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2.霧の先の敵

 どんな時でも空は青く、穏やかな朝の光もいつもと何一つ変わらない。
 しかしいつもなら行商人が声を張り上げ、朝一番の出立を目論む隊商達でごった返す大通りに漂うのは、朝を迎えてなお重苦しい空気だけだ。
 そんな町並みをぶらぶらと歩いているのは、一人の男。寒ささえ漂う雰囲気に身をすくめるように歩きながら……やがてふらりと踏み込んだのは、裏路地の一角だ。
 街の薄暗がりの中。忘れ去られたように建つあばら屋は、何かあった時のためにと彼が確保しておいた隠れ家の一つである。
「ただいまー」
 愛しい我が家への帰宅といった様子でドアを開ければ、そこで待っていたのは彼の妻ではなく……男より少し年嵩らしき赤髪の男だった。
「外の様子はどうだった? リーティ」
 この歳になるとほとんど誤差の範囲だが、実際はリーティの方がアーレスよりも二つ上だ。一国の主となった風格の所為か、生まれつきの態度の差か……どこで差が出てしまったのかぼんやりと考えながら、リーティは埃の浮いたテーブルに買ってきた荷物を置いてみせる。
「相変わらず、イズミルとは思えないね。……あとこれ」
 そう呟いて食料の間から取りだしたのは、数枚の羊皮紙だ。転写神術で複製されたらしきそれには、大きな姿絵と幾つかの覚え書きが記されていた。
「……手配書? ダンのか」
「エレもだよ。あいつら姫様だけじゃなくて、マグナ・エクリシアでヴァルまで攫ったんだって。街はこの話題ばっかりだね」
 いかに不穏な空気が漂おうとも……いや、そんな時だからこそ、人の口に戸は立てられない。リーティの存在をいまだ黙っていてくれるような馴染みの酒家ならなおさらだ。
「派手にやってるじゃねえか」
 とはいえ、手配書まで回るという事は、まだ彼らが捕まっていない事の証でもある。アーレスは包みからハムとチーズの挟まったサンドイッチを取り出すと、手配書を見直しながらそれに勢いよくかじりついた。
「それと……アーレスも手配掛けられてたよ?」
「……何だよ。これっぽっちか?」
 だがそれは、直前に見た二人の懸賞金よりもはるかに安い。さらにいえば、若い頃にキングアーツのある街で出されていた金額と比べても、随分と面白みのない数字だった。
「後で覚えてろよ。あの万年王子様」
 先日の戦いは途中で幾つもの邪魔が入り、決着は付いていない。そもそも彼との決着は、二十年も前からずっと保留になったままなのだ。
「そういえば、アーレス一人なの?」
「アイツは徳勝門に行くとよ。お前にもよろしくだそうだ」
 二つ目のサンドイッチに手を伸ばしながら、アーレスの言葉は素っ気ない。
「まあいいけど……でも、徳勝門って大丈夫なの?」
 北の国境でも、イズミルでも騒ぎが起きた。同じ事が南の国境で起きても不思議ではなかったが……今のところ、南から来た商人達の間にそんな話をしている者はいない。
「昌や珀牙が上手くやったんだろ。ま、何かあっても今のアイツなら大丈夫だ」
 何があったかは知らないが、随分と良い顔になっていた。果たすべき目標も見えていたようだし、あの気概があれば例えトラブルに巻き込まれても上手く切り抜けるだろう。
「さて。向こうは奴に任せるとして……」
 サンドイッチの残りを口に詰め込み、瓶の水で流し込むと、アーレスは袖口で荒々しく口元を拭い去る。こんな所で食べるとは思っていなかったが、懐かしい味だ。
 キングアーツ料理そのものが、ではない。
 戦場で食べる料理がだ。
「俺達の仕事はこっちだ。集められるだけ情報集めるぞ」
 そう。
 彼が南を戦場とするなら、二人の戦場はここだ。
「やれやれ。人使いが荒いんだから。……ったく」
 立ち上がったアーレスに続くようにして、リーティもあばら屋を後にするのだった。


