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 辺りに響くのは、風の通る音。
 草のそよぐ音、木々のざわめく音。
 そのいずれも、薄紫の滅びの原野では聞こえるはずのない音だ。
 小さく息を吐き、両目を覆う厚い布をそっと外す。
 音だけから構築された世界から切り替わるのは、二つの月明かりの照らす緑の世界。
 森の中、である。
 もちろん彼のよく知る神揚の森ではない。齢を重ねた彼すら及ばぬはるかはるか昔に南北に分かたれた世界。さらにそこからも取り残された、薄紫の世界に残るオアシスの森。
「見えておるか、リーティ」
 口に出した言葉はそれと同時に意思へと変わり、ごく近い上空を警戒しているであろう戦友へと届く。
 見えるほどの距離であれば、片方の神獣の力だけで思考をやり取りする事は難しくない。
「こんな夜遅くに、誰もいないと思うけどね。爺ちゃんも昼間来た方が、モノが見えやすかったんじゃないの?」
「儂にはこのくらいの明かりで丁度良いわ」
 呟き、周囲に浮かぶのは仄かな炎。
 夜目の利く年の離れた戦友と同様、老爺にとっても夜の暗さはさして障害にはならない。むしろ単身で森の調査を始めた彼の身を隠す、盾や外套となってくれるはずだった。
(ここでの悲劇……繰り返させてはならんからな)
「……爺ちゃん。思念に乗ってる」
 言われ、小さく肩をすくめてみせる。
 その仕草は上空の少年には見えなくとも、仕草を生んだ時の感情は伝わっているはずだ。
「やっぱり爺ちゃんも、あの夢……見てたんだな」
 リーティの言葉に、黙々と調査を始めた老爺は言葉を返さない。
 もちろん少年も、答えがあるなど期待してはいない。

 する気もない。

 既に先程の仕草に込められた感情に、その全ての答えは含まれていたのだから。





第2話 『いまひとたびの出会い』
−神揚編−




1.屍神獣虚神獣 (かばねかみのけもの、うつろかみのけもの)

 白木造りの厩舎の隅に佇むのは、小柄な影。
 儀式神術で鋼に等しい強度を与えられた床の上、少女に後ろからそっと抱きついたのは、白猫の耳を持つ娘である。
「何見てるのぉ? 珀亜ちゃん」
「ゆ、柚那殿………!?」
「そんな驚かなくてもいいじゃなーい。女の子同士でしょ?」
 それはそうだ。
 少なくとも、見かけの上では。
「それとも、こうするの……ダメ?」
 きゅっと両腕を回されれば、肉付きの良い腕の先にある指は少女の細い体をなぞり、豊かな胸が薄い背中に押し付けられ、ふにゃりと形を変える感触までもが伝わってくる。
「ぐ、ぐぬぬ………」
「ふふっ。それで、何を見てるのかなー?」
「ヴァ……ヴァイスティーガを」
 柚那が視線を抱きついた珀亜の先に重ねれば、そこにあるのは崩れ落ちた神獣の骸であった。
「ああ……。お兄さんが駆ってたっていう?」
 その答えに、珀亜の身体を弄んでいた柚那も、ほんの僅かにその指先の責めを控えてみせた。
 かつて柚那の姉と戦列を共にしていたという、珀亜の兄の神獣である。彼は最後までこの騎体と共に戦い、この騎体と共に戦場で散った。
 故に、腕の中の少女はこうして戦場に立っているのだ。
「……ああ」
 だが、その真実は少しだけ違う。
(……私だけがこうして生きながらえてしまった。すまんな、ヴァイスティーガ)
 最期まで主と共に戦った騎体は物言わぬ骸と化していたが、内で果てた主自身は奇妙な巡りの果て、今もこうして立っている。
 それを成し遂げたのは、禁呪と言われる類の術だ。
 それは、時を巡る術以上に、誰にも告げる事は出来ぬ秘事。
 故に柚那に抱かれたそいつは、彼自身ではなく……彼の妹として、この場に立っている。
(だが……柚那殿には打ち明けた方が……いやいや、しかし……)
 言えぬのは、禁呪……秘事だからだ。
 別に背中に当たる柔らかな感触や、回された腕の温もりは何ら関係がない。男嫌いを公言する彼女がこうして楽しそうに抱きついているのを騙しているようで申し訳ないとも思うが、外見は確かに妹の女の子の身体なワケだし、彼女が勝手に触ってくるだけだし……だが妹の身体をあまりベタベタ触られるのは兄として微妙な気持ちでもあり、もしこの先これ以上の事が……。
(いやいやいやいや! これ以上の事とは何だ!?)
 関係は、ないのだ。
(秘事だから! 秘事だからな! それにこれも修業、そう、この程度の事で心乱すようでは俺もまだまだ……!)
 ないったら、ないのだ。
「……また、一緒に戦えればいいのにねぇ」
 神獣は仮初めの魂を持つ、疑似生物とでも呼ぶ存在だ。少々の傷であれば自ら修復する事が可能だし、大きな損傷でも万能細胞と呼ばれる充填剤を用いて再生出来る。
 だが、その修復や再生の限界を超えれば……神獣は死ぬ。
 最期の時まで彼を守ってくれた神獣は、その修復限界をはるかに越え、いかな技術を用いても再建は困難だと言われていた。そしてもうすぐ、神揚の神獣研究施設に何かの実験の素材として運び出されるのだとも。
「あ、ああ………」
 珀亜はただの新兵だ。いや、それが例え彼本来の姿であったとしても、上層部の下した決断なら意を挟む事など出来ようはずもなかった。
「……お兄さんの事、大好きだったのね」
 呟く珀亜の複雑極まりない内心など気付くはずもなく、柚那はそれ以上の声を掛けられずにいる。


