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4.華高の怪談

 少年が足を止めたのは、小さめな平屋の影だった。
 少し離れたところには弓道用の的が並べられたそこは、華が丘高校の裏庭だ。
「…………」
 無言のままポケットからストレートの携帯を取り出し、口の中で数語を転がす。
 次の瞬間、少年の腰に提がるのは、左右一対の日本刀。
 抜刀の動作はゆっくりと、正確に。
 辺りに咲いた桜の花が、風に吹かれて宙を舞い、やがて大地に落ちきるまで……それに等しい時間を掛けて、抜き放つ。
 右の刃に走るのは、紫電。
 左の刃が纏うのは、疾風。
 少年から放たれたそれが、大地に落ちた桜花を再び空へと押し上げて、打つ雷光が塵へと散らす。
 悦ぶように。
 昂るように。
「やってろ」
 その雷と風が止むのは、少年の言葉と全くの同時。
「………行くぞ」
 そして。
 左の刃を逆手に構えて身を屈め、くるぶしの高さまで落としたその鍔に爪先をそっと引っ掛けたなら。
 柄の側から風を切り。刃は少年の重みをその身に受け止めたまま、ゆっくりと飛翔を開始する。


「ったく。どこかに行くなら、行くって言って欲しいよ……」
 テントの間を歩きつつ、ハークの口から出たのはそんな悪態だった。
 もちろん傍らに女の子がいれば、そんな態度を取りはしない。
「せめて携帯くらい出ても、バチは当たらないよねぇ? そう思わない?」
 隣を歩くのは、残念ながらウィルだった。
 それも、機嫌の悪い原因の一つ。
 そしてもう一つの原因も、よりにもよって男絡み。
「セイル君も、一人になりたい時くらいあるのだろうさ」
 セイルが姿を消している事に気が付いたのは、夕食の片付けが終わった後のこと。
 シャワー室にもおらず、テントにもおらず、仕方なくこうして探しに出ているのだが……。
「ボクは一人で落ち込むくらいなら、可愛い女の子に慰めてもらいたいよ」
 昼間の騒ぎは、ハークの耳にも入っていた。
 とはいえ、それはたまたま運が悪かっただけで、セイルが落ち込む要因はない。むしろ健全な男子からすれば、リリのような可愛い女の子の下着を目の当たりに出来たのだから、こっそり喜んでも良いくらいだ。
「それは違うな。女の子は慰めてもらうのではなく、こちらが慰めるものだよ」
 そんなとりとめもない話をしながら、テント村を抜けたところで……。
「あれ、どうしたの? 四人で」
 歩いていたのは、A組一班の女子一同。
 副委員長のキースリンがいない代わりに、B組の女子が一人混じっている。確か、晶やリリの幼なじみだったはずだ。
「えへへー。学校の中を、探検に行くの」
「女の子だけで肝試し? 危なくない?」
 そうでなくても華が丘高校は魔法学校なのだ。どこに何の魔法のアイテムが転がっているか、分かったものではない。
「肝試しじゃないよ。探検!」
 けれど、百音が噛み付いたのはそこではなかった。
「一緒でしょ……?」
 要は、怖いもの見たさで夜の学校に忍び込むのだから、その本質は大差ないはずだ。
「違うわよ。肝試しは、夏にやるものだもの」
「………そうなんだ」
 晶にまで反論されたので折れておくが、やはり違いが分からない。
「それより、二人こそどうしたの?」
「ああ。セイルくんを探しているのだけれど……見なかったかい?」
 ウィルが声を向けたのは、リリから一番遠い位置にいた真紀乃だったが。
「……ブランオートくん? 見てないけど」
 神妙な表情で答えたのは、やはりリリだった。
「リリが酷いことしたから、どこかで泣いてるんじゃないの?」
「あ、あれは……別に、ボクが悪いんじゃないもん」
 あえて明るく混ぜっ返す晶に、リリは口を尖らせて反論してみせる。
 上手く晶や百音がフォローしてくれたのだろう。その姿に、セイルや良宇に対して腹を立てている様子はどこにもない。
「そうだ。だったら、一緒に探しませんか?」
「一緒に……?」
 真紀乃の言葉に最初に反応したのは、当然ながらハークだった。
「校舎の中にいるかもしれないでしょ?」
 普段はぼーっとしているものの、前衛系のレリックを使うだけあって、セイルの運動神経は頭一つ抜けたところにある。
 加えてその性格だ。校舎内への変わった出入り口を見つけたとしても、不思議ではない。
「ついでにあたし達の護衛もしてくれると、嬉しいんだけどなぁ……」
 どうやら、そちらが本命らしい。
「……やれやれ。困ったお嬢様がただ」
 ウィルはため息をひとつ吐き、芝居がかった大きな動きで優雅に一礼をしてみせる。
「お引き受けいたしましょう。構わないね? ハークくん」
 女の子と一緒に、誰もいない学校へ夜の肝試し。
 そんな魅惑的な誘いを『断る』という選択肢を、ハークが選ぶはずもないのだった。


