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第3話 幽霊、少女を泣かす



 「ん…………」
 少女はふと、瞳を開いた。
 「ここ………は?」
 柔らかい感触。
 それは、何ヵ月ぶり…いや、何年ぶりかの、暖かい羽根布団の感触。
 「えっと………」
 なぜ自分が羽根布団の中で眠っていたのか、状況が思い出せない。不安になった
少女はシーツを引き寄せ、そっと握り締めた。
 その姿勢のまま、思いを巡らす。
 「そっか……」
 そして、少女はようやく思い出した。
 雨の中辿り着いた、不思議な館の事を。
 「ン………」
 ゆっくりと半身を起こし、軽く背を伸ばす。
 その動作が終わる頃には、もう一つの事も思い出していた。
 今日は『迷宮』を旅立つ日である、と言う事を。
 「…………………」
 少女は無言で大きなベッドから出ると、朝の光が差し込んで来る窓へゆっくりと
歩み寄った。

 「わぁ…」
 少女が思わず上げたのは、感嘆の声。
 眼下に広がる一面の緑。そして、その中で瞬く無数の煌めき。
 「広い庭……。外からは見えなかったけど…」
 庭に広がる庭園が昨日の雨にしっとりと濡れ、静かな美しさを見せていたのだ。
 「ずいぶん手入れされてないみたいだけど…」
 確かに庭園は草木が生い茂り、かつては迷路だったであろう所もただの緑の集ま
りと化している。だが、手入れこそされていないものの、庭は死んではいなかった。
伸び放題に伸びた枝さえ切れば、見事な庭園として蘇る事は間違いないだろう。
 しかし、その見事な庭園を眺める少女の瞳の色は、暗い。
 「けど、もう…関係ないよね」
 淋しそうに、呟く。
 そう。
 今日はこの迷宮を出て、新たな旅路につかなければならないのだ。
 少女はため息を一つつくと、木綿の寝巻を脱ぎ、昨日貰った服へと着替え始めた。


 少女はふと、歩みを止めた。
 「あれぇ………?」
 そう言って首をひねる。
 「おかしいなぁ……」
 確か、この部屋の前は一度通ったはず。いや、もしかしたら二回……三回かも。
 少女は訝しみながらも再び歩みを再開する。
 そして、しばらくして。
 「やっぱり、迷った………かな?」
 もともと少女の方向感覚は発達している方ではない。案内人の幽霊もいない今、
少女は完璧に迷っていた。


 少女は再び歩みを止めた。
 「書………庫?」
 扉に打ち付けられたネームプレート。辛うじて読み取れる程度にかすれた文字
で、そう書いてある。
 「確か、書庫は二階だった……わよね」
 昨日幽霊が言っていた事を思い出す少女。
 ここで少女を馬鹿にしてはいけない。階段を何度も登り降りし、複雑に入り組
んだ廊下をあてもなく彷徨いもすれば、誰でも迷ってしまうだろう。
 「誰かいるといいけど……」
 出来れば幽霊さんがいいな…。そんな淡い期待を抱きながら、少女はその扉を
開いた。

 天井まで届くほどの巨大な本棚に囲まれた場所、『書庫』。
 その書庫に、少女の控えめな声が響く。
 「すみませーん……」
 返事はない。だが、返事の代わりに奥の方から、小さな音が聞こえてくる。ペ
ンの走る音と、紙の擦れる音が。
 少女は辺りの気配をうかがいながら、そっと歩みを進めていった。

