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 目覚めた少女が確かめたのは、見ていた悪夢を夢だと呟くことでも、その内容をつぶさに思い出すことでもなかった。
 うっすらと汗に濡れた夜着を正す間も惜しむように取り上げたのは、文机の隅に置いていた小さな暦である。
 生来の几帳面な性格から、その暦の今日までの日付は薄い朱色で塗り潰してあった。今日を示すいまだ塗り潰されていないそこから、朱塗りの丸を一日一日数えつつ、ゆっくりと遡っていく。
 か細い指が止まったのは、遡ることちょうど四十九日。
 それはこの世界において、死者の魂が現世に留まり置くという、最後の日。
 それを確かめて……こくりと鳴るのは小さな喉。
「今ならまだ…………間に合う」
 可憐な唇がか細い言葉を紡ぎ。
「兄様……」
 少女は文机の抽斗から筆を取り出すと、精緻な文字で一通の手紙をしたため始めるのだった。


 目覚めたそいつが確かめたのは、今際の際の死闘を夢だったかと呟くことでも、その内容をつぶさに思い出すことでもなかった。
 うっすらと汗に濡れた夜着を正す事も気付かぬ様子で取り上げたのは、文机の上に置いてあった小さな鏡である。
 そいつがすぐにそれを欲すると分かっていたのだろう。
 その部屋の主は、目覚めたそいつがすぐに分かる所に、愛用の手鏡と……その傍らに一通の手紙を遺してくれていた。
 鏡の中に映る見慣れた娘の姿にしばし茫然とした後。
 添えられた手紙に気付いたそいつは、部屋の主が遺したそれを、震える手で読み進めていく。
 読み終えた後……こくりと鳴るのは小さな喉。
「…………愚かな事を」
 自らの手を、自らの顔を見た時、そうであろう事は薄々感付いていた。しかしそいつは……そこまでして生きたいなどとは、けして思ってはいなかったのに。
 そこには、そいつがこの世から消え去った後……部屋の主たる娘が体験したと思われる出来事が、いつも文に綴られていた彼女の文字でひとつひとつ記されてあった。
 娘の視点と、もう一人の少女の視点で辿られた、数奇とも言える物語。
 それを夢だと笑う事は簡単だったろう。
 けれど……それが彼女の最期の願いとなれば、笑う事は……いや、その遺志を受け継がないわけにはいかなかった。
「愚かな……事を」
 可憐な唇が凜とした言葉を紡ぎ。
 少女の姿をしたそいつが僅かに意識を集中させれば、彼女の遺した最期の手紙は、手の内に生まれた炎の中に消え去っていく。
 彼女がそいつに振るった業は、死した魂を今一度この世へと呼び戻す禁断の術。死した後、四十九日の間現世を漂う魂を新たな身体……術者自身の身体へと定着させる、彼女の、そして彼の家の秘中の秘。
 それは、神術と呼ばれる奇跡の技がごく普通に存在するこの神揚でも、禁呪とされる技であった。
 故に、愛しい妹が記した最期の便りも、この世に残しておくわけにはいかないのだ。
「愚かな………事を」
 かつて男であったそいつは、三度そう呟き……。
 妹の瞳で、か細い涙を流す。





第1話 『巻き戻った世界』
−神揚編−




1.各々方帝都事情 (おのおのがたていとじじょう)

 広い広い畳の広間に静かに座するのは、二人の娘。
 都の一角、神を祀る社に併設された、社殿の内である。
「…………新任での初仕事がこれだなんて、嫌だなぁ」
 帝都の中でも指折りに神聖と言われるそこで小さくため息を吐いたのは、娘の内の年若い方であった。
「そう言わないの、柚那。私だって最後の仕事がこんなお役目だなんて……」
 たしなめるように呟く年上の娘も、その表情は決して明るいものではなく、頭の上に生えた猫の耳も力なく垂れ下がったままだ。
 彼女の脇に置かれているのは、袱紗に包まれたひと振りの太刀。……激しい戦いの中で散った、一人の武人が遺していった品である。
「そういう意味じゃなくってさぁ……」
 戦没者の遺族にその死を伝えるのは大切な役目だが、決して楽しい仕事ではない。
 しかし、それだけではないのだ。
 彼女が知っているこの先……この後現れる戦死した青年の妹は、その知らせを受けて取り乱し、そのまま数日を寝込んでしまう事になる。
(……なるべくなら、聞かせたくないわねぇ)
 それが、柚那の偽らざる本心であった。
「お待たせいたしました、ミカミ殿。……珀牙の事でお話があると」
 だが……現われた他の親族と併せて姿を見せた少女に、柚那は軽く目を見開いてみせる。
 彼女の知る少女は、白猫の性質を持つ、儚げとさえ言える娘だったはず。
 けれどそこに丁寧な所作で腰を下ろしたのは、可憐というよりも凜とした、白地に虎に似た黒縞を持つ猫の娘であった。
「……珀亜、ミカミ家のお二人にご挨拶を」
 傍らに座る老白虎の言葉に、巫女装束をまとう白虎の娘はやはり丁寧な所作で静かに頭を垂れる。
「ようこそおいで下さいました、ミカミ樣。珀亜・クズキリと申します」
 上げた瞳に宿るのは、静かな意思。
 それはあの夢の中の可憐な少女とは違う、彼女たちの報告全てを受け止めようとする、強い意志の輝きが感じられるものだった。


