静寂をまとう緑の森に、響き渡るのは剣戟の音。
黒豹の脚を持つ青年と、鋼の刃を腕から生やした銀髪の青年が、持てる力の全てを叩き付け合っているのだ。
振りかざすのは指先に伸ばした必殺の爪。
叩き付けるのは腕から生やした仕込み刃。
「万里……っ! 万里!」
その剣戟の間に響くのは、鷲翼の少女の泣き声だ。
「沙…灯………」
「喋らないで。今、治癒の術を……」
治癒の神術は沙灯の得意な術ではない。けれどそれでも、使わないよりはマシだろう。
「も……いい、よ……。分かってるんでしょ、沙灯も……」
途切れ途切れの万里の言葉に、沙灯は言葉を詰まらせる。
治癒の神術は、対象の回復力を早めるだけのもの。これだけの深手に効果がないのは……術者である沙灯自身が、本来は一番よく分かっていることだった。
しかしそれでも、沙灯は術を解き放つ。
「さっき、あの人も言ってた……」
だが、抱きしめた腕から溢れ落ちる血は止まらない。
「これが、アレクを殺した……罰なんだね」
当たり前だ。回復力がわずかに強まった所で、肺や心臓にまで達する傷が癒やしきれるはずもない。
「……ソフィ……ア…は……?」
途切れ途切れの声で万里が問うのは、握手しかけた少女のこと。目の前に現われた環の影に隠されて、彼女がどうなったかは見えなかったのだろう。
「無事………だよ……。ここにいるよ。見えない?」
だから、沙灯は嘘をついた。
彼女は無事だと。
万里の視点の定まらぬ瞳には、ちゃんと彼女が映っていると。
「ごめん……も、わかんない……や……」
もはや、咳き込む力も残されていないのだろう。口元から溢れ出る血に半ば遮られ、その言葉はわずかな痙攣と共に揺れて届く。
「時間、戻さないで……。ソフィ…アと……沙灯……いれば……。平和…は…………」
そんな少女が最後に口にしたのは。
「…………アレ……ク……」
愛しい青年の、名前だった。
「万里……! 万里ぃぃ………っ」
瞳を閉じた少女は、もう動かない。
冷たくなっていく万里を抱きしめたまま、目の前の光景にかぶりを振るのは、血まみれになった鷲翼の少女だ。
「やだ……。やだよ……もう………っ」
これは夢だと。
夢だと言って欲しかった。
起きたら、いつもの布団の中で。
傍らでは、万里が微笑んでいて。
恐い夢を見たと言えば、大丈夫だよと抱きしめてくれて……。
「万里ぃ……」
だが、今なお激しくぶつかり合う刃の音が、全ては現実だと思い知らせてくる。
もう愛しい狐姫はいない。思い出の森で親友の腕の中、物言わぬ骸と化しているのだ。
「やだ………やだぁ………っ」
そして彼女の最大の盟友であった金髪の少女も、ロッセによって首を刎ね飛ばされ、体はその場に直立したまま。
飛ばされた頭は……。
沙灯達のすぐ足元に。
長く美しかった金髪は首の所で無残に断ち切られ、見開かれたままの瞳は……。
ぎろりと、こちらを向き。
「……………え?」
「沙…灯……」
唇は、鷲翼の少女の名を紡ぐ。
「ソフィ……ア……?」
生きている。
生きているのか、この少女は。
首を刎ねられ、体と分かたれた今でも。
「あたし、連れて……逃げて………」
何が起こったのか、理解することも出来ないまま。
沙灯はその頭を抱えて走り出す。
無我夢中で飛び出した蒼い湖面に、大きな鷲の翼が広がった。
○
「姫さまが……死んだ……?」
街に流れたのは、そんな声。
「嘘だろ……何で、姫様が……」
蒸気と煤煙に包まれた石畳の上で。
「だって、姫様言ってたんだよ。もう平和になるって!」
琥珀色の霧を見上げる市場の隅で。
「姫さんが殺されたなんて……」
分厚い扉を抜けた先にある酒場で。
「戦争はなくなるんじゃなかったのかよ」
白木造りの屋敷の廊下で。
「くそっ! 姫様……! なんだってこんな……!」
アームコートの工廠で。
「おのれ……絶対に許さねえ」
神獣達の眠る厩舎で。
「怪物は所詮、怪物だったんだ……!」
メガリ・エクリシアで。
「姫様、怪物にだまされて……あんな目に……!」
八達嶺で。
「姫様……姫様ぁ……っ!」
二つの街で渦巻き狂うのは、一言一句違わぬ、怨嗟の声、声、声……。