 確かな気配を感じたのは、校舎の高さを超えた辺り。
 けれど少年は、構わず高度を上げていく。
 集中させた魔力を足元を推す刃に流し込み、放たれる風をさらに強く。
 加速。
 上昇。
 なおも、加速。
 下から来る気配を振り切ろうと、さらに魔力を注ぎ込む。
「!」
 けれど気配は、上から来た。
「夜中の脱走は感心しないわよ? ソーア君」
 上昇する少年を見下ろすのは、用具入れのホウキに横座りに腰掛けた、タイトスカートの細身の美女。
「雀原先生……」
 雀原葵。
 レムのクラスの、担任だ。
「…………」
 けれどレムから、それ以上の言葉はない。
 言葉の代わりはさらなる加速。
 今までの風の加速ではない。いつ入れ替えたか、足元が踏む刀が放つのは、雷の加速。
 それは葵の脇を駆け抜けて、レムの細身をさらなる上空へと押し上げる。
「…………へぇ」
 豆粒ほどの大きさになったレムを見上げ、葵が浮かべるのは冷ややかな笑み。
 ホウキに白く細い手を沿わせ、その身を一気に加速させる。ただの備品のはずなのに、レムのそれよりはるかに鋭く、しかし髪もスーツも、風を制して一糸の乱れを許すことなく。
 笑い、翔ける。
 追い掛け、追い詰め、撃ち取ることを目的とした、狩猟者の笑みだ。
「良い度胸……してるじゃない!」
 そして片手で結ぶのは携帯の着スペルではなく、古来から連綿と受け継がれた魔術印。着スペルほどの手軽さこそないが、極めれば発動に至るまでの速度は着スペルの比ではない。
「………炎よ!」
 葵の背後に現れた蒼い炎が、上昇するレムに向けて一斉に殺到する。


 家庭科室の鍵は、晶が確認したときのままだった。
 一同は何の苦労もなく家庭科室から校舎内の廊下へと。
「ええっと……まずは……」
 一階にあるのは、昨日からお世話になりっぱなしの家庭科室や調理室。料理や洗濯の合間に、面白そうなものがないのはあらかたチェック済みだった。
「近いところだと、理科準備室の踊る人体模型ですかね」
 確か、理科室は二階にあったはずだ。
「……そんなのがあるの?」
 志望校とはいえ、そんな細かい話まで聞くはずもなかった。そもそも華が丘で人体模型を勝手に動かす手段など、五本の指は足りもしない。
「ふっふー。学校七不思議のチェックは基本ですよ、基本っ!」
 何の基本かは、誰も聞かなかった。
 ただ、そんな不思議が普通な華が丘高校だからこそ、『不思議となりえる』踊る人体模型の正体が気になりもするわけで……。
「誰かが冗談半分で永続魔法を掛けたら、ホントに定着しちゃったらしいです」
「……それ、不思議でも何でもないじゃない」
 華が丘基準で言えば、わりと普通だった。
「じゃあ、音楽室の嗤うベートーベンは?」
「呪文の歌で、自然と魔化されちゃったとかじゃないでしょうね」
 歌は言霊。言霊は呪文。たとえ本人達がそう望んでいなくとも、思いの籠もった言葉は時に魔法の力の源となる。
 授業に部活、冬の合唱コンクール。歌一曲の力は微々たるものでも、それを果てなく束ねれば、それなりの力にはなるはずだった。
「何で分かったんですか!」
「………だからそれ、不思議じゃないし」
 魔法は確かに不思議だが、けっして怪奇現象ではない。厳然たる法則に縛られた、物理現象だ。
 だから華が丘では魔法が普通に見られるし、その技術を凄いと思う者はいても、不思議と思う者はいない。驚くのはせいぜい、旅行者か引っ越してきたばかりの新しい住人だけだ。
「せめて、人魂とか本物の怪物とか呪いとか、そういうんじゃないと……」
 タネさえ分かってしまえば、どれだけベートーベンやショパンが喋ろうと、面白みのない結論に達するしかない。
「ね、ねえ………」
 だが。
「どうしたのよ」
 百音が指差した先にあるのは、外が見える大窓だった。
 そしてその先、空の上。
 闇の中にゆらゆらと揺れる、青い灯火。
「あれ……」
 こんな時間に、そんな所で魔法を使う者はいない。
「ひ……」
 誰かが息を呑む音に、全員の背中に怖気が走る。
「人魂……っ!?」
 魔法は不思議でも何でもない。
 けれど……。
「きゃあああああっ!」
 誰かの叫んだ甲高い悲鳴に、その場にいた者は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
 いかに魔法使いのタマゴ、魔法世界の住人であろうと。
 本気で正体不明なモノは、やはり怖いのであった。


