10.姿なきシュヴァリエ 八達嶺の中央部。琥珀色の空を望むのは、政務を司る屋形の屋上である。 「はああああああっ!」 裂帛の気合と共に放たれた拳を受け止めたのは、気を込められた左腕だった。 以前は巨大な熊に似ていたそれは、今は鋼に覆われた、少し太い程度の人の腕でしかない。 だが、キングアーツの義体技術の粋を集めて作られたそれは、大きさ以外はかつての熊の腕と変わらぬ感覚を主の身体に伝えてくる。 「ふむ。戻っている間も、鍛錬は欠かしてはいなかったようだな。千茅」 「はいっ! ありがとうございます!」 乗せられた気迫も、振り抜く覚悟の身体の流れも、八達嶺を立つ前よりも充実しているようにすら感じられた。 千茅は長い休みに実家に戻ると言っていたが、そこで何か得るものでもあったのだろう。 「……そういえば、ムツキさん」 小さく息を吐き、汗ばんだ額を手拭いで拭いながら。 千茅が声を掛けたのは、水筒の水を口にしている師匠に向けて。 「熊埜御堂という、灰色熊の性質を持つ帝都の将を、ご存じありませんか? 歳で言えば、たぶん鏡さんと同じくらいだと思うんですが……」 「……知っておる」 戦いを主とする神揚の兵……とりわけ前線で戦うことを良しとする者達で、熊の性質を身に付ける兵は少なくない。単純に力があり、打撃力に長けた性質という点もだが、見た目の厳つさの割に、慣れれば細かい作業も出来る汎用性もあるからだ。 中には脚も熊のそれに替え、地上を凄まじい勢いで走る兵もいる。 「ああ、やっぱり」 明らかに見知っていた様子の千茅の言葉に、小さく息を一つ。 「……何か聞いたか?」 ただの熊の性質を持つ者は多いが、わざわざ灰色熊の性質を選ぶ者は珍しい。並の熊よりも性質が荒く、力があるぶん取り回しが不便になる所も多いからだ。 その性質をわざわざ選んだ所と、熊埜御堂というさして多くない名に、恐らくとは思っていたが……どうやらその予想は当たっていたらしい。 「いえ……。父とは、あまり話せませんでしたから」 それ以上の事を、千茅は語ろうとはしなかった。無論それぞれの家の事情があるのだろうから、ムツキもそれを突っ込むような無粋はしない。 「ですが、ムツキさんの名前を出した途端……ふふっ」 だが、それまでのどこか寂しげな様子からは一転、千茅はくすりと微笑んでみせる。 「……ふむ。笑われるような事をした覚えはないのだがな」 ムツキとしては、熊埜御堂も鳴神も分け隔てなく『ごく普通に』接しただけだ。 「いえ。父がすごい顔をしたものですから」 果たして、もう何十年も前のことを熊埜御堂はどのように覚えているのだろうか。 「……そうか。父上と稽古は?」 「もう少し、強くなったら……もっと、ちゃんとお話も出来ると思います」 千茅の戦いの技は、未熟という自覚がある。少なくとももう少し……せめて、未だ帝都に留まっている同期の彼女と肩を並べられるくらいには、強くなりたいと。 そう、思う。 「そうか」 休暇を取ってもする事もないからと、ムツキはその権利を保留のままにしておいた。しかし、今回の謎の敵と和平の件が片付けば、一度帝都に遊びに行くくらいはしても良いのかもしれない。 熊埜御堂を呼び出せば、鳴神と酒を交わしたときと同じように、楽しい昔話も出来るだろう。 そんな師弟のぶつかり合う屋上の下。 「……怪物と同時に、アーレスが現れたか」 万里の政務の間で万里と共にアーデルベルトの報告を聞いていたのは、アレクである。 先ほどの調査と、そこからの予期せぬ遭遇戦。 そして……彼らの謎の消滅までを聞き終えてのひと言だ。 「はい。ただ、ソル・レオンを含めて、こちらからの呼びかけに対して一切の反応がありませんでした」 「それは、本当にアーレスだったのか?」 珍しく疑問を口にしたのは、環の護衛で同席していたヴァルキュリアだった。 ソル・レオンは量産されておらず、実質アーレス専用機という扱いではあるが、予備の装甲はメガリ・エクリシアにもまだ残っている。 以前ヴァルキュリアがラーズグリズの装甲をライラプスと同じ物に変えたように、外見だけ同じ機体を作るのは、実際それほど難しくはないのだ。 「コトナがアーレスの太刀筋そのままだって言ってたから、それは間違いないと思う」 二人から少し離れた場所で話を聞いていたソフィアのひと言に、ヴァルキュリアはそうかと呟き、それきり口をつぐむ。 武器の構え方や戦い方には、それぞれの癖が出る。教導隊の経験も長いコトナがそう言うなら、アーレスの偽物という可能性はぐっと低くなるだろう。 「アーデルベルトさんはどう思います?」 「太刀筋はコトナの判断を信じるとしてですが、兵の動かし方や引き際の判断はアーレスらしくありませんでした」 他の翼の巨人達も、こちらを積極的に攻めるわけでもなく、様子見か小手調べといった動きしか取っていなかった。 