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 赤い空に、大きな翼が舞っている。
 眼下の世界で起こる些事など気する気配もなく。巨大な翼と長い尻尾を優雅にくねらせ、空を舞う大気の化身。
「そっか……。明日、帰るのか」
 夕日を受け、紅に輝くその巨身を見上げながら、少年はぽつりと呟いた。
「うん。ママ達も、久しぶりに顔が見たいって」
 傍らで答えるのは、小柄な少女。わずかに目を伏せ、少年の顔から視線を逸らすかのように。
「なら、しゃあねえやな……」
 少女がこの街に来て、既に三ヶ月が過ぎている。『向こうの世界』と時間の流れは同じだと聞いてはいたが、年頃の娘を手放さざるを得なかった両親の心配は……三ヶ月の時を一年にも十年にも感じさせているに違いない。
「ふふっ。すぐ帰ってくるよぅ」
 仕方がないと言いつつも明らかに肩を落としている少年に。少女はくすくすと微笑み、その腕に小さな頭をことりと寄せてみせる。
 本当ならば肩に頭を乗せたいところだったが、座ったままの少女の背丈では、大柄な少年の肩に届かない。
「ホントなら、俺も一緒に行ければいいんだけどな」
 少女の生まれた世界は、この街から最も近く、最も遠い場所にある。
 時と世界を隔てる壁の向こう。メガ・ラニカと呼ばれる虚空の大陸が、少女の生まれた世界だ。
 だが、少年の住む街と友好条約が結ばれたばかりのその異世界への立ち入りは、双方の政府によって厳重に制限されており、滅多なことで渡航許可が降りることはない。
 例えそれが、少女の華が丘での生活をサポートする『パートナー』であったとしても、だ。
「大丈夫だよ。きっと、すぐ来れるよ」
 そうなるのは、一年先か、十年先か。
「陸さんにも、私の育った街……見てもらいたいし」
 長い歴史から見れば『ほんの』、という三文字で表されるわずかな時間も、まだ十代も半ばの少年達からすればはるか未来の出来事に等しい。
「……だな。そっちに行けるようになったら、必ず行くからな!」
 だがそれでも、未来へ繋がる約束に、少年もようやく笑みを見せる。
「それじゃ……帰るね。葵ちゃんも心配してるだろうし」
 元気を取り戻した少年に安心したのか、少女は公園のベンチから立ち上がった。公園の隅に設えられた時計は既に門限に近い。飛行の魔法で急いだとしても、ホストファミリーの親友をやきもきさせるのは間違いなさそうだ。
「ああ。明日また、見送りに行くからな」
「ふふっ。いいよぅ、そんな……………」
 だが。
 少女はその言葉を、最後まで紡ぐことは出来なかった。
 夕日に照らされ長く伸びる二つの影が、重なり合って。
 はるか彼方の夕焼け空を、巨大な竜がゆっくりと翔んでいく。
 地上の些事など、気にすることもなく……。


 これが、物語の序章。
 瑠璃呉 陸と、ルリ・クレリックの物語。

 二人の物語は、ここで一旦筆を置くことになる。

 本編の始まりはこの十六年の後。
 2008年8月1日。
 夏休みも三分の一を過ぎ、メガ・ラニカへの帰郷を控えた登校日から始まる……。


華が丘冒険活劇
リリック/レリック

#4 サマー・デイズ(前編)