 校庭を歩いていた祐希が足を止めたのは、テントの先に見慣れた姿を見つけたからだった。
「鷺原君、ホリン君……どうしたんですか?」
 B組の委員長と副委員長だ。これにレムが加われば、この場でB組の委員長会議も開けてしまう。
「そりゃ、こっちの台詞だろ。どしたんだ、祐希」
「セイル君がどこかに行ってしまったので……探しているんですよ。見ませんでしたか?」
 最初は祐希がテントに残り、ウィルとハークが探しに出かけていた。けれど二人もいつまで経っても帰って来ず、結局祐希も『留守番役』を残し、こうしてテントから出てきていたのだ。
「セイルって、あのちっこいぼーっとしてるのか。見てねえよな? 悟司」
 レイジの言葉に悟司も首を縦に振る。
「そうですか……で、お二人は?」
「ちょっと、副委員長の心配をしにね」
 そう呟いて悟司が指したのは……。
「………上?」
 見上げれば、そこに浮かぶのは蒼い炎。
 そしてその合間を時折駆ける、紫の雷光。
「あんな所で、誰が魔法を……?」
 話の流れからすれば、一人はB組のもう一人の副委員長なのだろう。
 けれど、その相手は……。
「また増えた……。あんな魔法、一体誰が……」
 雷光が走り抜けるたび、炎は雷に打ち散らされて夜の闇にかき消えていく。しかしその消える端から、新たな炎が夜のあちこちに浮かび、雷光の源めがけてゆっくりと漂い出す。
 その数は減じるどころか、増えてすらいた。
 そして真に恐るべきは、一連の光景は全て無音で進んでいる事だった。
 破壊の火炎を、轟く雷が端から打ち消しているというのに、だ。おそらく誰かが、音を遮る結界も張っているのだろう。
 広範囲に放たれる火炎と、それより広い範囲の音を完全に遮る結界術。どちらも数人の術者が使うような大規模魔術なのだろうが、その難易度がどれだけの所にあるのかさえ、祐希には見当もつかなかった。
「あっちはしばらく掛かりそうだから、人捜し、手伝ってやろうか?」
「………いいんですか? ソーア君を放っておいても」
 雰囲気からして、雷光の源にいるのがソーアだろう。
 けれど、そんな炎を端から打ち落としていて、無事に済むはずもない……はずなのに。
「良かあねぇが……。そもそも俺達にゃ、あの高さまで行く方法もねえだろうが」
「何もしてないのも落ち着かないしね。良ければ、手伝うよ」