白い蒸気と、灰色の煤煙に包まれたその街。
普段ならアームコートの出撃や物資搬入の主要通路となる、メガリ・エクリシアの大通り。だが、今日そこに集まって声を上げているのは、メガリ・エクリシアに暮す住人達だ。
通りの終着点、城門前の広場に置かれているのは、巨大な棺。
キングアーツ王国旗に覆われたそれは……。
キングアーツ第一王女、アヤソフィア・カセドリコスのもの。
「…………」
そんな彼らを基地の上から見下ろすのは、銀の髪を持つ青年である。
黒い瞳は虚ろなまま。声を上げる民間人を、ぼんやりと眺めているだけだ。
「司令官代理」
彼に声を掛けた兵は、所在なさげに巨大な箱を抱えていた。
「エクリシア民間人の兵役志願が多すぎて、定員では全く足りません。それに、姫様の亡骸を回収しろという嘆願状もこんなに……」
そう。
キングアーツ王国旗に覆われた棺は、空っぽのまま。清浄の地での惨劇の後……犠牲となったソフィアの体は、神揚の魔物達の牽制もあっていまだ回収出来ずにいる。
彼の持つ箱の中にあるのは、その体の回収を求める嘆願状なのだろう。
「捨てておけ」
乾いた声で呟くのは、そんなひと言。
嘆願状など、もはや何の意味もないからだ。
「何ですって!?」
「それと……義勇兵枠を作る」
嘆願状を捨てろと言われて茫然としている兵士に、環はさらに言葉を紡ぐ。
「義勇兵……ですか?」
そのひと言に、兵士は困惑するしかない。
キングアーツの兵は、その全てが厳しい試験をくぐり抜け、専門の教育を叩き込まれた、誇り高き軍人たちだ。現地での兵役志願も若干であれば受け付けているが、彼らも現場で厳しい……教育機関以上の訓練を受けて戦場へと赴く。
戦力が不足しているというならやむなくという選択肢もあるだろうが、この数ヶ月の休戦期間のおかげで戦力は充実している。使い物になるかどうかも怪しい即席の義勇兵を使う意味など、どこにもない。
「アームコートもありったけ出すんだ。乗れるヤツから優先的に採用させろ。命令だ」
とはいえ、今のメガリ・エクリシアの司令官は司令官代理の環である。彼の命令と言われればするしかないが……。
「大方針に反します。よろしいのですか?」
キングアーツの対神揚の大方針は、和平路線。
義勇兵などで数だけの兵まで揃えて、環は果たして何をするつもりなのか。
「……大方針、ね」
だが、兵の言葉に銀髪の青年はどこか自嘲気味に嗤ってみせるだけだ。
「昨日王族会議があったよ。大方針は変更……いや、本来の物に戻ったよ」
「本来の……?」
王族会議は、キングアーツ王家の者しか参加する事を許されない、特別な会議である。
しかし環は渦中のメガリの司令官代理という立場から、特別に出席する事が許されていた。
「ソフィアが居ない今、和平交渉をする気のあるヤツはいないって事さ」
そこで告げられたのは……。
「和平を蔑ろにした神揚帝国許すまじ。そして大攻勢の前に、姫の亡骸を回収する」
キングアーツの威信をかけた、徹底抗戦のひと言であった。
琥珀色の霧を抜けて注ぐのは、穏やかな陽の光。
それを受けるのは、神獣達の眠る厩舎である。
そんな厩舎の端、他よりも広い厩の前に立つのは……黒豹の脚を持つ、黒髪の青年。
見上げるのは、瑠璃色の翼を持つ一体の神獣だ。
テルクシエペイア。
沙灯が駆るヒメロパと対となるべく作られた、飛行型神獣。そいつは男の視線など気にする様子もなく、厩の中で静かに佇むのみ。
「……テルク」
だが、青年が小さくその名を呼び、手の内にあった瑠璃色の指輪をかざしてみれば……。指輪と同じ色の翼を持つ神獣は、わずかにその視線を指輪の主に向けてみせる。
そんな神獣の振る舞いに、青年がさらに何か口にしようとした、その時だ。
「ロッセ殿。こんな所にいらしたのですか」
背後から掛けられたのは、男の声。
神揚の軍服を纏う、ロッセ直属の士官である。
「……何用だ」
軍服のポケットに握り込んだ指輪を戻し。
不機嫌そうに小さく答えるロッセの視線にどこか薄ら寒い物を感じながら、士官はロッセを探していた理由を口にする。
