ノア・幽霊編エピローグ
2.マッド・ハッター
塩浜を抜け、岩場を抜けて、草原へ。
姫様へ叩き付けるべき怒りは、既にどこかに消えていた。
今のそいつの頭を占めるのは、痛みと混乱の二つだけ。
俺は誰だ。
誰なのだ。
ある者は『幽霊』と呼んだ。
またある者は『旦那様』と呼んだ。
そしてまたある者は『お師匠』と呼んだ。
穴だらけの記憶の中には、そのどれもが……ない。
走る。
走る。
市街に飛び込み、煙突を跳び越え、屋根を駆け抜けてひたすらに疾走。
今更ながらの矢傷の痛みと、横殴りに叩き付けられたボウガンと炎の打撃が、混乱する思考に拍車を掛ける。
俺は誰だ。
誰なのだ。
誰、なのだ。
途切れた記憶、穴だらけの記憶を探っても、答えはどこからも出て来ない。
浮かんでくるのはあの屋敷での記憶の欠片と……戦いの術、その二つだけだ。
○
『月の大樹』の朝は早い。
さすがに漁港や塩田ほどではないが、そこでの仕事を終えた男達に朝食を振る舞うのは、概ねにおいて酒場や食堂の仕事である。
それがひと息付けば、次は階上の宿屋にいる宿泊客が降りてくる。
そんな宿泊客よりも一足早く階上から降りてきたのは、フードをまとった女性だった。
「もうお加減は?」
カウンターの片付けを終えて声を掛けてくる忍に、女性は小さく頷いてみせる。
「ええ。心配を掛けました、モモ、忍」
気持ちが緩んだ事で長旅の疲れが出たのか、それとも慣れぬ騒ぎに体が付いていかなかったのか。昨日の大騒ぎの後、ノアは体調を崩し、そのまま床に就いていたのだ。
無論、入れ替わったままのアルジェントと交代する事も出来ず……とうとう、肝心の視察まで代役の彼女に任せる事になってしまった。
「体調が戻って何よりじゃよ」
「あら。お顔を洗うなら、お湯くらいお持ちしますのに」
そのまま外へ向かおうとするノアを、忍は笑いながら呼び止める。
『月の大樹』には風呂担当の魔法使いがいる。さすがに風呂の用意には時間が足りないが、桶一杯の湯を準備するくらいなら一瞬だ。
「ふふっ。草原の国では、そういう事は自分でするものなのですよ」
気分転換も兼ねているのだろう。忍の提案をやんわりと断り、ノアは裏庭に出て行こうとして……。
「そうだ。ナナトとタイキはまだ部屋で眠っていますから……起こさないであげてくださいね」
穏やかに微笑んで、そう付け加えるのだった。
細い指先が汲み上げるのは、地下深くから汲み上げられた冷たい井戸水だ。
ぱしゃぱしゃと顔に打ち付ければ、僅かに紗の掛かったようだった意識が澄み渡り、全身に活力が戻ってくる。
「ナナトとタイキにも持って行ってあげようかしら」
手拭いで顔を拭きながら、そんな事を考えるが……ナナトはともかく、タイキは自分が水を汲んで行ったらどんな顔をする事か。
くすりと微笑んだ娘の穏やかな顔は、背後でがさりと鳴る音に途端に王女のそれへと変わる。
「……誰ですか」
店の客なら、こんな所からは現われないだろう。
ならば……。
「………?」
現われたのは、小太りの男。
丁寧に整えられた髪と衣装から、木立の国でも相応の地位にありそうな者に見えるが……今はそのいずれにも木の枝や葉が絡みつき、惨憺たる有様となっている。
「ノ…………ア……ッ……?」
茫洋としていた男の瞳に再び燃え上がるのは、強く昏い炎。怒りとも、怨みとも感じ取れるそれは……ノアが驚く暇もなく、男の全身を包み込んでいく。
「刺客か!」
ノアとて複製の身とはいえ一国の王女。剣の訓練は、以前の体の頃から身に付いている。
だが、伸ばした腰に、武器がない。
普段の装いなら、腰に寸鉄を帯びるのは習慣となっていた。けれど今の服装はアルジェントのそれ。庭先までという油断もあり、ついそれを忘れてしまったのだ。
「ノ…………アァアァァァァア……ッ!」
引き裂くような絶叫と共に、襲撃者は両の爪を構えて跳躍し。
横殴りに、吹き飛ばされた。
「………っ!?」
ノアの眼前を過ぎるのは、爆炎の如き紅い嵐。
長い頸、巨大な翼、長大な尾。
「…………竜……?」
そいつの瞳と、襲撃者の瞳がほんの一瞬交錯する。
同時、そいつの口が引き裂かれたかの如く大きく開き。内から放たれるのは本物の爆炎だ。
轟という音と共に、熱というより圧力が、ノアの細身の身体を強く揺らす。
「驚かせてしもうたかの」
