伸ばすのは、手。
眼前にあるのは、大切なひと。
それは、家族であり。
それは、親友であり。
それは、恋人であり。
護り、護られる者であり。
愛しき相手であり。
伸ばすのは、手。
けれどその手は、愛しき人に届く事はなく。
歯噛みし、涙を流し、それでもなおも伸ばしても……引き攣りかけた指先は、空しく宙を掻くばかり。
伸ばすのは、手。
その手を掴むのは、背後から伸ばされた別の腕。
屈強な騎士の腕。
引き締まった侍女の腕。
戦友の腕。
同僚の腕。
前へ前へ、愛しい者の元へと歩もうとする躯を此岸へと押し留め、引き戻し、安全な場所へと連れ去ろうとする、腕達だ。
圧倒的な体格差。圧倒的な人数差。
抗い、振り払って愛しき人の元へと向かう事も出来ぬまま。
伸ばすのは、手。
もう届かない、手。
無力な、手。
「…………」
伸ばすのは、手。
見開く瞳に映るのは、彼方へ消えた愛しき人の顔ではない。
「…………嫌な、夢」
伸ばすのは、手。
汗にまみれた手でそっと、目尻に浮かんだ涙を拭う。
伸ばすのは、手。
そこに広がる風景は、忌まわしき思い出の地より遥か彼方。
ボクらは世界を救わない
第2話 『届かなかった』手の先に
1.プロローグ
背後から掛けられたのは、脳天気な声。
「しーのぶちゃ………」
しがみつきに来た腕をそっと取り。のし掛かる男の重みを、ほんの僅かな重心移動で下側ではなく前方へと変換する。
音もなく踏み込んだ足先が指すのは、酒場の出入口だ。
それを見た者達には、女性がそいつを吹き飛ばしたのではなく、男が自らすっ飛んでいったようにしか見えなかった。
「あらあら。どうかなさいましたか? カイルさん」
男に続き、店の外に出てきた給仕の娘に差し出されたのは……そっと伸ばされた、男の手だ。
「あ、相変わらず過激なスキンシップだぜ忍ちゃん……」
その上に乗るのは、手のひらほどのぬいぐるみの猫だった。
「これを……私に?」
驚いたような娘の言葉に、それを差し出す青年は照れ臭そうに微笑んでみせる。
大地に叩き付けられ、天地が逆になっていなければ……それはそれで、様になる光景であった。
「ああ。こないだは結局、忍ちゃんの猫を見つけられなかったからな。代わりと言っちゃあ何だけどさ」
それは少し前の話だ。青年はいなくなった彼女の猫を探すように頼まれていたのだが……それはその後の依頼や猫の気まぐれで、結局果たされないままだった。
だからというわけでもないが、猫の件は今は彼女が働く店の隅に、正式な依頼として貼り付けられている。
「……ホントは、もうちょっと大きいのが欲しかったんだけどな」
文明の極限を誇ったはるか古代ならいざ知らず、この時代では日用品は安く、嗜好品の類は値段が跳ね上がる。たっぷりの綿と起毛の布が使われたそれは、明らかに後者の部類に入るものだ。
一攫千金の成った一流冒険者ならともかく、ごく一般的な冒険者のカイルには、それは少々難易度の高いミッションであった。
「見つかるまでの間、コイツを俺……じゃなくて、その猫だと思ってくれると嬉しいな」
よく見れば、尻尾には小さなリボンがひらひらと揺れている。確かに行方不明になった猫を模した物らしい。
カイルがその後も暇を見て猫探しに出ていたのは知っていた。
だからこそ、忍は穏やかに微笑んで……。
「ふふっ。ありがとうございます、カイルさん」
「いよっし!」
腕から離れたぬいぐるみの重みに、カイルは小さくガッツポーズ。
「……青春してる所、悪いんだけど」
だが、そんな彼に掛けられたのは、背後からの静かな声だった。
黒い衣装に身を包んだ細身のエルフの娘である。肩に掛けた小さなザックは、ちょっとそこまで出掛けるといった様子だが……それが彼女の旅支度の全てであった。
「ん? もしかしてセリカさんも、ぬいぐるみ欲しいの?」
「いらない。それより、もう時間」
さらりと答えるセリカの視線を辿れば、ちょうど朝の太陽が山の頂に掛かる所だった。出発前にちょっとと思ったのだが、予想以上に時間を食ってしまったらしい。
「っと、もうそんな時間か。それじゃ忍ちゃん、今度の仕事が終わったら、また猫探し手伝うからな! あと、デートしようぜ!」
小さく手を振る忍にぶんぶんと手を振り返し、青年はスキップでその場を駆け出していく。もし彼が翼を持つ種族なら、間違いなく舞い上がっていただろう。
「…………」
明らかに地に足の着いていない青年の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、細身のエルフは沈黙を守ったままだ。
「どうしましたの? セリカさん」
「……何でもない」
忍の問いに小さく答え、セリカは他のメンバーも呼び出すべく、店の中へと入っていく。
続劇
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