「はい。八達嶺の民間人から、兵役の志願者が大量に。それに、姫様の亡骸を取り戻せという声と、沙灯殿の捜索を望む声も……」
北八楼の惨劇で犠牲となった万里の骸は、キングアーツの巨人達の牽制もあり、いまだあの地に打ち捨てられたまま。そして万里の側近であった沙灯も、彼の地で行方不明となっていた。
士官のその言葉に、ロッセは少し考えて……。
「……義勇兵枠を。それで、民間の兵を受け入れます」
「義勇兵? しかし神揚で義勇兵の前例は……」
神揚で実戦に臨む兵達は、誰もが厳しい訓練を受けた精鋭達だ。殊に今は休戦期間の間に装備の準備も整っており、士気も高い。誰もが死など恐れぬ働きをするだろう。
そんな中に、わざわざ素人の集団を放り込む必要はないはずだ。
「前例がないわけではありません。それに、そうでもしなければ嶺の中で暴動が起きますよ」
それは、士官の彼も薄々感じていた事だった。
兵士達だけではない。自身が燃え落ちそうなほどの怒りに身を焦すのは、八達嶺に住まう誰もが同じ。
良い方向に向かうなら良い。だがその内圧が、もし悪い方に向かってしまえば……この前線基地は、内側から崩れ落ちてしまうだろう。
そして今、それは現実の物となりつつある。
「民間には神獣を持つ者もいるでしょう。神獣用の甲冑を出して、その者達から優先的に採用なさい」
けれど、士官は疑問に思う。
義勇兵はまあ良い。神獣用の甲冑も、戦闘用の神獣には不要な物だから、急場凌ぎの策としては理解出来なくもなかった。
しかし彼らを軍に組み込んでどうするのか。既に本国の意思で和平の方針は決まっているはず。それを飛び越えて、ロッセは何をするつもりなのか……。
「実は、陛下からは今回の和平路線について、条件を出されていましてね」
「……何と?」
士官の表情を読んだのだろう。思いだしたように言葉を付け加えるロッセに、士官は強い言葉で問うてみせる。
「和平路線の全権を任せるのは、姫様だけだと」
「だけとは…………まさか!」
その言葉の本当の意味を理解して、青年士官は思わず表情を曇らせた。
交渉を行うのは万里のみ。
即ち……万里に何かあれば、交渉は即座に打ち切れと。
そうなった後に何が起こるかなど、今この現状を見れば。そしてこの先どうなるかなど、まだ経験の浅い士官にも容易く想像の出来るものだった。
「将達に指示を。姫様の亡骸を回収し……しかる後、八達嶺の全戦力を用いて巨人の要塞を殲滅します」
辺りを覆うのは、深い緑。
清浄の地の奥深く。
金髪の小さな頭をそっと抱きしめ、小柄な体を震わせるのは……いまだ血の跡に彩られた小柄な影。
沙灯である。
「ソフィア……大丈夫?」
少女の腕の中にあるのは、比喩ではない、ソフィアの頭。
「大丈夫じゃないけど……大丈夫だよ」
抱きしめた彼女の頭は、ふわ、と小さなあくびを一つして、かすれ気味の声でそう答えてみせる。
「補助動力もあるし……」
この場合は、幸いというのだろう。
ソフィアの体はあの生首の将軍と同じように、体の大半が義体化されていた。故に、頭部に埋め込まれた生命維持装置のおかげで、首と胴体が離れても生きながらえることが出来たのだ。
もちろん斬られた場所が悪ければ死んでいただろうが……ロッセの攻撃はその急所をそれ、首のジョイントを破壊するだけに留まっていた。
「……もうしばらくは、大丈夫だと思う」
調印式の悪夢から、既に数日が過ぎている。
一日の大半を休眠することで補助動力の消耗を抑えているから、残された動力であと数日は保つだろう。
あと数日は、命を繋げるはずだ。
「あたしよりも、沙灯は平気なの?」
そんな自身の事よりも、ソフィアが気になるのは沙灯の事。
清浄の地には水もあるし、食べられる植物もある。
けれどそれは、かろうじて生を繋ぐに足りる程度でしかない。
殊に沙灯の体には、この地の水も食物も合ってはいないらしく、ソフィアが休眠から目を覚ますたびに苦しげに腹を押さえていたし、抱かれる腕も以前とは違う嫌な熱を帯びていた。
「大丈夫……だよ。……けほ、けほっ!」
小さく咳き込み、体を揺らす。
「ちょっと、沙灯……」