その炎からノアを護るように、ゆっくりと巨大な翼を寄せ。
紅い竜は、穏やかに人の言葉を紡いだ。
「……モモさん、ですか」
竜ではない。龍だ。
「左様。『人の姿』では届きそうになかったのでな」
巡らせるのは長い頸。よく見ればその鱗は、炎に照らされて紅く見えるだけで、本来の色は桃色に近いものであるらしい。
「それより……退がっておれ」
龍の言葉が、硬さを帯びる。
放たれたドラゴンブレスの向こう。立ち上がるのは、小太りの影だ。そいつはこちらを一瞥すると、燃え上がり始めた木々の間へと姿を消す。
全てを灼き尽くす龍の炎に、服は無残な有様となっていたが……跳躍するそいつの様子は、さして大きなダメージを受けていないように見えた。
「モモ! 姫様!」
「マハエ、アシュヴィン! 捕まえた幽霊は偽物じゃったのか!」
龍炎の衝撃や燃える炎を見て異変に気付いたのだろう。駆けつけてきたマハエに、龍……モモは、龍の勢いそのままに大声を放つ。
「すまん。色々あって逃げられた!」
どうやらマハエは彼女の正体を知っていたのだろう。龍の姿や声に驚く事もなく、平然と言葉を返してみせる。
その態度は、いつもの幼子の姿をしたモモに対するそれと全く同じ物だ。
「……油断しておるからじゃ。それよりあ奴、ノア姫を狙っておったぞ。何ぞ因縁でもあるのか?」
龍は小さくため息を吐き、その姿を大きく揺らす。
気付けばそこには、いつも酒場で見る小柄な娘が立っているだけだ。
「姫様の屋敷の前の主なんだと。アルジェントも狙われたけど、追い払って今ここだ」
「っ!」
一瞬息を呑むノアだが、追い返したというマハエの言葉に止めていた息を吐き出した。
一国の王女という立場上、覚えのない相手から恨みを買う事はそう珍しくないが……関わった誰かが傷付く事には、いつまで立っても慣れる気がしない。
「マハエ様。追跡はワタシがしますカラ、マハエ様はモモ様と一緒に姫様の警護と……」
アシュヴィンは翼を拡げ、言いにくそうに言葉を付け足しだ。
「あと……消火を」
「………手伝えよ、モモ」
ブレスの威力を絞りはしたのだろう。だがそれでも、まだ辺りには小さな炎がちらちらと残っている。
「分かっておるわ。それよりアシュヴィン」
いままさに飛び立たんとするアシュヴィンに掛けられたのは、龍から姿を転じた少女の声だ。
「あ奴には気を付けよ。竜狩りではなく、別の性質で竜をねじ伏せる技を持っておる」
幽霊と視線を交わした一瞬、モモの背筋を抜けた薄ら寒い感覚。それが無ければ、いくらモモでもブレスを放つような事はしなかっただろう。
けれど竜狩りの技の通じぬモモが感じたそれが確かだとすれば……近しい性質を持つアシュヴィンにとっても、あの男は厄介な相手となるはずだ。
「……マサカ」
相手は幽霊である以前に、彼の仕えた貴族である。
変わり者だった事は間違いないが……彼に武具や格闘技、ましてや竜退治の経験などあるはずが……。
(……本当に、ないのだろうか)
アシュヴィンが仕える以前から、そこそこに領地の経営をして、年のほとんどは領地でもないガディアで悠々自適な生活をしていた男だ。
しかし、本当にそれだけの男だったのだろうか。
例えば、アシュヴィンには最期まで告げなかった一面があったのではないか。
……アシュヴィンが、最期まで主に告げなかったように。
「……気をツケマス」
ともあれ、警戒するに越した事はない。
小さくモモに一礼すると、アシュヴィンは幽霊が逃げた方へと飛翔を開始する。
屋敷に戻った侍従長が問うたのは、王女とその侍従が、使えるはずのない武器を使いこなした事だった。
王女も確かに短剣の技を学んではいるが、儀礼的な動きを多分に含んだものだ。今日の王女が使ったほどに実戦特化の技ではない。
宮廷魔術師が自らの杖を槍代わりに使うなど、論外である。
「事情を説明なさい。タイキ・ウィズワール」
「全部……オイラが悪いんです」
タイキ……いや、ダイチは、そう呟いて小さく頭を下げるだけ。
「ダイチ……確か、タイキの双子の兄君でしたね」
ウィズワール家の資料では、冒険者として野に下っているとあった。先日初めてガディアに来た時に見かけた時は、特に感慨も抱かなかったが……確かにこうして服装を変えれば、弟にそっくりだ。
「オイラ、タイキにゆっくり休んで欲しくて……こっそり入れ替われば、バレないだろうって……」
