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12.Tsunami

「何!? この音!」
 最初の予兆に気付いたのは、誰だったろうか。
「あれ!」
 だが次の瞬間、異変そのものに気付いたのは、その場に居合わせた全員だった。
 静かだったはずの湖面から迫るのは、余りに巨大な波頭。
 こちらの岸辺は若干の高さこそあるが、それと比べてもはるかに高い、大波だ。
「エレ、姫様を。二時方向!」
「おう! ちょいと大人しくしてろよ!」
 作りかけの辞書を抱きしめたコトナの短い指示に、エレは彼女を膝に乗せていた柚那と、たまたま脇で辞書作成を見物していたソフィアを両脇にまとめて抱き上げる。
「きゃっ!?」
「ひゃあ!」
 少女三人分の重さをものともせずに、走り出すのは指示された二時方向。
 強化された足がひときわ強く踏み込んで、そこから解き放たれた反動は、エレの身体を高く高く舞い上げていく。


 閉じていた瞳を思わず開いたのは、迫り来る圧倒的な悪意を感じ取ったからだ。
 彼方に一瞬見えた意思の源は、ごくごく小さいもの。
 それが何かを放った瞬間、珀亜達とそいつの間に生まれたのは、巨大な水の壁だった。
「万里殿!」
 声を放って周囲を見回すが、彼女の周囲にいるのはアレクと奉、そして千茅だけ。……いずれも、飛翔の技も跳躍の技も持ち合わせていない者達だ。
 いつもなら万里から離れはしない昌も半蔵も、平和な北八楼だと油断していたのだろう。こんな時に限って彼女を抱きかかえて逃げられる間合から離れている。
「くそ……っ」
 万里は護らねばならない。
 そして何より……妹から預かった、この体も。
 故に感覚は研ぎ澄まされ、思考する一気に加速する。
 彼女自身も気付いてはいなかったが、水壁が生まれ、声を放って状況を確かめ終えるまで、まだ半秒すら経ってはいない。
 その刹那に刻まれた時の中。
 決意を下すのもまた、一瞬の事だ。
 履いた刀を掴み、意識を集中。
 迫る怒濤も、背後の叫びも、既に心の外にある。
 万里を護り。
 自らの身も護りきる。
 逃げる事は叶わず、防ぐ術もまた、ありはしない。
 踏み込み、叫ぶ。
 放つのは、たったひと振りの斬撃のみ。
 それが彼女の……彼の答え。
 逃げられぬなら、防げぬのなら。
 迫る全てを切り伏せる。
 その一撃は、まさに九頭の竜を切り裂く斬撃をとなって、珀亜の刃から放たれた。


 目の前の光景を、奉は一瞬信じる事が出来なかった。
「波が……割れた、だと……!」
 神揚には多くの神術や武技がある。神力や気などと呼ばれる身体の内に溜まる力を、超自然の技として解き放つ術も。
 しかし、神獣ならばいざ知らず、人の身で目前の巨大な波濤を一刀のもとに斬り伏せる技など、流石の彼も見るのは初めてだった。
「トウカギさん!」
 だが、驚いてばかりもいられない。
 背後の千茅の声に慌てて我に返り、意識を集中させる。
 彼の背後には千茅だけではない。アレクも、何より万里もいるのだ。
「覇ぁッ!」
 裂帛の気合と共に生み出したのは、神術による全周を囲む防護壁だった。津波から逃げられぬなら、その全霊を持って防ぎきるしかない。
 直撃すれば危ない所だったが、珀亜の斬撃で威力が弱められているなら……そして、防壁を限界まで狭めて密度を高めれば、いくらか勝てる見込みもあるだろう。
 その、はずだった。
 だったのだが……。
「ぐっ!?」
 両腕に掛かるのは、想像以上の圧力だった。色素の抜けた細腕がすぐに力みで紅く染まり、全方位から襲う水の圧に折れ砕けそうになる。
 膝を付きそうになった所で……感じたのは、両腕に添えられた冷たい感触。
「奉!」
 それは、鋼の腕。
「あんた……!」
「申し訳ないが、貴公に頼るしかない。もうひと息、頑張ってくれ!」
 青年の言葉と共に、千茅と彼女に支えられていた少女も奉のもとへと駆け寄ってくる。それは、アレクだけではない……奉自身も最も護りたい者の姿だった。
「アンタなんかに……言われるまでもねえっ!」
 その言葉と添えられた手達に自らの心を奮い立たせ、奉は辺りを覆う激流の壁を力任せに押し戻していく。