 「ここだ……け…ど?」
 迷路のように入り組んだ書庫の中で、ただ一つの音源。
 紙とペンの音の聞こえてくる場所に、少女はやっとの事で辿り着いていた。
 だが、そこには誰もいない。
 そこにあるのは重厚な机と椅子、うずたかく積まれた紙の山。そして、一本の
ペン。
 ペンは机に置かれた紙の上を物凄い速度で移動し、何かを書き留め終わるとそ
の紙を傍らの紙の山へスッと排出する。それと同時に反対側に置いてある紙の山
から紙を一枚引き寄せ、再びその上を走り始めるのだ。
 誰の助けも借りる事無く。
 何かの魔法なのだろうか……。少女が漠然とそんな事を考えていると、排出さ
れた紙が紙の山ではなく、少女の足元へと流れてきた。
 その紙をそっと拾い、目を通す。
 「……『我は『探索者』。この書庫にて、全ての知識と全ての記録を求め、記
さんとする者なり』……。やっぱり、そこに誰かいるんですか?」
 少女がその文章を読み終えると、再び紙が流れてきた。
 『我、全てを見通す秘儀『無量大数眼』の代償とし、自らの目と耳、そして
『姿』を失いし者。よって、こうする事でしか会話は出来ぬ。許されたし』
 「それじゃ、姿が見えないのはそのせいなんですか…」
 何にせよ、誰かがいるのは間違いないようだ。少女は少しだけ安心して口を開
いた。
 「あの……。よかったら、この『迷宮』の出口を教えてもらえませんか? 今
から旅に出なければいけないから…」
 その間を見計らったように紙が流れてくる。多分、探索者はタイミングも完璧
に分かっているのだろう。全てを代償に得た、その力によって。
 『汝はその旅で、何を求める?』
 「え……?」
 少女の声が、止まる。
 と、すぐに次の紙が流れてきた。
 『知的好奇心故の質問なり。無礼な質問、許されたし』
 「………」
 だが、少女は口をつぐんだまま。
 自分がなぜ旅を続けているのか。
 彼女自身にも、もはや分からなくなっていたからだ。
 いや、今となっては、これから旅を続けたいのかすらも分からなくなっていた。
 少女の瞳に、涙が浮かぶ。
 その時、新たな紙がゆっくりと少女の目の前へ運ばれてきた。先程からの丁寧
な文字に続き、何かの略図が描かれている。
 『汝が今、最も求める場所への道程をここに示す。まずは考え、それから動け。
さすれば真実は自ずと見えよう』
 少女がその文章と図を理解したとき。
 少女の肩に、誰かがそっと手を置く感触があった。
 「え…………。探索者さん……ですか?」
 少女の問いに返事はない。『姿と声』を失った探索者に、その質問に答える術
は残されていないから。
 少女は少しだけ微笑むと、その『手』を自らの手のひらで優しく包み込んだ。
『探索者』に手首以外の感覚はない。本当に、物を記すに足るだけの存在しか残
されていないのだ。
 だが、今の少女をなぐさめる事は不可能ではない。
 「ありがとう…探索者さん」
 重ねられた手の上に、数滴の涙がこぼれ落ちる。
 姿なき存在の『手』は優しく、とても暖かかった。