それに以前のアーレスであれば、エレという増援があったにせよ、コトナをあそこまで追い詰めておいて引くような真似はしないだろう。 「恐らく、別に指揮官がいたか、よほど影響力の強い誰かから指示を受けていたのでしょう」 それが翼の巨人のどれかに乗っていたのか、それとも後方からアーデルベルト達の知らぬ手段で指示を下していたのかは分からない。 そして恐らく、それは……。 「……人払いはしてある。遠慮は不要だ」 部屋の隅で話を聞いていた鳴神の言葉に、言うべきかどうかを迷っていたアーデルベルトは、ようやくその言葉を口にした。 「……半年前までの、八達嶺軍の兵の運用に似ていました」 アーデルベルトが彼と実際に兵を交えたことは、実はそれほど多くない。 けれど、戦闘報告書で見たそれまでの八達嶺の兵の運用や判断の速さ、引き際の鮮やかさは……今日の戦いにもそこかしこにその片鱗が見受けられた。 「……ロッセか」 半年前。あの決戦の前日に忽然と姿を消した、黒豹の脚を持つ八達嶺の軍師。 奉が苦々しげに口にしたその名に、アーデルベルトは無言で頷いてみせる。 「だとすれば、他の連中がいる可能性も高いな……」 アーレスと共に逃亡を図ったキララウスや、今も帝都から追討令が回っているニキとバスマル。そして……。 ロッセと同時期に行方が分からなくなった、あの人物も。 「それ以外に気付いた事は?」 「リーティが、あの翼の巨人について、少々気になる事を……」 「人が乗ってない?」 八達嶺のホイポイ酒家で口にしたリーティの言葉に、そう繰り返したのは誰だったか。 「セタなら分かるだろ? 飛ぶ速度を上げすぎたり、無茶苦茶な機動をした時に気を失いそうになるやつ」 「ああ……あれはキツいね」 セタの駆るMK-IIは高速飛行特化の機体だから、無茶な機動をしようとすればあっさりと失速してしまう。だが、逆に限界速度まで挑もうとすれば、薄紫のはずの空が色彩を失って灰色に変わり……さらなる加速と同時に意識がそのまま途切れてしまいそうになってしまう事があるのだ。 それは機体の問題ではなく、着用者である人体の限界だと調査されていたが……。 「まあ空の上でそうなったら、普通そのまま墜落して死ぬか、誰かに拾ってもらうしかないんだけどさ……」 さらりと恐ろしいことを言いながら、リーティは皿に盛られた料理を取り分けていく。 「それが、大丈夫だったって事かい?」 「……中の奴、絶対に気絶したと思ったんだけどなぁ。でもその後も、普通に攻撃してきたんだよな」 神獣ならば、神獣自身もある程度自分のバランスを取ろうとするから、落ちないこと自体はあり得ない話ではない。 けれどリーティと柚那が戦った敵は、体勢を整えた後すぐに攻撃を仕掛けてきたのだ。 「飛ぶだけって感じでもなかったしねぇ」 「うん。無人の機械がそこまで器用に動けるとしたら、どんな技術なんだろうね。気になるなぁ……」 神獣にも自己の意識はあるが、飛行中のバランスを整えたり、名前を呼べばやってくる程度が精一杯で、剣技を使いこなせるほど高度なものではない。セタや昌の新型騎に使っている技術を発展させれば似たような事は出来るかもしれないが、そこまで細かな自律制御の道はまだまだ遠い。 「そんだけ頑丈だったんじゃねえの? 義体化したとか」 義体化すれば、ある程度の血流や心拍のコントロールは出来るようになる。エレ自身は空を飛んだことはないが、セタの経験から必要だと判断されれば、耐加速性に秀でた義体も開発される事になるだろう。 「後は、ガーディアンのように操縦席に安定器が付いている可能性もありますね」 エレの膝の上に捕まっていたコトナも、エレの言葉にそう付け加えた。 機体が丸まって転がるという変わった特性に対応するため、コトナのアームコートの操縦席は常に下向きにバランスが取れるようになっている。その機能があるからこそ、コトナは転がるガーディアンの中でも眠っていられるのだ。 「MK-IIにはそういうのは付いてないけど?」 「アレ付けると機体感覚がおかしくなるんだよ。地面を転がるぶんには問題ないけど、空飛んでるときに上下の感覚がなくなったら大変だろ?」 「……普通死ぬよそれ」 ただでさえ、リーティたち飛ぶ性質を持たない者が空を飛ぶのは難しいとされているのだ。そこで周囲の感覚を失えば、どうなるかなど想像もつかない。 「だったら、そいつの中はどうなってるんだろうねぇ……」 新しい白雪の体内も、今までの神獣の構造とはだいぶ違っている。今回現れた謎の敵が有人機なのだとすれば、恐らくアームコートとも神獣とも違う制御方法を使うのだろう。 だが、その疑問のどれも、誰も知る者がいない今……答えられる者は誰一人としていないのだった。 |