それも、ソフィアの心配の一つ。
かつてまだ万里が生きていた頃、沙灯はそれほど体が丈夫ではないと言っていた。空気のきれいなスミルナでは沙灯の発作を見た事はなかったが、体力が限界まで低下した今、彼女の体はこの地の清浄な空気すら受け付ける事が出来ないのだろう。
「大丈夫。気に……しないで……」
「ああもう。こんな体じゃなかったら……」
せめて上半身だけでも、腕の一本でもあれば、背中をさするくらいは出来るのに。
何かないかと惨劇の地に足を運びもしたが……そこにあったのは、いまだ回収もされずに打ち捨てられた、無残な万里の亡骸だけだった。ソフィアの体もあの時のままで残っていたが、ロッセの一撃で首のジョイントが壊されていたため、繋ぎ合わせる事が出来なかったのだ。
「これから……どうなるんだろうね」
ようやく咳の発作も治まったのだろう。弱々しく身を起こす沙灯に、腕の中のソフィアも表情を険しくしてみせる。
「環……」
環の行いは、ソフィアには痛いほどよく分かった。
もしもアレクを殺したのが万里ではなく、本物の魔物や知らない神揚の相手だったとしたら……恐らくソフィアも、環や兄王子達と同じ道を選んでいただろうから。
万里だからこそ、踏みとどまれた。
最悪の選択をせずにすんだのに……。
それを、環は出来なかった。
この事態を防ぐために、二つの組織の早急な顔合わせを避け、まずは信頼の置ける最小限の者達からとしたはずだったのに。
「ロッセさん、何であんな事……」
あの時、ロッセはソフィアに「生きているべきではない」と言っていた。その言葉の意味は、未だ沙灯には理解出来ずにいる。
だが……ロッセが、万里の目指した選択を踏みにじった事だけは分かる。
「これから、多分……」
あれから数日。
互いの動きを牽制し合ってか、キングアーツも神揚も、遺体を回収に来る気配は見られなかった。
必死に親友である沙灯に助けを求め、環とロッセの凶刃から逃げるためにあの場を離れたまでは良かったが……それすらも、復讐に燃える環からは、敵に捕らわれたか、処刑されたと思われているかもしれない。
「戦争が……起きるよ。それも、大戦争が」
故にメガリ・エクリシアは、アレクが死んだ時と同じ選択肢を選ぶだろう。かつて魔物の正体と万里の真実を知らなかったソフィアが、選ぼうとしたように。
ただ一つあの時と違うのは、真実を知ってなお和平を求める決断を下したソフィアが、いないこと。
環はソフィアが生き残っている事を知らない。
せめて、それを伝える事が出来れば……。
「沙灯……」
けれど、この清浄の地とメガリ・エクリシアの間に広がるのは、滅びの原野。
いかなる生も寄せ付けぬ薄紫の死の大地が、二つの場所の間に絶望的な障壁として横たわっている。
アームコートも神獣も環やロッセが帰還した時に回収したのだろう。滅びの原野を渡るそれぞれ一つきりの移動手段を失い、ソフィアと万里はこの小さな森から足を踏み出す事さえ出来ずにいた。
「もうちょっとだけ、あたしに力、貸して」
だが、まだ策はある。
あるはずなのだ。
「万里を殺した、キングアーツの王女って事は分かってる。でも……それでも……!」
呟く少女の耳元で鳴るのは、涼やかな金属音だ。
それは、あの惨劇の跡で見つけた、金色のリング。
アレクの……そして万里との思い出の品であるそれは、はめる指も、さげる首も失われた今、千切れた髪でイヤリング代わりに耳もとへ結びつけられていた。
「分かってるよ。それ以上、言わないで」
小さな頭をきゅっと抱きしめ呟くのは、熱を帯びた細い腕。
「戦いを……止めるんだね」
沙灯の左手にはめられているのは、あの惨劇の跡で万里が付けていた銀色の指輪。
もはや神揚のしきたりなどどうでも良かった。万里がたった一つだけ遺してくれた想いの欠片は、これからずっと沙灯と共にある。
「うん。兄様と万里の夢……あたし達で、守るんだ!」
まだ、二人は生きている。
希望の全てが喪われたわけでは……決してない。
続劇
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