 ゆっくりと傾けられる杯は、けっして高価な物ではない。
 それは、その内にたゆたう液体も同じである。
「そうか、万里は苦戦しているのか……」
 持ち込んだ地酒を杯に並々と注ぎ、水の如くあっさりと呑み干してみせるのは、隻眼の大男であった。
 戦場焼けした浅黒い肌に、その端々から覗く傷跡と、自らの性質を示す鱗。まさに一軍の将と呼ぶに相応しい威厳と風格を備えた男である。
「うむ。トウカギやロマからの報告では、古の遺産が障害となっておるとか」
 それに対するのは、巨漢の将に比べればはるかに細身の初老の男であった。余計な筋肉の一切を削ぎ落としたかのようなその身体の中……静かに巨漢を見上げる瞳だけは、穏やかながらも巨漢に勝るとも劣らぬ威厳を宿している。
「……噂に聞く、鋼の化物という奴か」
「鳴神も流石に聞いているか」
 巨漢の言葉に、初老の男は静かに頷いてみせた。
 北上政策を続ける神揚皇家……その最前線の開拓基地となる八達嶺において、目下の最大の障壁は、より北部から姿を現した謎の巨人達であった。
 神揚の誇る神獣達も苦戦を強いられ、滅びの原野の開拓計画は遅々として進んでいない。
「そういえば、万里の顔も長らく見ておらんな」
 最後に見たのはいつの頃だったか。
 既に片手では足りない月日が経っている事に思い至り、自身も眼前の男も、初めて刃をまみえたあの日から……年を経たものだと苦笑する。
「美しく育ったぞ。父親の儂が言うのも何だがな」
「それは是非とも見ておかねばならんな。急ぎ準備を整えて、向かうとしよう」
 空になった酒杯を置いて、鳴神と呼ばれた巨漢はその席をゆらりと立ち上がる。
「……そうだ」
 ふと、そう呟き。
「何だ」
「いや……何でもない」
 例えかつて刃をまみえ、後には共に戦った盟友であろうとも……この神揚帝国の皇帝に、うかつな質問は命取り。
 それが、時を巻き戻すような聞いた事も無い神術の話ともなればなおさらだ。
 その事を思い出し、鳴神は何事もなかったかのように、穏やかに言葉を濁してみせる。


 訥々と語られる優理の話を、クズキリ家の一同はただ静かに聞いているだけだった。
「味方を守るために殿を務め、立派な最期を遂げられたそうです」
 その戦いに、優理は参加していない。
 結婚を目前にして退役が決まり、その諸々の手続きを済ませるために、所属である八達嶺から帝都に戻っていた間に起きた出来事だったためだ。
 それも、既にふた月近くも前の事になる。
「そうですか。我が息子は、八達嶺の……神揚の為にお役目を果たしたのですな」
 声を殺して涙を流す母親と違い、クズキリ家の家長である老白虎はその表情を崩さない。だが、その傍らの猫にも見える白い子虎の娘は……。
「……珀亜ちゃん?」
「大丈夫です。お心遣い、痛み入ります」
 柚那の見た限り、珀亜も父親と同じように、その報告を淡々と聞いているだけであった。それでも父親は膝の上の拳を白くなるほどに握り締め、微かに振るわせていたが……少女は感情の制御が出来ているのか、それすらもない。
(やっぱり、アレってただの夢だったのかしらね……)
 この先の厳しい戦いも、八達嶺の長を巡る過酷な定めも……翼を持った少女の辿った苛烈な運命も、いずれも何の確証もない夢の話だ。
 既にこれだけのズレが起きている。所詮は、ただの夢だった……という事なのだろう。
「本来であれば総大将の万里がお返しに参らねばならぬ所ですが……」
 柚那がそんな事を考えている間にも、彼女の姉は淡々と自らの役目を果たしていく。
「恐れ多い。殿下にそのようなご足労を掛けては、我々が珀牙に叱られてしまうでしょう」
 袱紗に収められていた朱鞘の太刀を確かめて、クズキリ家の当主はそれを押し抱くように拝してみせる。
 それが、大破した神獣以外にただ一つ回収出来た、クズキリ家の青年の遺した物だった。これを回収し、最前線から遠く離れたこの帝都まで運んでいたからこそ、青年の最期についての報告が一月以上も遅れたのである。
「……優理殿」
 そんな、悲痛とも言える報告を聞き終えて……使者の名前を呼んだのは、傍らに静かに座っていたクズキリ家の末娘であった。
「はい?」
「私を、八達嶺に連れて行っては頂けませんか?」
 その言葉に、優理と……そしてそれ以上に驚いたのは、柚那である。
 兄の死は、虫の知らせか何かで悟ったのだろう。神の社に仕える巫女なら、そんな予兆を感じる神術を自然と身に付けていても不思議ではないからだ。
 しかしこの宣言は、夢の中の少女とあまりに違いすぎている。
「今でこそこの形ですが、帝都の学舎にて戦いの術や軍での作法は学んでおります。……私は、兄の遺志を受け継ぎたい」
 かつての珀亜の武芸の成績を、『そいつ』はよく知っていた。
 素質はあるものの、生来の穏やかで気弱な性格はその素質を生かし切れず……結局、武術の成績で優を取った事は一度もないはずである。
 そんな彼女が前線に向かっても、確かに足手まといにしかならないだろう。
 しかし。
 しかし、今は…………。
「……宜しいのですか?」
「私からもお願い致します。あれにも、この娘にも、その旨はしっかりと躾けておりますゆえ。……良いのだな、珀亜」
 老白虎の呟きも、まるで全てを見抜いているかのように。
 そして最後に呼ばれた名前は、彼女にその名を確かめさせるかのように感じられるもの。
「……承りました。上層部への取り成しは、私が責任を持って引き受けましょう」
 呟く優理に、クズキリ家の一同は静かに頭を下げてみせる。
 どうやらそれが、優理・ミカミの武人として本当の最後の仕事になりそうであった。

続劇

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