8.王都に降る赤き雨 「何だよこれ……」 イシェファゾの前に広がっているのは、出撃を直前に控えた獣機工廠だった。 整備兵の怒号が飛び交い、戦装束を整えた獣機使いが搭乗の支度を行う。その間を駆け回るのは、まだ見習いの肩書きが抜けない少年義勇兵達だ。 グルヴェアの眼前ではコルベット軍が陣形を整えつつあった。あと半刻もせぬうちに、予備兵力である彼らも戦場の最前線に駆り出される事になる。 その、はずだった。 「どうしたんだ……おい!」 イシェは慌てて近くで倒れていた兵士を抱き上げ、大声で呼びかける。 「しっかりしろ! 傷は浅いぞ!」 そうは言うが、床に広がる血溜まりは広く、指先に触れた傷口は細く深い。刀や槍で付けられるような傷ではない。もっと薄い刃で、鋭く迅く切り裂かれた一撃だ。 無論、助かる傷では無い。 そんな傷を受けた者が、広い獣機工廠で見渡す限りに倒れているのだ。 「ガキ……が」 言ったきり、男は頭を垂れた。 「ガキ……?」 見渡してもそんな子供はいない。 だが、イシェの脳裏をよぎる姿があった。 薄い斬撃痕。 子供。 水使いの刃。 義勇兵の少年。 「……まさか」 男を寝かせ、イシェファゾは走り出す。 死体の転がる通路を疾走し、血に染まったギリューの足元を駆け、切り裂かれたコンテナの列を抜けた先に、目指す者はいた。 グルーヴェ兵士の服をまとった、子供が。 「やっと気付いたんだ?」 「あの時は気付かなかったぜ……」 その服は、かつて王宮の地下で会った少年義勇兵の着ていたものだ。 「そりゃ、幻覚をまとっていたからね。気付かなくても当然さ」 何も少年兵から奪ったわけではない。 少年本人が、正規の手続きを踏んで支給してもらった物だ。 「……なるほどな」 慎重に。懐の魔石の存在と、右手に提げた戦棍の感触を確かめつつ、間合を詰めていく。 「ああ……」 ラーゼニアとコルベット、かつて数度相見えた事のある水使いの少年。王党派でコルベットの配下にある彼ならば、あるいは……と思ったのだが。 まさか、身内のグルーヴェ軍に潜んでいるとまでは思わなかった。 「残念だったね。もう少し早く気付けば良かったのに」 対する少年は余裕の二文字。ゆっくりと歩み寄るイシェを警戒するでもなく、悠然と構えを取ったままだ。 「お前が……やったのか?」 七歩の間合で足を止め。 ティア・ハートを一息で発動・攻撃出来る状態に置き、長い棍を握り直す。 「獣機を止めるにはこれが一番簡単だからね」 動き出せば無敵の獣機も、動かなければ矢避けにしかならない。いかにグルーヴェの獣機が疑似契約で簡単に扱えるといっても、実戦に持ち出すにはそれなりの訓練が必要だ。 「ただの奇襲かと思ったが……赤の後継者か。貧乏くじ引いたな、くそ」 クロウザ達も少しすれば来るだろう。少年と正面から戦うのは初めてだが、以前渡り合った感覚では、彼の技量でも十分通用するように思われた。 少なくとも、クロウザ達が来るまでの時間稼ぎくらいは出来るはずだ。 覚悟を決めたイシェファゾの戦棍に、赤い炎が駆け巡る。 「ふふん。本気でかかってきなよ」 「……随分と余裕だな」 かつての少年は、炎を見た瞬間、奥に秘めた殺意をむき出しにしていた。 だが、今日の少年にはそれがない。むしろ、炎使いの登場を待ちわびていた様子すらある。 「嬉しいんだよ、僕は」 両の手に大気から水を喚び出しつつ、シェルウォードは静かに笑った。 「ミンミを殺す前にウォーミングアップが出来る事がね! 炎使い!」 広い獣機工廠。 その真ん中に倒れているのは、長身の青年だった。 「イシェ……イシェ……」 か細い呼び掛けに意識を取り戻し、ゆっくりと目を開ける。 「……だいじょうぶ?」 倒れた男を心配そうに覗き込んでいるのは、戦場にはいないはずの娘だった。 「お前……どうして、ここに」 切り裂かれた胸元に手を当てたまま、こちらを見つめている少女の傍ら。一匹の子猫が、にゃあと鳴く。 「ケガ、してたから」 言われれば、大きく切り裂かれたはずの胸には痛みがない。 確かあの時、受けたはずだ。 刃よりも薄い、水の斬撃を。 痛みのない原因が少女の使った治癒魔法だと気付くまで、少しの時間がかかった。 「いや、そうじゃなくて。お前、リーグルー商会の連中と一緒にココに行ったハズだろう」 そう。