1.それぞれの文月


 八月。
 夏休み真っ只中のこの時期、華が丘の校舎はほぼ無人となる。夏休みも活動を行う運動部や、九月の文化祭を控えた文化部の活動もあるにはあるが、それも学期中の喧噪からすれば微々たるもの。
 だが、この日ばかりは静かな校舎も普段の活気を取り戻していた。
 八月一日。
 登校日、である。
「久しぶりだな、レム!」
 魔法科一年B組の教室に入ってきたそいつの放ったひと言も、このタイミングに相応しいものだった。
「八朔か。しばらく見なかったけど、どうしてたんだ?」
 レムの家は華が丘の街中で、八朔の家にも近い。行動範囲が重なることもあって、一学期中は休みの日でも割と顔を合わせていたのだが……。
 夏休みに入ってからは、不思議とその姿を見かけなかったのだ。
「ちょっと、ウィルを連れて京都の実家にな」
 八朔は、県外から入学してきた越境入学生だ。もともとは華が丘に住んでいたのだが、家の事情で遠く離れた魔法都市『宇治』へ引っ越していったのだという。
 今は魔法の勉強のため、実家である祖母の家にパートナーと共に居候している。
「京都…………」
「な、なぁ、レイジ、悟司ぃ……レムがなんか壊れた……」
 そう呟いたきり動作を止めてしまったレムに、慌てたのは八朔のほう。
 近くにいた委員長達に声を掛ければ、事情を知っているらしい金髪の少年はため息を一つ。
「子門が部活の遠征かなんかで、京都に行ってたらしいんだよ。ウズマキ……だっけか? 時代劇ワールド」
「太秦だろ」
「そうそう、そいつだ」
 子門の部活は、確か水泳部だったはずだ。水泳部と太秦映画村がどう関係しているのか八朔には想像も付かなかったが、まあ行っていたというのだから仕方がない。
 忍者の役で水遁の術か古式泳法でも披露したのだろうか。
「なんだよ。だったら連絡くれりゃ、京都なんかいくらでも案内してやったのに」
 京都では家族との再会もそこそこに、パートナーと寺社巡りをしていたのだ。パートナーが女の子なら男が来るのはお断りだが、幸か不幸か男二人のむさ苦しいぶらり旅。そこに男がもう一人加わったところで何の不都合もない。
 特にレムは日本の文化に興味のあるタイプだから、京都巡りは楽しかっただろうに。
「…………」
 だが、その言葉にもレムは無言。
 むしろ、回りの空気は重みを増したようにすら見えた。
「……行ったの、子門さんだけなんだって」
 悟司の小声に、八朔は全てを理解する。
「………………すまん」
 あまりに間の悪い話の持って行き方に、そう言うのが精一杯。
「……気にすんな。オレも気にしてなんかないから」
 ようやく絞り出したレムの言葉で、場の空気はさらに重みを増していく。


