に無理矢理同行させられていたのだ。
「中、もう変なものは入ってないよね?」
「入れてな……なかったわよね?」
「なかったわよ」
一応、ポーチの中身は洞窟の中で冬奈が確認していた。特に害のないお土産が幾つか入っていたくらいで、他に危なそうな物は見つかっていない。
「けどよ。結局最後って、どうなったんだ?」
最後の地震は良宇が天候竜を投げ飛ばしたためだとか、魔女っ子が出てきたとか、よく分からない噂ばかりで、結局天候竜がどうなったのかは誰にも確定情報が伝わっていない。
「さあ……? とにかく、みんな無事で良かったんじゃね?」
まあ、結論はそれだ。
誰一人怪我人もおらず、無事にポーチも手に入ったのだから、結果は上々と言ったところだろう。
もっとも、これからポーチを学校に持ち込んだところで、大目玉が来るのは目に見えていたが……。
それはまだ、誰も触れずにいる。
「おい、悟司!」
そんな中、レイジが呼び止めたのは、一人でいる悟司だった。
「………………百音は? 麓にもいないって聞いたが」
わずかにどう呼ぶか迷った後……紡いだのは、名前の方。
ともかく、一同の中に百音の姿がないのだ。既にレムたち飛行魔法の使い手によって、麓への輸送は始まっているが……そちらにも、百音の姿はないという。
「ああ。百音なら、事件もひと段落したし、先に学校に行ってるよ」
「なんでまた……」
どうせポーチを持って行って怒られるなら、みんなで行って怒られようという話になっていたし、彼女一人が先行する理由はどこにもない。
そもそも、肝心のポーチはまだここにある。
「絶対に内緒だぞ。約束できるか?」
悟司のパートナーの呼び名に現れかけた感情を、必死に胸の奥に隠しつつ。
レイジは小さく頷くと、悟司の口元にそっと耳を傾ける。
悟司としても言うべきかどうか迷うところだったのだろう。わずかな逡巡の果て、ぽつりと呟いたのは……。
「………………トイレらしい」
そんなひと言だった。
さすがの親友とはいえ、百音に起きたことは説明のしようがなかった。まさか百音の正体がハルモニィで、その力で霊薬の効果が彼女だけ解除された……などと、言えるはずもない。
しばらく百音は大変だろうが、そこは百音の家族達と協力して、上手くやっていくしかないだろう。
「ああ。まあ、立ってするのは……厳しいよな」
まあ、その気持ちは分からないでもない。
「……俺達も帰るか」
とりあえず聞いたことは忘れようと心に決めて、レイジが呟けたのはそんなひと言だけだった。
「だな」
女の子同士でそんな事を話していると、悟司の服の裾をくいくいと引っ張る姿がある。
「ん? どうしたんだ? セイル」
最後のセイルの活躍は、良宇と並んで目を見張るものだったが……そのお礼は既に言っていたはず。肝心のセイルは、覚えているのかいないのか、微妙な様子だったが……。
「…………これ」
どうやらその事ではないらしい。
その代わり、セイルが悟司に差し出したのは、小さな拳。
「何かくれるのか?」
手の物を受け取るように手を出してみれば、悟司の手の中に落ちてきたのは………。
「え……?」
二発の、銀色の弾丸。
「これ……は?」
悟司の手持ちの弾丸は、ポーチを弾き落とした分も含めて全て回収済みだ。腕のケースに入れてあるから、数え間違いはないなずなのに……。
「………………ひろった?」
セイル自身も分かっているのかいないのか。
そもそもどこで拾ったのかも分からずじまいだが……。
とにかく、悟司のもとに十発の銀弾が揃ったことだけは、間違いないようだった。
華が丘からゲートを通り、はるか彼方に進んだ先で。
「……見つけたわ、月瀬」
呟くのは、少女の声。
「………ミスリルバレット?」
穏やかな男の声は、すぐ目の前からだ。
少女がいるのは、声の主の背中の上。男は眠っている少女を、黙々と背負って歩いていたらしい。
「違うわよ。いや、そっちはもうエピックで届いてるでしょ? そうじゃなくって……見つけたのよ、キュウキを」
少女の言葉に、月瀬と呼ばれた男は無言。
しばらく背中の少女を片手で支え、ポケットの中をごそごそと探っていたが……やがて取り出した手の中にあるのは、淡く碧い輝きを放つ、ミスリル製の弾丸だった。
「いや、今頃気付くとか、遅いから」
とはいえ、そんな性格であることは知っているから、今更腹も立たないのだが。
「……封印は? ルーナ」
「解けかけてた。あんまり、良くない状態ね」
唐突に話を戻してきたパートナーの首筋に頬を寄せ、ぎゅっと抱きしめてみる。
「…………お義母さまに、連絡は」
「まだよ。先に向こうに寄って、報告しなくっちゃ」
キュウキの暴走は、最後には使用者の滅びをもたらす。
今度こそ止めてみせる。そう心に決め、少女にしか見えないルーナはパートナーにしがみついたまま。
「………この距離だと、結構かかる」
二人がいるのは、時の歪んだ世界の中だ。悪い歪みに巻き込まれれば、今までのように手遅れになりかねない。
ただ、今いるのは比較的安全な位置だった。だからこそルーナは魂を飛ばし、失われたミスリルの弾丸の追跡をする事が出来ていたのだが。
最短のルートを通れば……。
「そうね。華が丘に着くのは………文化祭の頃、かしらね」
続劇
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