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19.屠竜の剣の伝説

「ほら。母さんも、早くしないと遅れるよ」
 朝の支度を終えた祐希が向けたのは、玄関でやはりローヒールを履こうとしている彼の母親だった。
「はいはい。あ、祐希ー」
「何……」
 言いかけた祐希の言葉は、そこで止まった。
 止められた。
「“ちょっとはキースリンちゃんのこと、女の子として見てあげなさいよ?”」
 首元に絡みつく細い両手と。
 重ね合わされた、唇によって。
「だから、やめてって言ってるでしょ!?」
 口元に絡みつく甘いリップの感触をハンカチで拭い去りながら、祐希が上げるのはいつもと同じ抗議の声だ。
「うー。キッスちゃぁん。祐希が親子のスキンシップ、させてくれなーい」
 拗ねたようにそう言って、キースリンの頬にもキス。
「バカなこと言ってないで。早くしないと、電車の時間……」
 呆れたようにいつものやりとりを口にしようとした祐希に、ひかりは勝ち誇ったように胸を張ってみせる。
「ふふー。母さん今日は営業先に直行だから、もうちょっと遅くても大丈夫なのでしたー」
「はいはい。じゃ、行ってくるよ!」
 ならば出発そのものももう少し遅くて良いのではないかと思ったが、ロクな予感がしなかったので黙っておく。
「行きましょう、祐希さん」
 いつものように伸ばされた手が、祐希の指先にそっと触れ。
「あ……」
 いつもは感じない、思った以上に柔らかな感触に、祐希は無意識にその手を引っ込めていた。
「ふふっ。どうかしたー?」
「い、いや、何でもないよ。行きましょう、キースリンさん!」
 笑顔で混ぜっ返すひかりの言葉に反発するよう、キースリンの手を握りしめ。
「期末テスト、がんばってねー」
 その言葉を遮るようにドアが音を立てて閉まれば、すぐに階段を降りる規則正しい足音が聞こえてくる。
 ただその足音は、いつもよりも幾分か早足だ。
「さて……どうなるかなぁ。あの二人」
 あからさまに焦りの色を見せた祐希の姿を思い出し、彼の母親は薄いリップの塗られた魔法の唇を、小さくぺろりと舐めてみせるのだった。


