20.月光に戦うものたち
日の暮れ落ちた華が丘、細身の影が空を舞う。
影となった木々を駆け抜け、瓦の屋根を翔び越えて。
その速度は、けっして迅くはない。速さを競うより、翔けることを愉しむかのように。そして一瞬たりとてそのスピードを落とすことはなく。伸びやかに、そして優雅に、翔け、跳んでいる。
やがて立ち止まったのは、真っ直ぐに立つ糸杉の上。
「さて、どうするか……」
眼下に広がるのは、華が丘高校の校舎と校庭。
親愛なる学びや。
明日の実技試験では、この外のフィールド全てが試験区域となる。
相手は美学も何もない、本能だけで動く蟲。
正直なところ、そんな優雅ではない相手に挑むのは、気乗りするものではない。
だが、かといって力任せに挑むのも、こちらの美学が許しはしなかった。ましてや戦闘放棄して味方の足を引っ張るなど、言語道断だ。
目指すべき所は、まだ見えない。
そして、至る道筋さえも。
「………ん?」
巡り巡る思考の中で。
ふとそれを止め、前を見た。
あるのは校舎。華が丘高校の、本館だ。
目に留まったのはそこではない。建物の上、屋上に立つ、細身の姿。
「あれは……………ッ!」
そいつはわずかに首を動かし、こちらを『視た』。
強い気配に、ぞわりと全身が総毛立つ。
互いの距離ははるかに遠く、常人ならば豆粒ほどにしか見えぬ間合があるはずなのに。
彼も相手を確かめて、相手も彼を確かめた。
「……………」
こちらをじっと視るそいつが浮かべるのは……笑顔。
圧倒的な自信と。
意思と。
自らの行う行為を悪と解してなお歩みを辞めぬ、覚悟を示す嗤い顔。
悪。
そう、悪だ。
脳でも、心でもなく。魂がそれを、感じ取る。
「その強い悪の気……」
仮面の下、少年は呟く。
「その真っ直ぐな気……」
笑顔の下、怪人も紡ぐ。
それ以上の言葉はいらぬ。
本能が、全てを理解する。
目の前のそれは、剣交える相手だと。
細い月が雲に隠れ。
やがて再び現れたとき。
糸杉の上と校舎の上に互いの姿は既になく。
月光落ちる天空にあるのは、白衣の狂科学者と、仮面の剣士、天翔る二人の戦士の姿。
激突に、無粋な音など必要なかった。
強い衝撃に。
小さな体はころころと転がり、轟音と共に壁へと叩きつけられた。
「どした? そんなんじゃ、追いつけやしねぇぞ?」
身ほどもある大剣をぐるりと回し、男はネクタイを指一本で緩めてみせる。
吐く息は短く鋭く。ネクタイに抑えられていた気道が万全となった事を確かめ、再び大剣を振りかぶる。
既に白い影の姿は無い。
だが、今宵は月がある。
細く弱い月光であっても、光があれば必ず大地に影は落ちる。
「上っ!」
落下速度と自重の全てを叩き込み、それでも威力が足らぬと思えば、魔力で自重を倍加させ。
上から来るのは鉄槌の一撃だ。
けれど、ネクタイの男はそれを受け止めようとはしなかった。
彼らの神器は壊れない。魔力と呪文で分子構造すら書き換えられた魔術の鋼は、通常の物理攻撃でその形を失うことはない。
だが、それを扱う人間は別だ。
いかに丈夫な盾、折れぬ刃を持とうとも、それを支える腕が人間の限界を超えることはない。
受け止めれば、腕が折れる一撃。
それを正面から受ける気はさらさらない。
裂帛の気合と共に男が選んだのは、守りではなく大振りの斬撃だった。巨大な刃は魔力の輝きを帯び、封じられた飛翔の力を全開まで解放させる。
刃の重量はそのままに、倍の加速で威力を増して。
打ち付けるのは正面からではなく。
鋼の鎚の、側面だ。
「っ!」
直下に向かうベクトルに、横への方向を打ち込まれ。ねじ曲げられた軌道の上に、標的となる男の姿はどこにもない。
さらに、重量を増して上がった威力は少年の制御をはるかに超えて。
小さな体はころころと転がり、再び河川敷の堤へと打ち付けられる。
「ハンマーだって、突っ込んで殴りゃいいってもんじゃねえかんな。よく見て、ちゃんと考えろー」
かつての大鎚の使い手は、そのどちらも本能のレベルでこなしていた。もちろんそれは男の知らぬ、圧倒的な経験に裏打ちされた成果ではあったのだろうが……。
その血を受け継ぐ少年ならば、出来ないものではないはずだ。