 夜。
 「そうか……。あの『探索者』がそんな事を…」
 幽霊は心底驚いた風に、そう呟く。
 『探索者』が何時から迷宮に居着くようになったのか、幽霊は知らない。だが、
気が付いたら住んでいた『探索者』が物を書き著わす事以外に関心を示すという
事を知ったのは、今日が初めてだった。
 「それで、今ここに居るわけか……」
 ここは少女が昨晩泊めてもらった部屋。『探索者』から貰った地図には、書庫
からこの部屋へ至る道順が書き著わされていたのだ。
 「あの……幽霊さん。わたしがここにいて、怒ってませんか?」
 「何? どうして俺が怒る必要がある?」
 ベッドの縁にちょこんと腰掛けている少女。その少女の言葉に、幽霊は眉をひ
そめる。
 「雨宿りだけの約束だったのに、二晩も居座っちゃったから…」
 「待て」
 申し訳なさそうに言う少女の台詞を、幽霊は驚いて止めた。
 「雨宿りだけ? 俺はそんな約束をした覚えはないぞ。よく思い出してみろ……」
 「けど幽霊さん、早朝に出掛けるのなら起こすって……」
 「あれはお前が旅に出るような事を言っていたからだ。その後で、目的がない
旅なんだったら好きなだけゆっくりしていけばいい、とは言ったがな」
 「え………?」
 一瞬、少女の反応が止まる。
 「どうした? 気分でも悪いのか?」
 幽霊の問い掛けに少女はあわてて首を横に振り、それを否定する。そして、そ
れに続けて遠慮がちに口を開いた。
 「あの、それって…ずっとここに居ていいっていう事…ですか?」
 「ずっと居る気なのか? 旅を続けずに?」
 多少あきれ気味の幽霊の問いに、少女は今度は首を縦に振…ろうとして、その
ままうつむいてしまった。
 「わたし、ずっと旅してて…こんなに親切にしてもらったの、初めてなんで
す……。それで……いえ、そう言うわけじゃないんですけど…」
 それに続く言葉は今一つ要領を得ない。少女はうつむいたまま、最後に一言だ
け絞り出すように呟く。
 「掃除でも洗濯でも…わたしに出来る事、何でもしますから…。もう、当ても
ない旅を続けるの、嫌なんです………」
 下を向いたままの少女の声が震え、瞳が潤みはじめる。
 「悪いが、今の迷宮は掃除も洗濯も間に合っているのだ…。掃除は自動清掃の
魔法が賦与されているし、洗濯するような衣服が必要な者はここには居ない……」
 それを知ってか知らずか、幽霊はそう答えた。現在活動している迷宮の住人は、
彼が知っている限りでは自分と『探索者』の二人だけ。とりあえず自分は幽霊だ
し、探索者は衣服が必要なのかすら定かではない。
 「え…………?」
 茫然と呟いた少女の瞳の涙の堤が、決壊した。
 重い…沈黙。
 「…とはいえ、掃除の魔法も完璧ではない。それに、これからの迷宮には食事
や洗濯を必要とする者が出てきそうだしな…」
 幽霊はそう言うと、少女の頭にそっと掌を置いた。勿論実際に触ったりは出来
ないから、少女の頭の辺りに手を持っていくだけでしかなかったが。
 「それ…じゃ………」
 「ここの住人に俺より愛想のいい奴は居らんのだ。時々でいいから、俺の話相
手になってくれると嬉しいのだが……と、おい、どうして泣く…」
 声を上げて泣き始めた少女に、幽霊は慌てるしかない。
 「ごめん…なさい……。凄く…嬉しくって……」
 「そうか………」


 『我、新たな住人を歓迎せり』
 探索者が投げて寄越す紙を適当に放り、幽霊は苦笑しながら呟いた。
 「こうなる事もどうせ知っていたんだろう…。俺はお前のそう言う所が嫌いな
んだ」
 投げた紙はどこへともなく消えている。書庫に封じられた魔導の力により、迷
宮の書庫のどこかへ整理されたのだろう。その場所を知る者は、探索者のみ。整
理された情報を管理するのもまた、探索者の役目なのだ。
 『私は知るのみ。考え、決めたのは彼女自身なり』
 この幽霊の言葉は耳を失っている探索者には聞こえていない。『無量大数眼』
の力でその会話情報と音を知覚しているから、会話が成立しているように見える
だけだ。
 「聞き飽きた台詞だな……。だが、お前が女の子にあんなに優しいとは思わな
かったぞ…。意外だったな」
 茶化すように言う幽霊に、次の紙が流される。
 『彼女の道程。汝は知る事を望むか?』
 と、その文字を見た瞬間、幽霊はその魔力を最大にしてその紙を握り潰した。
 「お前……。また、他人の過去を見通しやがったのか……」
 幽霊の声ががらりと変わる。言葉の中に折り込まれているのは、激しい怒気。
 探索者の持つ『無量大数眼』は全てを見通す。その対象は、この世のありとあ
らゆるもの。無論、過去とて例外ではない。
 幽霊が探索者を嫌う最大の理由がこれだった。
 「俺は過去なんかにはこだわらない。前にも言ったはずだろう」
 『ならば、汝は我に何を望む?』
 「そうだった。けど、お前の事だから知ってるんだろう? 俺が何の用事で来
たのか」
 先程までの怒気を消し、幽霊は冗談混じりでそう言う。
 『無論。だが、僅かに遅かった』
 「遅かった? どういう事だ」
 紙をひょいと放り、怪訝そうに尋ねる幽霊に、探索者は新たな紙を放った。
 『代理人の来訪日は、明日だ』
続劇
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