 期末テストは一日に三科目。一日の日程は午前中に全て終わり、午後からはテスト勉強期間を兼ねた放課後になる。
「うぅ……ここも間違ってる……」
 図書室に隣り合った学習室。答えの書き込まれた問題用紙を見てため息を吐いているのは、一人の少女だ。
「リリ。終わったことより、まず明日のテストを考えた方がいいわよ……?」
「うぅ。分かってるけどさぁ……」
 冬奈に言われるまでもないが、気になるものは気になるのだ。次の問題も確かめてみるものの、どうも旗色は良くないようだった。
「そうじゃい。バカ同士諦めて、後で八幡様に拝みに行こうや」
「……バカなのは分かってるけど、維志堂くんとは一緒にされたくないよぅ」
 そんな切羽詰まった連中が揃っている学習室でただ一人、教科書やノートを広げていない者がいる。
「……なんか、余裕だね。委員長」
 レイジだ。
「今更詰め込んだって、どうにもなんねぇよ」
 教科書どころか、彼が開いているのは分厚いハードカバー。学習室より、図書室で読むべきような本だった。
「それに、教える方が案外勉強になったりすんだよ」
 そんな彼が図書室ではなく学習室にいるのは、無論理由がある。
「………すまん」
「気にすんなって。それにまずは自力でなんとかしねぇと、神様も力なんざ貸してくんねぇぜ?」
 へらりと笑い、八朔と良宇のノートをのぞき見る。
 八朔はそれなりに進んでいるようだが、良宇は字が汚すぎて、何が書いてあるのかよく分からなかった。
「けど、こないだから何読んでるの?」
 質問がないという事は分かっている証拠と適当に解釈しておいて、冬奈の問いにハードカバーの表紙を見せてみせる。
「こっちの世界の竜退治の神話とか、伝説とかをな」
「竜退治……ねぇ。スサノオとか?」
 冬奈が上げた名は、日本神話に出てくる竜退治の英雄だ。
「ああ。後はジークフリードとか、カドモス王とか、ヴリトラとかな。それで初めて知ったんだけどよ……」
 日本だけではなく、インドからヨーロッパを過ぎ、北欧まで。レイジが目を通している範囲は、冬奈が思っていたよりもはるかに広いようだった。
「こっちの世界って、いないんだな。竜」
 全ては歴史の彼方の物語。最も新しい物語でも、聖書やローマ神話など、千年単位での過去となる。
「地球の竜は伝説の生き物だよ。天候竜ならいるけど……」
 余程のことがない限り、天候竜は人は襲わない。もちろん向こうから何かしてこない限り、こちらも無用な攻撃を仕掛ける事はない。
 華が丘と天候竜の関係はこの二十年、不干渉という名の関係が続いている。
「そうなのか。じゃ、ホントに竜を倒した奴の話なんてのも、聞かないよなぁ……」
「そりゃまあねぇ。天候竜だって、相当強い魔法でも使わないと倒せないんでしょ?」
 ならば、レイジが知る最も新しい竜退治の伝説は、数百年前のメガ・ラニカでの物語だ。
 その手の資料は、レイジの本棚には置かれていない。次に故郷に帰った時に、もう一度調べ直す必要があるな……と、思いつつ。
「そうなのか? じゃ、あれは何だったのかな……」
 勉強の手を止めた八朔が、ぽつりと言葉を口にした。
「何かあったの?」
「いや。華が丘に帰ってきたとき、電車の窓の向こうで、竜をやっつけてる人の影が……」
 深く立ちこめた霧の向こう。
 身の丈よりもはるかに大きな刃を操り、巨竜の首を刎ねる姿。
「魔法で?」
「いや、ばかでかい剣でこう、ずばっと」
 影だけではあったが、それは確かに八朔の瞳に焼き付いている。
「レリックでもない限り、竜の首を剣でずばっとは言い過ぎだろ……」
 その大剣がレリックだったかどうかは、もちろん今の八朔に知る術はない。
 ただ、武器型のレリックの使い手は彼のクラスでもかなりの数がいる。身の丈三倍の超巨大剣の使い手がいても、特に不思議ではないはずだった。
「そんな事より委員長、暇ならこっちにも勉強教えてよー」
 竜の話もひと区切りと見たのだろう。冬奈はハードカバーを開いたレイジに、そんな話題を振ってくる。
「構わねえけど、安かぁないぜ?」
「じゃあ、購買のパンで……」
 聞いていた八朔ですら安すぎると思ったその申し出に。
「よし!」
 レイジは満面の笑顔で、即答するのだった。