「…………」
少年は無言で立ち上がり、動きを止める。
息は上がっていない。瞳も戦意を失わぬまま。
「さて、どう出る……?」
無論、男の大剣にも弱点はある。事実、目の前の少年と同い年の頃には、先代の使い手に手も足も出なかったのだから。
男は大剣を支えにほぼ棒立ちのまま。
そして、それを見据える少年の瞳の色が……変わった。
「……………っ!」
ゆらり、白く長い髪が、風もないのにはためいて。その内から小さく飛び出してきたのは、獣の耳。
少年の口から放たれるのは、獣の咆哮。
小さな体をなおも低く屈めるその姿は、まさしく飛びかかる寸前の獣の如く。
「……この月齢で獣化なんか使うか……? あのババァ、何も教えてやがらねぇな……?」
天の月は新月から明けたばかりの細い三日月。
狼の特性を受け継ぐ彼らの一族にとって、種族の力が最も失われる時期である。
その時期に種族の力を借りたところで、まともな力が出せるはずもない。
「ァァァァァァァァアァアアァアッ!」
咆哮。
揺れる体は、既に制御を失っている。
「ちっ!」
獣と化した少年の殺気は、かつて相対した少女と全くの互角。伸びしろに関して親譲り……いや、新月でこれなら、親以上か……なのは願ったりではあるものの。
今の自分が、その力の全てを受け、無事に流せるかどうか……。
軽薄なカラーシャツの背を伝うのは、冷たい汗だ。
相手は獣。こちらの弱気をそのまま突いてくる。
ならば、気当たりだけでも負けてはならぬ。
大剣の握りに力を込めた、その瞬間だった。
「……………………っ」
少年の体が、ぐらりと崩れ落ちたのは。
「……無茶するから」
強すぎる力に体が耐えかねたのか。それとも、爪先ほどの細い月がみせた気まぐれか。
少なくとも、男の眼前の危機は去ったらしい。
だが、その瞬間だ。
「何やってるのよ! パパーっ!」
次の男の災厄は、空から来た。
減速もほとんどしないままそいつは大地に滑り込むように着地。横掛けだったホウキをぐるりと回し、石突きの側を地面にがつ、と打ち立てる。
「またセイルくんいじめて……! 何回言えば分かるの! パパのバカ!」
「……いや、違うって言ってるだろ……? リリぃ……?」
先ほどまでの戦士の表情はどこへやら。
愛娘のこっぴどいひと言に、骨折り肉砕く鉄槌の一撃さえ薄笑い一つで流した男がおろおろとうろたえている。
父の威厳も戦士の厳しさも、あったものではない。
「それに、明日も期末テストなの! それでなくても赤点スレスレなのに、セイルくんがもっとバカになったらどうするのっ!」
「……いやお前、それはセイルに対してひどかぁないか?」
別に男も、セイルが嫌いだからこんな事をしているわけではない。それどころか、この一瞬前まで男も命の危機だったのに……。
「いいから帰るわよっ! セイルくん!」
親の思い、子知らず。
「あのなぁ……」
反論が許される隙もない。
ずるずると引きずられていくセイルに、陸はやれやれとため息を吐くのだった。
庭に響き渡るのは、落下音と無数の木の枝が折れる音の重奏だ。
慌ててその元に駆けつけてみれば、そこにあるのは大の字で転がっている少年の姿。
「……大丈夫か? ウィル」
テスト勉強もひと区切り。風呂の支度が出来たからと呼びに行けば、パートナーの姿は部屋にも居間にもなかったのだ。
庭にでも出たかと探しに出れば、案の定。
「ああ。大丈夫だ、良い気分転換になったよ」
全身擦り傷まみれ、小枝と木の葉に長い銀髪を好き放題に飾らせたまま、ウィルは穏やかに笑っている。
「そ、そうか……」
彼のとらえどころのない性格は、このひと月でだいぶ理解していたはずだった。
そこからすれば心配するほどでもない事は確かなのだが……やはり、彼のことを本当に理解するためには、まだまだ沢山の時間が必要らしい。
「私は私らしくすればいい。そういうことだったんだ」
天上に広がる細い月を見上げながら、ウィルはもう一度、高らかに笑い声を上げるのだった。
続劇
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