 華が丘高校の端、魔法科実習棟。
 そこにある一室の扉が軽くノックされ。内から響く声に応じ、扉は音もなく開かれた。
「失礼します」
 入ってきたのは、一人の女生徒。だが、それがただの女生徒でないことは、ひと目見れば誰でも理解できるだろう。
 すいと伸びた背筋に、穏やかに揺れる長い黒髪。ただの制服ですら、彼女がまとえばフルオーダーの夜会服の如く。
 高貴なる者の一員として仕込まれた優雅極まる身のこなしで、部屋の中の人物へと一礼。
「ああ、キースリン。早かったですわね」
 それを迎え入れた小柄な少女は、キースリンの礼を受けてなお、席から立ち上がる気配もない。校内だというのに傍らに侍女を控えさせ、軽くティーカップを掲げてみせる。
「ロベルタ様……」
 少女の名は、ロベルティーネ・ヴァンデルフェラー。
 メガ・ラニカの名門貴族、ヴァンデルフェラー家の紋を背負う娘。同じ貴族とはいえ、格で言えばキースリンの属するハルモニア家など足元にも及ばない。
「昼休みだし、急ぐ用事もないでしょう?」
「あ、あの……」
 今日は登校日だから、昼休みどころか午後からは放課となる。ついでに言えば明後日からのメガ・ラニカ旅行の準備があったのだが……。
「なら、貴女の正体を知っているとしたら……どうするかしら?」
 ロベルタがつまらなそうに呟いたひと言に、キースリンはその身を固くする。
 彼女の秘密は、ハルモニア家において彼女の命を守るためのもの。それを知るのはメガ・ラニカでもごく少数、華が丘に至っては彼女本人と、パートナーとその家族の三人だけのはずなのに。
 まさか……。
「祐希さんが……?」
 信じたくはない。けれど、この世界でキースリンの秘密を知っているのは……。
「こちらで勝手に調べただけですわよ。あなたのパートナーは関係ありませんわ。……あと、そんな物騒な物もお仕舞いなさいな」
 彼女の言葉に、つい伸ばしていた指先をそっと手の内に包み込んだ。淡い光をまとい、『喚ぼう』としていたそれを、慌てて解除する。
「急ぎのようだし、さっさと済ませてしまいましょう。皐月」
 その名をひと言呼べば、脇に控えていた侍女が一歩前へと進み出た。
 彼女が持つ盆に置かれているのはティーカップではなく、小さな硝子瓶が一本だけ。
「ファム・ファタール。名前くらいは、聞いた事があるのではなくて?」
「……女性化……薬!?」
 メガ・ラニカにいた頃、そんな薬の名を書物で読んだことがある。
 だが、それは半ば伝説となっていた……。
「女の私が飲んで効果が証明できないのが残念ですけれど、効果は折り紙付きですわよ」
 メガ・ラニカにも、当然ながら魔法の薬はある。
 ただどれも魔法の補助や増強を行う触媒でしかなく、それ単体で魔法と同じ効果を持つ物はない。魔法医の使う薬も治癒魔法の増幅・補助を行うことが中心で、飲むだけで死者が生き返る……といった類の物は存在しない。
 はず、なのに。
「ただ、効きには個人差が強いそうですの。まずは試しに、一度に三分の一ずつお試しなさい。三度試して問題なければ、もう一瓶、準備してあげますわ」
 メガ・ラニカですら目にする事のないそれが、遠く離れた華が丘にあるなどにわかには信じられなかったが……ヴァンデルフェラー家の一員ともあろう者が、戯れのためだけに己の信用を犠牲にするような真似はしないだろう。
「……どうすれば、お譲りいただけるのです?」
 だが、逆を言えば相応の代価が求められるということだ。
 ヴァンデルフェラー家の一員ともあろう者が、代金などというモノは要求しないはず。ならば、一体何を対価とすれば……。
「別に。困っている可愛い後輩を見捨てておけるほど、私は薄情ではありませんの。……臨海学校まで、あと十日でしたわよね?」
 言われ、キースリンは言葉に詰まる。
 メガ・ラニカへの帰郷はまあいい。けれどその後に続く臨海学校は、彼女の秘密を守るための最初の試練だった。
 その大きな壁を、ロベルタは助けてくれるというのだ。
「狭い社交界だもの、本当に構わなくてよ。まあ、いずれ何かの時に返して頂戴な」
 無言のまま頭を下げるキースリンに面白くもなさそうにカップを掲げ、ロベルタはその中身をひと口。
「まったく。貴族には変わった風習を持つ家が多いとはいえ、貴女の所は……」
「格別、ですの?」
 言いかけ止めたロベルタに、首を傾げるキースリン。
「…………いえ。よく考えたら、それほどでもありませんでしたわ」
 メガ・ラニカの社交界で奇矯で知られる貴族の有名どころを脳裏に浮かべ、ため息を一つ。
 そもそもハルモニア家の秘中の秘を知っている段階で、彼女自身もキースリンを笑える立場にはない。
「ああ、こんな所にいた! ロベルタ!」
 そんな事を話していると、閉じていたはずの戸ががらがらと開いた。
「やれやれ。また煩いのが……」
 入ってきたのは長身の少女。ずかずかと大股に歩み寄る少女に、ロベルタは露骨に眉をしかめてみせる。
「ちょっと! あたしに代わりに挨拶して来いって、どういう事!? 自分の家なんだから、自分でちゃんと帰りなさいよ!」
「私も暇ではないのよ。暇な貴女が何とかしてくれても、バチは当たらないでしょう? 冬奈」
 ロベルタと冬奈。
 唐突に言い合いを始めた二人に、キースリンは「私の秘密を探ることが忙しい事の一つなんだろうか……」と思ったが、さすがに口には出せなかった。


続劇

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