 自習室の隣には、その本体となる図書室がある。
「祐希さん。トビムシのこと、何か分かりまして?」
 そちらで分厚い図鑑と開いていたキースリンは、傍らの祐希にそう声を掛けた。
「いえ……。キースリンさんは?」
 祐希が開いているのは図鑑ではなく、文字の並ぶばかりの専門書。図鑑のように分かりやすくはないが、そのぶん深く、詳細な情報が記されている。
 ただ、彼の探しているような情報は、詳しすぎるそれには逆に載ってはいないらしい。
「こちらも……あら? ここ……どうでしょう?」
 キースリンは小さくそう呟くと、祐希の側に見ていた図鑑を寄せてきた。
「匂いに集まる性質……フェロモンですか」
 呟いた瞬間、わずかに鼻孔をくすぐる匂い。
 顔を上げれば、すぐ目の前にはわずかに開いたキースリンの唇がある。
(ば、バカ……何考えてるんですか、僕は。キースリンさんは男ですよ……?)
 祐希も健全な男子だ。女の子に興味がないと言えば嘘になる。
 だが、キースリンはれっきとした男子だ。身のこなしも振る舞いも、すべて女の子そのものだったとしても……その本質は、悟司やレイジと話すのと、何ら変わりないはずだ。
 はずなのに。
「あれ、委員長が勉強? 珍しい」
 唐突に湧き上がってきた奇妙な想いと戦っていた祐希に掛けられたのは、本物の女の子の声だった。
「水月さん達も勉強ですか」
 晶と、百音だ。どちらも教科書を手にしているあたり、自習室が一杯でこちらに流れてきたといった所だろうか。
「トビムシの性質を調べてたんですの。魔法生物の図鑑が返却されたと、ファファさんが教えてくれたもので……」
 貸し出しカウンターでやはりノートを開いているファファは、保健委員に加え、副図書委員も兼ねていた。
 各委員会の集まりは重なる事が多いため、本来は一人の生徒が委員の兼任は出来ないのだが……副委員は正委員ほど委員会に出る必要がないため、ファファたっての希望でこうしてカウンターに就いている。
「そっか……明日は、虫取りがあるんだよねぇ……」
 期末テストもそろそろ中盤戦。
 その最大の目玉が、明日の魔法実技試験だった。
「一応、いくつか対策は考えてあるんですが……相手の動きがわからないと、どうしようもありませんし」
 本来のトビムシは、世界に漂う魔力や少量の蜜を糧とするメガ・ラニカの生物だ。
 世話の必要もそれほどないということで、理科準備室にいるトビムシは教師達が持ち回りで管理しているらしいのだが……。
「キースリンさん達も、よく知らないのよね?」
「特に珍しい生物ではありませんけれど、詳しいことまでは……」
 こちらの世界でも、アリやカラスは普通に見るが、よく見るからといってその習性を熟知しているわけではない。
 むしろ、よく見かけるからこそ知らない事も多い。
「さて。それでは、すみません。僕はこれで……」
 そんな事を話していると、祐希は静かに席を立った。
「また委員長委員会?」
「はい。テスト期間中は休みのはずなんですが、急ぎの用があるとかで……」
 緊急招集がかかったのは、テスト終了直後のこと。まだ明日もテストがあるから、それほど時間を取られる仕事ではないらしいのだが……。
「あの、祐希さん。今日は……?」
 その言葉に振り向けば、こちらを見上げるキースリンと目が合った。
 いつものように先に帰っておいてと言おうとしたところで、言葉に詰まる。
「ああ、えっと………」
 黒く長い髪の間。わずかに潤んだ瞳は、こちらをすがるように見つめている。
 今にも泣き出しそうなその瞳に、先に帰れなどとは言えるはずもなく……。
「………その、ですね。そんなにかからないと思いますから、良かったら……待っていてもらえませんか? あ、もちろん、忙しければ……」
「はい。なら、もう少し調べ物をしていますわね」
 だが、しどろもどろの祐希の言葉に、キースリンはふわりと微笑み、優しくそう答えてみせる。
「……ど、どうしたんですか、二人とも。そんなにニヤニヤして」
「べっつにー。ね、百音」
「うん」
 二人のやりとりを楽しそうに微笑んでいる百音と晶に不思議そうに首を傾げつつ、祐希は図書室を出て行った。
「良かったね、キースリンさん」
「ふわ………はい? 何ですの?」
 調べ物ばかりで、緊張が続いていたのだろう。口元に手を当て、小さくあくびをしていたキースリンは……浮かぶ涙を拭いつつ、こちらも首を傾げてみせる。
「何でもないよ。がんばってね」
 ひかりの計画が順調に進んでいるらしい事を見届けて。百音と晶は少々離れたところに陣取り、こちらもノートを広げ始めた。


続劇

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