山のような書類を前に、少女は恒例になりかけているため息を吐いた。 細い肩が下がり、艶やかな黒髪が力なく揺れる。朝結ってもらったばかりのそれは、昼前だというのにやつれ、どこかほつれているように見えた。 一番上に載っていた羊皮紙を取って呼び鈴を一振り。書類を渡して帰ろうとしていた担当の男を呼び戻す。 「何でしょう? イルシャナ様」 現われたのは作業衣を着たビーワナだった。穏和な山羊族の彼は、整備に忙しい獣機櫓とスクメギ公館の間を行き交う連絡役を務めている。 「『主力獣機ウシャスの搭乗者について』。これは、リヴェーダ宛ての書類ではないのかしら?」 獣機関連の業務は、技術関係に疎いイルシャナではなく、補佐役のリヴェーダに一任してあったはず。 よくよく見れば、二番目の書類も、三番目の書類も獣機関連のものだ。四番目は疑似契約関連の物らしいのでこちらに置いておくとして、五番目と六番目も獣機の備品関連の確認書類。 次々めくって数えてみれば、数十枚ある書類の中で本当にイルシャナの決裁を仰ぐべき書類など全体の三分の一にも満たなかった。何だか、莫迦にされている気さえしてくる。 「はぁ」 対する山羊の男は、ワンテンポ遅れて口を開いた。 「リヴェーダ様にお聞きしたところ、最終判断はイルシャナ様にとの仰せで」 要するに、仕事に慣れろという事なのだろう。将来王宮に戻れば、この辺りの苦労はスクメギの比ではないのだから、と。 「……そう。なら、仕方ないわね。呼び戻したりして御免なさい」 男が姿を消してから、イルシャナは持てあまし気味の執務椅子に背中を埋める。 王家直轄領スクメギの代官とはいうものの、彼女にとってのそれは、王都でより重要なポストに就くための研修だった。辺境の田舎町を治めて経験を積み、やがて大臣である父の後を継ぐなり、別の形で王宮に仕えるなりするはずの。 だがどこをどう間違えたのか、彼女が赴任して最初に起きた事件はスリの裁判でも土地問題の仲裁でもなく、何と他国の侵攻だった。この遺跡以外に何もない辺境の村落は、平和なココ王国で唯一の戦場と化してしまったのだ。 外交経験豊かな役人の応援が来ることもなく、ココ王国の魔術戦隊が支援に来ることもなく……。ココ王国の命運は、若干十七歳の小娘に一任されたまま。 「はぁ……」 ため息を吐いてばかりいても仕方がない。諦めて、先程放ったばかりの書類を取り上げる。 「搭乗者は新人か……。疑似契約は行わず、通常契約で運用中。現状、特に問題はない模様。……ってこれ、承諾書じゃなくて報告書じゃない」 もうつつがなく運用されているのだ。反対するとかしないとか、そういう問題ですらなかった。承認のサインを書き込み、次の書類へ。 「これは……」 専門用語が多く、内容の半分ほども分からない。山羊の男に残ってもらえば良かったかしら、と苦笑し、とりあえず脇へ。他にも分からない書類があるだろうから、後でまとめて説明を受けることにする。 その時、軽いノックの音がして、薄い木の扉が遠慮がちに開いた。 「イルシャナさま。今からお昼ご飯作るんだけど、お部屋に持ってきた方がいい? それとも食べに行く?」 護衛兼側近の控えめな言葉に、イルシャナはようやく表情を緩めた。 「あら。もうそんな時間?」 「うん」 ようやく仕事に慣れた彼女の稚ない言葉が心地いい。 王宮の堅苦しさを思い出させる敬語は、もともと好きではないのだ。口うるさい侍従長のいない間くらい、側近に敬語を強いらなくてもいいではないか。 「少し気分を変えたいわね。食べに出かけましょうか? エミュ」 軽く笑み、部屋の隅にあったコートをエミュから受け取った。 「うん。じゃあポクもコート取ってくるね!」 Excite NaTS 『Extra』 #1.7 幕外・連なる、断章 1.四分休符のスタンド・スティル スクメギの公邸にほど近いところにある一軒の酒場。さほど大きくないスクメギの、宿屋と酒場と喫茶店を兼ねるそこ。 穏やかな音楽を背に、イルシャナはフォークを皿へ戻した。 「ごちそうさまでした」 向かいで食べていたエミュが渡してくれたカップを受け取り、そっと口元へ。 店主自慢のミルクティーだ。ふわりとした甘みと爽やかな渋みが、口の中で溶け、柔らかく交わる。 「レアちんも一緒に食べられれば良かったのにね」 エミュが問いかけたのは、竪琴を抱えた少女だった。第一印象は儚げな美少女詩人、といったところだろう。古ぼけた竪琴を奏でる痩せた手足と、それを支える細い体。並より少し上等な服に…… 片目、である。 伸ばされた髪の下にあるはずの右目が、真っ白な包帯に覆われているのだ。古い傷のようで痛みはないらしいが、痛々しい姿が少女の儚げな印象をさらに際立てているのは間違いなかった。 その片目の少女の全てが……片目だけは実際に潰れていたが……作り物であり、計算された演技と知る者は、このスクメギにはいない。何しろ、本当は少女ですらないのだ。 「……詩人が食事どきに食べてたら、仕事にならないよ」 そっか、と無邪気に笑う少女の様子に、自然と笑みが浮かぶ。 もう一口、ミルクティを口に。 「そういえば、イルシャナさまぁ」 「何かしら?」 「王都って、どんなところ?」 エミュはもともと地方育ちだ。冒険者だった両親と別れ、自らの一人前の冒険者になるべく王都にやって来たのだが……王都に着いてすぐにシーラの依頼を受けてしまったため、名高い水の都のほとんどを見ていない。 「どんなところ……ねぇ。エミュは、王都のどんな所が知りたいの?」 言われて、イルシャナも首を傾げた。こちらは生まれてずっと王都で育ったため、エミュとは逆にどこが珍しいのかが分からない。 「んーとね。ポク、王都の事全然知らないから……イルシャナさまのお話なら、何でもいいよ」 あまりに漠然とした答えに思わず苦笑。観光名所の話、などと指定してもらえれば分かりやすかったのだが……。 「そう。じゃあ、他に聞きたいところがあれば、言って頂戴ね?」 そう前置きして、イルシャナは口を開く。 |