 エレが高い木の上に取り付いた時、すぐ脇の木には同じように沙灯に抱きかかえられたジュリアの姿があった。
「ソフィア! 良かった……!」
「それより、万里と兄様達が!」
 反対の木にはリフィリアと昌、そしてセタの姿は見えたが、万里やアレク達の姿は見当たらない。
「皆様も無事でござる! あれに!」
 沙灯が指差した方向を見れば、彼らはいまだ地上に残っていた。
 だが、恐らくは神術なのだろう。奉を中心に張られた見えない壁が、波の衝撃から地上の一同を守っているようだった。
「良かった……」
 ヴァルキュリア達に預けたアームコートが流される事はないだろう。ならばソフィアの知る限り、人的な被害は出ていない事になる。
 けれど、そこにいたのは無事だった者ばかりではない。
「それはいいけど、リフィリア……重い……!」
 必死に木の上に逃げたまでは良かったが、既にその身を支えきれない者が、約一名いた。
「す、すまん! 昌!」
「……ふぅ。助かったぁ」
 抱えられたままだったリフィリアは、その言葉に慌てて自らも木の枝に手を伸ばすが……。
「……私、重かったか?」
 ぽつりと呟き、どこか暗い顔をしてしまう。
「あはは……。私、力ないからさ」
「沙灯。もしかして、私も重かった?」
 そんなリフィリア達の様子に、ジュリアも木の幹に手を伸ばし、それまで支えてくれていた沙灯に遠慮がちに聞いてみる。
 義体の分の体重が増えることは、キングアーツ人にとってはごく当たり前の事ではあるのだが……だからといって、彼女達も女の子。それが全く気にならないわけではないのだ。
「拙者、淑女に対してそういう事は言わない主義でござるよ」
 平然と答える沙灯の答えは、果たして安心して良いのか悪いのか。ジュリアはどこか微妙な気持ちのまま、小さくため息を吐いてみせるのだった。


 ゆっくりと、波が引いていく。
 複雑な地形であれば、入り江や島影で跳ね返った波が第二、第三の波濤となって押し寄せることもあるが、どうやら辺りの地形はもっと単純な構造になっていたらしい。
 幸い、次の大波が押し寄せる事はないようだった。
「でも、何でいきなりこんな波が……」
 地震で揺らされた大地から、波が起きる事はある。けれど今回はそんな揺れはなかったし、流石にそんな地震があればソフィア達も気付くだろう。
「…………エレ」
 そんな中、沖合をじっと見つめていたコトナが、いまだ少女達を抱えていたエレの名を呼んでみせる。
「あそこの沖にある岩、形が変わっていませんか?」
「……悪ィ。そもそもどこに岩があるのかも分かんねぇ」
 恐らくは望遠機能か何かを使っているのだろう。だが、エレの残された片眼には、そんな特殊な機能は備わっていない。
 ただ、いまだうねりの余韻を残す乱れた湖面が見えるだけだ。
「気のせいですかね……。ソフィア姫様は分かりませんか?」
「あたしも目は強化してないから……ごめん」
 答えるソフィアに「お気になさらず」と返しておいて、コトナはもう一度、問題の岩へと視線を向ける。
 不自然な鋭角に砕けたように見えるそれは、波の荒い海の岸ならともかく、静かなエクリシアの湖には似つかわしくないものだ。
(ですが、何が……。いや、誰が?)
 飛行能力のある神獣ならもっと気の利いた方法がいくらでもあるだろうし、アームコートがあそこまで行く方法はコトナにも覚えがない。
 後で皆にも意見を聞いた方が良いなと思いつつ、ひとまずその光景を記憶に留めておくことにする。
「ねえ、もう波も引いたけど、降りないの?」
 いつの間にやらエレの腕の中を抜け出し、木の枝に優雅に腰掛けている柚那の声に下を見れば、既に波も引き、地上で波を防いでいた奉達もその防御を解いた所だった。
「だな。次の波も来ねえみたいだし、さっさと降りるか……」
 そしてエレはコトナとソフィアを抱えたまま、ゆっくりと木から下り始めるのだった。

続劇

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