 階段を上り、廊下を走り抜け、屋上は怖いのでそのままスルー。
 そうなれば、行く先は階段を下るしかないわけで。
「はぁ……はぁ……はぁ………」
 見慣れた家庭科室の前。一階の廊下にたどり着いたところで、一同はようやく足を緩め、息を整える。
「何だったの、あの人魂……」
「誰かの魔法……?」
 冷静に考えれば、魔法だろう。
 炎を操る魔法そのものは、さして珍しいものではない。
「こんな時間にどこの暇人がやってるのよ!」
 けれど、こんな時間、こんな場所で、誰が炎の魔法など使っているのか……。
「じゃあ、天候竜……?」
「天候竜は火なんか吐かないでしょ」
 そもそも、天候竜は夜には現れない。
 そんな中。
「あれ? ウィルくんは……?」
 ふと気が付いたのは、百音。
「はぐれちゃったのかな……」
 百音の周りにいるのは、A組の三人娘と、ハークの四人だけ。ただ、エスコートを申し出た少年だけがその場にいない。
「セイル君だけじゃなくって、もう一人迷子……?」
 探す必要はないだろう。
 ない、はずだ。
 ないに決まっている。
 朝になれば、知らん顔して教室にいるに違いない。
 帰ってこないはずは…………ない。
 はず。
「…………」
 誰もが沈黙を破れない中で。
 小さく声を漏らしたのは……。
「……どしたのよ、リリ」
「あ、あの…………あ、あれ……」
 リリが指差す廊下の向こう。
 そこを見た誰もが、言葉を失っていた。
 廊下の影、闇の中。
 月の光を浴び、こちらにひたりと歩を進める、白く巨大な細身の体躯。
 華が丘高校……いや、日本にはいるはずのない。
 狼の姿を、目にしたままで。


 ゆらりと廻る流れる風と、闇を蝕む迸る雷。
 右の雷は炎を掻き消し……否、侵食し、その内から燃える炎を灼き崩す。
 左の風はその身に飛翔と機動を与え、灼き切れぬ炎の腕から主を最も遠い位置へと休むことなく逃がし続ける。 
「これも掻き消すの……? まったく、レリックというのは面倒な!」
 響き渡る轟雷の中、苛つく葵の叫びは誰の耳にも届かない。
 蒼い炎は相手の体力だけを焼き、身体疲労を与える術だ。直撃すれば体力を奪われ、朝まで目は覚めないだろうが……若い身だし、脱走犯への懲罰と思えばさして重い刑とは思わない。
 そんな炎の連続召喚と、多重制御。
 周囲には消音の結界と、奔る雷を防ぐ防御結界も重ねて張ってある。
「体力勝負は本当なら、はいりの仕事なのだけれど……」
 迫る雷光を用具室から拝借したホウキひとつでかわしつつ、葵ははるか上空のレムを睨み付けた。
 雷光は、迫る炎を一番多く巻き込める射線で放たれている。少なくとも、照準を付けられる程度の制御は保てている、ということだ。
「そろそろ……かしらね」
 呟いたその時、空を登り続けていたレムの動きが、ぐらりと傾いた。
 上昇から一転。身動きする気配さえないレムの軌道は、迷うことのない鉛直軌道。
 即ち、真下だ。
 落下しているのである。
 炎が当たった様子はない。
 だが、雷を使って炎の弾幕を端から掻き消しつつ、風を使ってあれだけの機動を同時にやってのけたのだ。体力の限界など、あっという間にやってくる。
「やれやれ……」
 葵が印を結び変えれば、蒼い炎は白へと変わり、落ちていくレムをふわりと包み込む。
 目の前までゆっくりと降りてきた細身の身体を、葵はそっと受け止めてやった。ホウキと身体は、魔法で既に固定済み。少年一人を抱えたからといって、バランスを崩すような事はない。
「………何やってるのよ、この子は」
 力を使い果たしたレムの表情は、すっきりとした穏やかな寝顔などではなく……。


 浮かべているのは、驚きの表情。
 過ぎた恐怖は、恐怖の想いを抱かせない。ただただ驚き、それ以外の一切の感覚を麻痺させる。
「ガ……ガルム………?」
 誰かが呟いたのは、テント生活一日目に姿を見せた、黒く巨大な狼の姿。
 それに近しい姿を持つ『何か』が、こちらへゆっくりと歩み寄る。
「きゃあああああっ!」
 ここに至って、驚きに恐怖が追いついた。
 叫んだリリが両手を突き出せば、その先に現れるのは月光を弾く透明な壁。
 相手の接触を拒絶する、防御の結界だ。
 廊下の通路一面を覆えれば、それには意味があっただろう。けれど不完全な精神状態で放たれたそれが覆うのは、通路の三分の一ほどだ。
 隙間を余裕でかいくぐり、白い狼はなおもこちらへ歩み来る。
(ど、どうしよう……っ!)
 晶が投げたボールペンを狼があっさりと避ける姿を目の当たりにしながら、ほんのわずか、余裕のある者がいた。
 百音だ。
(みんなが周りにいちゃ、変身できないし……)
 彼女の『本当の力』は、当然ながら明かすことの出来ない秘密の力。その禁を犯せば、降りかかる災いは想像を絶するという。
 自分だけに降りかかる災いなら、恐れはしない。
 けれどその災いは、我が身のみならず、近しい者達にも及ぶと伝えられている。
 周りを、見る。
 白い狼と、怯え、恐慌する友人達。
 守るべき、近しい者達。
 彼女たちの災いを取り除くために、新たな災いを呼び寄せては……何の意味も、ない。
「に、逃げようっ!」
 だから、残った冷静さ全てをかき集めて、まずはそう叫んだ。
「わ、わかった!」
 走り出す。
「百音も急いでっ!」
「わかってるよぅ!」
 逃げる位置取りは、わざと最後尾へ。
 仲間が全員逃げ切れたなら、変身の機会も生まれるはずだ。
 けれど。
 狼の動きは迅く、慌てて逃げる親友達は想像以上に速度が上がらない。二つの距離は縮まりこそすれ、離れる気配は毛ほどにもない。
 さして距離はないはずの廊下は無限とも思えるほどに長く……。
「助けて………っ!」
 叫んだその時。
 白い狼の姿は、薔薇の中へとかき消えた。