 白木造りの厩舎の一角に設えられたのは、神獣整備用の櫓である。そこで慌ただしく作業を続ける整備兵達に混じる黒髪の青年に、少年は元気一杯に声を投げつけた。
「師匠! 昨日の夜間偵察の報告っす!」
「ご苦労様です、リーティ」
 整備櫓そのものを階段でも上がるかのように身軽に登ってきた少年から数枚の紙束を受け取ると、黒豹の脚を持つ青年はその内容をつぶさに確かめ始める。
「…………北八楼はともかく、敵の砦には近付きすぎではありませんか?」
 昨夜の偵察は、北の清浄の地と、そのさらに北にある巨人の砦の様子見だった。見てこいと言ったのは確かに青年自身だが、少々敵陣に近寄りすぎではないか。
「大丈夫っすよ。オレとマヴァの足なら、見つかったってすぐ逃げられるっすから」
 身軽なのは少年の専売特許。さらに言えば巨人達は飛行手段を持っていないから、飛行型神獣を操る彼が巨人達に追いつかれる可能性など、限りなくゼロに近い。
「……そうではありません。あまり敵陣を警戒させないように」
「最近はオレにも慣れたみたいで、もう追いかけても来ないっすけど」
 もちろんリーティも巨人達を警戒させるつもりや、ましてや戦う気などない。敵の反応が落ち着いているからこそ、この距離での偵察を行っているのだ。
「そういえば師匠。こいつ、師匠の神獣なんすか?」
 櫓の内にある三つの犬の頭を持つ神獣は、先日珀亜たち補充兵と共に搬入された騎体である。だが、同時期に搬入されて既に実戦投入された他の神獣達と違い、この騎体だけはいまだ調整作業が続けられていた。
「そうですが、何か気になった事でも?」
「いや、あっちに使ってない神獣がいるじゃないっすか。瑠璃色の、羽根付きのやつ」
 リーティが指した先には、止まり木に休むように身を預けている瑠璃色の翼を持つ飛行型神獣の姿がある。
「テルクシエペイアですか」
「誰も乗ってないみたいだし……前線の指揮用なら、人型より飛行型がいいんじゃないかなって」
 敵の攻撃も届かないし、機動力も高い。何より戦況を素早く見渡せる視点に立つ事は、部隊の指揮にとって大きな意味を持つはずだ。
「飛行型は訓練が必要ですからね。……誰かさんのように、落ちたくはありませんよ」
「じゃあなんであの神獣、ここにあるんすか?」
「飛行型神獣は貴重ですからね。ちょうど八達嶺が出来た頃に行き先を探していたので、ヒメロパと一緒に無理矢理確保しておいたのですよ」
 飛行型の生産数も少ないが、適正を持つ駆り手も決して多くはない。どちらも貴重なものである以上、確保出来る時にしておくのはそう珍しい事ではないのだ。
「もしマヴァが調子悪かったら、借りていいんすか?」
「構いませんよ。……ただ、マヴァよりも相当気性が荒いようですから、上手く乗りこなして下さい」
「あはは。分かってるっすよ」
 そう笑い返して、リーティは整備櫓を行きと同じく身軽に飛び降りて去って行くのだった。

続劇

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