「バレるに決まってるでしょ……」
確かに、大まかな振る舞いは気付かれていないようだった。だが、料理をじっと見ていたり、いつもの口調を口走りそうになったりと、見ているこちらがヒヤヒヤする場面も少なくはない。
今までシャーロットが何も言わなかったのは、気付いても放っておいただけではないかと思うほどに。
「今は貴方たち兄弟の事を聞いているのではありません。本物の殿下はいずこに?」
その問いには、ダイチはうつむき、言葉を紡ぐ様子もない。どうやらタイキと入れ替わった件と、姫と入れ替わった件は別のようだった。
「何とか言いなさい。ダイチ・ウィズワール!」
だが、叱責するシャーロットの言葉を遮ったのは、傍らに立つ細い腕。
「顔を見れば分かるでしょう、シャーロット。私が……三人目ではなく、ノア・エイン・ゼーランディア殿下のオリジナルだと」
恐らくそれも想定の内に入っていたのだろう。和装の侍従長が表情を変える事はない。
「貴女が何者か、今は問いません。本物の殿下は今どこに?」
「話しなさい、貴方たちの目的を。この私に神を降ろし、クローンのノアを作った理由を。……そうすれば、殿下の居場所を話しましょう」
アルジェントの言葉に、シャーロットは答えを返さない。
沈黙を守るシャーロット。
答えを待つアルジェント。
そして、うつむいたままのダイチ。
やがて。
「…………もう結構です。今回の件はどちらも不問にしますから、出て行きなさい」
アルジェントと入れ替わったという事で、おおよその場所の見当は付いているのだろう。結局シャーロットは、最後までアルジェントの問いに答える事はないのであった。
木々の間を駆けるのは、黒い影。
龍のブレスの直撃を受けた髪と服はあちこち焼け焦げ、文字通り幽鬼の如き様相を呈していたが、その足どりには一片の乱れもない。
けれどその内に渦巻く思いは、今まで以上の怒りと混乱、そして憎しみに彩られている。
そんな血走った目の幽鬼が、足を止めた。
僅かに広場になった場所。
その隙を見逃すことなく上空から舞い降りてくるのは、黒い翼だ。
「旦那様。どうして、こんな事ヲ……」
答えはない。
「やはり貴方は、旦那様デハないのデスカ……」
昨夜整えたばかりの髪は、その後の逃走とモモのブレスで、既に無残な有様となっている。そこから覗く瞳に宿るのは……強き憎悪の緋い色。
「ナラバ、仕方ありまセン」
諦めたように首を振り、ゆっくりと構えを取る。
本物か、偽物か。正体はついぞ分からないままだったが、少なくとも王女たちに害をなす存在だった事は間違いない。
であれば……。
「ッ!?」
その、刹那だ。
構えを取り終わるか、否か。
その一瞬で、幽鬼の姿は既にアシュヴィンの眼前にある。ほとんどノーモーションで突き込まれた拳を慌てて両手でガードすれば。
響き渡るのは、大砲の如き炸裂音だ。
「が……は……ッ!?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ようやく理解出来たのは、太い木の幹に叩き付けられている事と、ガードに回した左腕の感覚がおかしい事だけだ。
(この一撃は……ッ)
似た一撃を、アシュヴィンは知っていた。
砲撃の如き拳の一撃。五メートルの巨大蟹さえ浮き上がらせる、必殺の拳。
彼の知る若き使い手は、正確な呼気と振りかぶる動作から繰り出していたが……目の前の幽鬼は、それを普通の拳打よりも小さな動きで解き放った。
「……………」
ゆっくりと迫り来るのは、焼け焦げた衣装をまとう幽鬼。
折れたらしき左腕は使えず、衝撃は体に残ったまま。
直撃が来れば、今のアシュヴィンに防ぐ術は……恐らく、ない。
「ああ、やっと見つけた」
だが、そんな青年と幽鬼の間に舞い降りてきたのは、十五センチの小さな姿だった。背中の機械式の翼を畳み、その場に音もなく着地する。
「探したんですよー」
この状況を理解しているのか、いないのか。
翼と小さな肩鎧を身に付けたそのルードは、長い金髪を優雅に揺らし。喫茶店で待ち合わせの友人を見つけたかのような気楽な口調で、幽鬼に向けて語りかける。
「ああ、そんな怖い目で見ないでくださいよ。私は貴方の味方なんですから。わかりますかー? み・か・た」
おどけるような物言いに、幽鬼は沈黙を守ったまま。