「葵先生……」
 上空から降りてきた葵を迎えたのは、レイジ達だった。
「気を失っているだけよ。明日の朝には、目が覚めるでしょう」
 葵の腕の中で気を失っているレムを、六つの瞳が心配そうに見つめている。
「脱走犯……ではないわね。あなたたち、何か知らない?」
 葵の追跡を振り切るだけなら、このレリックの力なら簡単だったろう。雷の加速を使い、真横へ逃げれば良いだけだ。
 だが、レムはそれをせず、上へ上へと逃げ続けた。
 まるで、力を使い果たそうとするかのように。
「………」
 葵の問いに、答えはない。
 けれどその沈黙は、答えを知らないのではなく、黙っている時の沈黙だ。
「試験の時に彼のレリックが暴走したのは、関係している?」
「……知ってたんですか!?」
「当たり前でしょう」
 華が丘高校の魔法科で、あの程度の暴走は珍しくもない。キースリンが庇い、怪我人も出なかったようだから見なかったフリをしただけだ。
「……レムの奴、あの事をかなり気にしてたみたいで」
 気持ちは分からないではない。
 けれど、魔法は常に暴走の危険を孕むもの。その洗礼を、レムは少々早めに受けた……葵からすれば、ただそれだけのことだ。
 殊に怪我人も出なかったのだから、むしろ運が良いとさえ言える。
「なら、昨日の晩も?」
「はい。ボロボロになって帰ってきて、それからぐっすり」
 ホームルームの時、眠たげにしていたレムの姿を思い出す。あの時はただテント生活に慣れていないだけかと思っていたが……。
「そんな事があったんですか……。僕も鷺原君も、気にしてないって言ったんですけどね」
 そういえば、受験の時にキースリンが庇ったのは、確かに目の前の二人の少年達だった。
 カフェで見ていた時の祐希はむしろ繊細なイメージさえ感じていたが、そんな目に遭ってなお魔法科を選ぶとは、なかなかどうして肝が据わっているらしい。
「とりあえず今日は目を瞑るけど……次からは先に相談なさい。委員長達が率先して夜遊びをするのは、クラスの士気に関わるわよ?」
「すいません。けど、こいつの気持ちも汲んでやってください」
「気持ちは分かるけどね。そういう馬鹿、よく知ってるし」
 そしてそんな馬鹿は、いい大人になっても治る気配がない事も。
「ともかく、何か他に良い手段があるなら、それを考えて頂戴。ソーア君の事が心配なら、出来るわよね」


 舞う紅い色と、ひるがえる白。
 月光の中でも二つの色はあせることなく、むしろ陽光よりも強く輝きを放つ。
「……間に合ったようだな」
 校舎の廊下。『どこからともなく』舞い降りたのは、白いマントの美丈夫だ。
 涼やかな目元を仮面で覆ったその姿は……。
「薔薇仮面さん!」
 晶がそう呼んでも、返事はなかった。
「薔薇仮面……さん?」
 百音が疑問形で呼んでも、返事はない。
 代わりにそいつはばさりとマントをひるがえし。
「そんな名前ではない! 私は美しき者の味方、マスク・ド・ローゼ!」
 高らかに自らの名乗りを上げた。
「マスク・ド・ローゼ!」
 二回ほど。
「そこの少年、美しきお嬢さまがたを早く安全な場所へ!」
「助かったよ、薔薇仮面!」
「だから、マスク・ド……」
 三度言いかけた仮面の背中に、白い影。
 少女たちは呆気に取られていても、狼までが呆気に取られていたわけではない。
「来た!」
 リリの言葉に振り返り、抜いた刃が放つのは、銀の光と薔薇の渦。
 細身の刃に手応えはない。けれど、至近距離から放たれた薔薇の嵐は、狼の視界を奪うには十分なもの。
「逃げろ!」
 仮面の剣士の叫びを引き金にして。少女たちは堰を切ったように走り出す。