 小さな火を囲みながら、カズネは焼かれたパンを無言でかじっている。
 朝から火など焚いているが、立ち上る煙の存在が彼女達の位置を知らせるような事はない。黒金の騎士の肩に留まる異形の翼が天蓋のように空を覆い、昇る煙を散らしているからだ。
 さらにその上には土色の布が被せられ、上空からの監視にも十分な警戒を払っている。
 どうやら目の前の少女は、こうした旅にも随分と慣れているようだった。
「……何か?」
 そんなカズネの言葉なき視線に気付いたのだろう。セノーテは焚き火にかざしたパンの欠片から目を逸らす事もなく、短い言葉だけを寄越してみせる。
「……どうして、助けてくれたの?」
 メガリからの追っ手から逃げている間も、振り切った後も、仮眠から目覚めてからも。セノーテは最低限の言葉を事務的に口にするだけで、それ以外の事は何一つ語ろうとはしなかった。
 もちろん、彼女を助けた理由もだ。
「ソフィア様の指示でしたから」
 何度目かになる今度の問いも軽く流されるだけだろう。そう思った矢先に出てきたのは、予想外の名前である。
「母様の!? 本当に……?」
 けれど彼女は、ソフィア達の船を沈めた張本人だ。今までも彼女達を追って来たし、刃を交えたこともある。
「信じたくなければ、ご自由に」
 カズネの反応に気分を悪くでもしたのか、セノーテはそう口にしたきり黙ってしまう。ただ焼き上がったパンの欠片を黙々と口にするだけだ。
 辺りに響くのは、焚き火のはぜるぱちぱちという音。
 そこに枯れ枝を一本放り込んだところで、カズネは改めて口を開いた。
「さっきはごめんなさい。……ウナイシュ島で何があったか、聞かせてもらえない?」
「私の言葉は、信じられないのでしょう」
「信じるかどうかは、聞いてから決めるわ」
 セノーテはその言葉にしばらく黙っていたが……カズネが向けた瞳が力を失わないままなのを見て、やがて小さくため息を一つ。
「……ソフィア様と緑の巨人が戦う、支援を」
 巨人とは、キングアーツ系のトリスアギオンによく使われる通称だ。ハギア・ソピアーやガルバインなども、その外見から同じように呼ばれる事が多い。
「母様の、支援を……。そんなに数が多かったの?」
 彼女の母は、イズミルでも指折りの剣の達人だ。イズミルの将はおろか、神揚やキングアーツの将達とも互角に渡り合う。
 そんな彼女がセノーテの助力を必要とするほどの相手など、カズネには想像も付かなかった。
「緑の巨人は一体です。転移術でホエキンとバルミュラ・ソピアーをどこかに飛ばし……残された私は、逃げるので精一杯でした」
 世界が広い事は理解しているが、かといって容易く信じられるようなものでもない。それが、目の前の少女の言葉であればなおさらだ。
「だったらどうしてすぐ城に来なかったのよ」
 ソフィアの近衛のような役割があったなら、街で迷ったりせず、すぐに城に来ても良かったはず。いかにイズミル城が小さいとはいえ、高い建物も少ないイズミルで城の場所が分からない……という事はありえない。
 当然と言えば当然のカズネの問いに、セノーテはしばらく黙っていたが……。
「……緑の巨人の駆り手が、その場所にいたからです」
「それって……」
 だとすれば、そいつが万里やアレクをおかしくした張本人なのだろうか。
 今のセノーテであれば、誰かと訪ねればその名を教えてくれる気がした。しかしそれは……今聞くべきではない。カズネの直感が、続く言葉を押し留める。
 それがもしカズネの良く知る者だったなら、カズネは誰も信じることが出来なくなってしまう。……そんな気がしたからだ。
「信じないというなら構いません」
 黙ってしまったカズネと議論をするつもりは毛頭ないのだろう。
「……私は、任務を果たすだけですから」
 いつしか燻るだけになっていた焚き火に砂を掛け、セノーテは既に出立の準備を始めるために立ち上がる。


続劇

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