そのはずだ。 今頃はスクメギに着いていると思って、安心していたのに。 「オルタ様を捜しにいかないと、いけないから」 年端もいかぬ少女の口から放たれたのは、想像だにしていなかった名前。 「オルタ……? オルタ・リングの事か?」 「うん」 ソカロ達から聞いた話では、王党派が擁すはずのオルタは現在行方不明だという。 「何で、お前が……」 イシェの問い掛けに少女は答えない。 「もうだいじょうぶ」 一息つくと、触れていた胸元から手を離し、柔らかく笑う。 見れば、ウォードに切られたはずの胸元には浅い傷跡が残っているだけだ。痛みも完全に退いたわけではないが、我慢できないほどではない。 「それじゃ、行くね」 「行くねって、オイ!」 コーシェの立ち上がる動きに対し、イシェの反応はわずかに遅れた。 駆け出した娘の先。 「この子の事は大丈夫。任せなさい」 工廠の出口、身を伸ばして立つのは、腕を組んだ少女の姿。影からクマ族だとは分かったが、表情すら見えぬ逆光の中では、誰かまでは分からない。 「イシェはあの子を追って」 そう言い残したコーシェの手を取り、逆光の少女は軽く地を蹴り飛翔する。 「おい、待てよ!」 叫び、走るイシェが入口に辿り着いた時には。 既に、その姿はどこにも無い。 「イシェファゾ!」 少女達の代わりに舞い降りたのは、黒い不吉な翼を持つ、男だった。 「クロウザ……か」 苦々しく呟くイシェの背後を見、こちらも表情を曇らせる。 「伏兵か。してやられたな」 「義勇兵に、赤が紛れ込んでやがった」 裏切り、奇策は戦場の常だ。驚く事ではないが、アルジオーペが裏切った直後だ。まさか、赤の一味が再び入り込んでいるとは思わない。 「行ってくれ。補充のギリューが使えない以上、お前らの獣機が頼みだろ」 後詰めに回るはずの獣機は使えなくなった。いま戦場に出ている三十騎の獣機が倒されれば、コルベットに抗う術はなくなってしまう。 「……」 イシェの言葉にクロウザは答えない。 その視線が胸元の傷にある事に気付き、イシェは改めて呟く。 「伏兵は何とかする」 「……何とかなりそうか?」 「ああ。大丈夫だ」 嘘だった。 かつては互角だった炎の技が、今の水使いには全く通じなかったのだ。相手に一太刀も浴びせる事は出来ず、こちらは致命傷を受けている。 「行けよ!」 だが、それでもイシェは叫んだ。 その意志に負け、黒外套の青年が応じようとしたその時。 「なら、お前も城門に戻るべきだろう」 掛けられたのは、静かな男の声だった。 「ソカロ……」 薄暗い工廠の中では不便なのだろう。サングラスを取った男は、周囲の惨状を見回しながら呟く。 「相手の動きは容赦がない。後詰めの獣機を潰した後、こちらの戦力を徹底的に削ぐとすれば……」 ソカロの言葉に、イシェとクロウザが答えを見つけ出したのは、同時だった。 フェーラジンカ。 頭を潰せば、残る手足は何も出来なくなる。 「俺なら、間違いなくそうするね」 その言葉が終わるよりも早く、クロウザは黒外套を翼へと換え、大きく展開させた。 「では、急ぐぞ。イシェファゾ」 だが、伸ばした手をイシェファゾは拒んだ。 「クロウザは先に行ってくれ。少しでも早く」 獣機にとって、大人一人の重さが微々たる物だとは分かっていた。しかし、その重さすら、今は命取りになるかもしれないのだ。 「獣機使いのあんた。ジークベルトに伝えてくれるか? 地下への入口が分かったとな」 「……では、ここは任せたぞ」 言葉一つ残し、クロウザは天井の出撃口へ鋭く飛翔。先程の少女達よりもはるかに迅く、その場を後にする。 「では、俺達も行くとするか……。コーシェとミーニャにも追い付きたいしな」 そう言い、ソカロはサーベルを引き抜いた。 「何だ、モテモテじゃないか」 軽く応じ、イシェも傍らの棍を斜めに構える。 「イイ男は僻まれるのが、世の常さ」 入口に立つは、黒鎧の騎士の群れ。 地下への入口を見つけたソカロ達を追ってきた、刺客達だ。 「普通で助かったよ、俺ァ」 クロウザも恐らく気付いていただろう。しかし、ここで戦う事は彼の仕事ではない。 「悪いが、貴様らと遊んでいる時間はないのだよ。さっさと退場してもらおうか!」 「往くぞ!」 風と炎をそれぞれまとい、二人の男は目の前の戦場へ駆け出した。 |