 本館を駆け抜け、開いていた職員玄関から全力疾走。
「はぁ……はぁ……はぁ………」
 履き物を気にする余裕は、彼女たちのどこにも残っていなかった。
「なんか、逃げてばっかりだよね……」
 振り返った職員玄関からは、後続が出てくる気配はない。仮面の剣士も、白い狼もだ。
「薔薇仮面さん……大丈夫かな?」
 まさか、逃げ遅れたという事はないだろう。剣の腕も立つようだし、あの薔薇吹雪があれば、狼の足止めだって出来るはずだ。
「大丈夫……だよね?」
 百音の言葉を正面から肯定できる者は、誰一人としているはずもなく……。
「やあ、やっと見つけたよ。みんな」
 代わりにそんな暗い空気を吹き飛ばすのは、朗らかな声。
「あーっ! ローゼリオンくん!」
 沈んだ空気を意にも介さず微笑む少年に、リリも思わず大声を上げてしまう。
「あなた、肝心なところで……っ!」
「あの人魂ではぐれてしまってね。悲鳴が聞こえたから、慌てて駆けつけてみたんだけど……みんな、無事で何よりだよ」
「遅いわよ……」
 がっくりと肩を落とす晶達に、ウィルは穏やかに笑っているだけだ。
「で、あなた達は何をしているの」
 しかし、その空気を読まないことこの上ない笑顔さえ、背後から掛けられた声にはさすがに凍り付かざるを得なかった。
「あ………」
 漂うのは、生徒にはない威圧感。
 こんな時間でさえ一分の隙もないタイトスカート姿の彼女の名は、雀原葵。
「せ、先生っ! ガルムが……!」
 昨日の夕方の事件は、まだ葵にも記憶に新しいところ。
「誰か、また召喚を暴走させたの?」
 胸ポケットから携帯を取り出し、喚び出すのは一枚の壁紙だ。
 地面に転写された壁紙エピックから召喚されるのは、一抱えほどもある透明な球体。その内には、小さな光点がいくつか映っている。
「近くの魔法は、テントの照明魔法かしらね……。校舎の中にも、大きな魔法の反応は無いようだけれど」
 どうやら周囲の魔法を感知する球体らしい。中心に自分たちを置き、光点の位置を確かめれば、確かにテントと自分たちの位置関係に相当する。
「見間違いではなくて?」
 テント村の反対側、校舎の中にも小さな光点……おそらく、人体模型の永続魔法や、ベートーベンに掛けられた儀式魔法の類だろう……があるだけで、召喚獣がまとうほどの強い反応は現れてはいなかった。
「けど、真っ白い、大きな狼が……」
「白いガルム……ねぇ」
 通常のガルムは、黒い。
 突然変異の可能性はもちろん否定できないが、そんな変わり種を喚べる使い手が華が丘にいるなら、葵の耳にも噂くらいは入ってくるはずだ。
「いいわ。後は私が見ておくから、あなたたちはテントに戻っていなさい」
 魔法感知の球体を元へと還し、葵は折りたたみの携帯をぱたんと閉じる。
 念のために、閉じる前に防御結界の壁紙の準備は忘れずにおく。
「あの、雀原先生……」
「森永くんから話は聞いているわ。ブランオートくんなら、今はテントで寝ているそうよ?」
 その祐希も、既にテントに戻っている。B組のレムのことを心配はしていたが、彼の事は同じクラスのレイジと悟司が何とかするだろう。
「………そうですか」
 そう呟いて、女子達に続いてウィルとハークも、自分たちのテントへと戻っていく。
「それから、夜の学校探検の顛末は……明日、職員室でじっくり聞かせてもらいますからね」
 そして、背中から掛けられた言葉に、一同はそろって肩を落とすのだった。


続劇

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