目の前の十五センチの娘が本当に味方なのか、値踏みするようにその場に立っているだけだ。
「貴女……ハ………」
代わりに掛けられたのは、彼女の背後から。
だがアシュヴィンに振り向いた金髪のルードが浮かべているのは、露骨な不快の表情だった。
「人の話に割り込むなんて、失礼なかたですね。……すいません、先にこっち片付けちゃいますね」
沈黙の幽鬼は動かぬまま。
その様子に小さく鼻を鳴らし、金髪のルードが構えるのは肘ほどの長さのショートソードだ。中央に拳大の穴が開いているという事は、それが彼女のビークなのだろう。
「……龍族なら、ちょっとはいい貴晶石になってくださいよ? もちろん、重晶石になってくれれば大歓迎ですけど」
左肩だけを覆う肩鎧を軽く鳴らし、金髪のルードは静かに一歩を踏み出して。
「いました!」
「アシュヴィンさん!」
振り上げたショートソードを止めたのは、森に響く二つの声を聞いたが故だ。
「あら。お友達ですか」
状況を気付いたのだろう。やってきたターニャはその場でボウガンを構え、アギも足を止めている。ターニャは射撃、アギは超加速で、どちらも即座に攻撃に移れる体勢だ。
「でも残念。貴晶石が三つになるだけ……」
そんな彼女の頭上に差すのは、大きな影。
いや、紅蓮の炎をまとうそれは、影ではなく光の源となる。
「アリスぅぅぅぅぅっ!」
街の隅とはいえ、森の中だ。先日の行列の中にいた時のように、自らを抑える必要はない。
全開にしてもなお足らぬ。心の底からの咆哮と共に、許す事の出来ぬ怨敵に向けて全霊の一撃を叩き付ける。
「…………だから、人の話に割り込むのは失礼だって言ってるでしょう!」
跳ね返すのは、苛立ち紛れの叱咤の一声。
ビークに開いた中央の穴に、一瞬何かの輝きが生まれ……それをそのまま振り抜けば、解き放たれるのは光の鞭打の奔流だ。
「がぁあっ!」
ほんの数打で紅蓮の炎を打ち散らされて、そのままコウは吹き飛ばされる。十五センチの彼女の体が一気に破壊されなかったのは、アリスが残る力を死角から放たれた雷のブレスとボウガンの迎撃に回したからだ。
「全く、ここは礼儀知らずばかりですね!」
続けざまにビークの中央に浮かぶ、一瞬の輝き。そこから燃え上がった黒い炎を身にまとえば……炎の色は、さらに強い青へと変わる。
「さっきの技……確か、こんな感じでしたっけ? ……誰が使ったかは覚えてませんけど」
短い気合の発声と共に蒼い炎の弾丸となったアリスは、さらに撃ち込まれたボウガンの掃射を薙ぎ払い、そのままの勢いで周囲の敵を一瞬で吹き飛ばす。
蒼い炎を解除すれば、周囲に動く……動ける敵は残っていない。
退屈したようにため息を一つ吐き、ショートソードを鞘へと収める。
「面倒だからもう行きましょう。ええっと……」
そこまで言って、アリスは言葉を僅かに止めた。
「……名前が無いのも呼びにくいですね。そうですね、貴方は今日から、マッドハッターと呼びましょう」
「…………?」
「どうです? 良い名前でしょう?」
アリスは幽鬼……否、マッドハッターと呼んだ人物に向けてへにゃりと微笑むと、左肩を覆う肩鎧を外し、マッドハッターに向けて放り投げた。
腕を通してまとう形のそれは、ルードの肩を離れれば……人間サイズの指輪という本当の役割を取り戻す。
それは、アシュヴィンの記憶にもあるものだ。
「さあ、行きましょうマッドハッター。それの使い方は分かりますよね?」
「俺…………の………………」
途切れ途切れな虫食いの記憶。繋がりも何も分からぬその中に、確かにその指輪の姿はあった。
「ええ、貴方の物です。……オリジナルの物なんだから、クローンの物にしちゃってもいいと思いますよ?」
アリスの言葉に小さく頷き、指輪を嵌めて眼を閉じる。
集中と同時にマッドハッターの小太りな体躯が浮かび上がったのは、指輪に飛行の魔法が封じられているからだ。それを満足そうに見届けて、アリスも背中の翼を起動させる。
「急げば、昼までには目的地に着くはずです。飛びますよ!」
「待ってクダサイ!」
朝の空へと消えていく二つの影に、アシュヴィンの声は届かない。
動けない一同の元に他の仲間が駆けつけるまでには、それからもう暫くの時を待つ事になる。
続劇
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