8.地下二百メートルの死闘 少女は、闇の中を歩いていた。 石とも漆喰ともつかない細い通路の中だ。壁は平らに均されていることから、人工物であるのは確かだろう。 少女は表情を見られたくないのか、深くフードをかぶったまま。闇の中、半ば手探りの体で進んでいく。 ただ、少女は一人ではなかった。 少女の三歩前。 仮面を付けた少年が、歩いている。 こちらは闇を見通す事が出来るのか、灯りもない道を悠然と進んでいく。 少年は無言。 少女も無言。 長い長い通路に響くのは、二人分の足音と、疲労の色を帯びた少女の吐息のみ。 「疲れましたか? オルタ・リング」 数十分の沈黙を経てようやく少年の口から出たのは、そんな言葉だった。 台詞こそは労りの言葉だが、その中に心配の色は見えない。むしろ、軽蔑の意志さえ感じられる。 「……いえ」 対する少女の答えも限りなく短い。 馬車でグルヴェアまで連れてこられた後は、闇に閉ざされた回廊を数時間も歩かされてきたのだ。唯一の頼りが少年の靴音だけとなれば、少女の疲労は計り知れないはず。 「もうすぐですよ、多分ね」 「……多分?」 少年の不可解な言葉に、少女はフードの奥、眉をひそめる。 「ああ、ここだ」 次の瞬間、しゅっという軽い音と共に、闇に閉ざされた世界を光が切り裂いた。 少年の前に広がるのは、王宮のホールほどもある巨大な空間。並ぶ列柱と、壁一面に設えられた幾何学的なレリーフは、宮殿というより神殿に近い雰囲気さえ抱かせる。 だが、そこはあくまでも王宮だった。 ホールの最奥部、他方の壁よりはるかに複雑な意匠が施された壁の中央には、王が座するための玉座が設えられているからだ。 「誰だい? 君は」 声は豪奢な玉座から。 そこに腰を下ろすのは、少年よりも幼く見える男の子だ。 偉大な玉座に頬杖を突いてよりかかり、醒めた目でこちらを見下ろしている。 「貴方がロード・シュライヴですか?」 黒いマントを身につけたシェルウォードは、半歩進んで広間の中へ。通路から現れる黒い姿は、闇の中から抜け出したようにも見える。 「そうだよ」 光の中。わだかまる闇をつまらなそうに眺めながら、シュライヴと呼ばれた子供は気のない返事を寄越すのみ。 「初めてお目通り叶います、我が主。エノク巣のシェルウォードと申します」 「ああ、君がエノク巣の生き残りか。で、そっちは?」 シュライヴが指したのは、黒い少年の後にぼんやりと立つ、マント姿の娘だった。相変わらずフードを取る気配もない。 「我らがレッド・リアの新たな女王、オルタ・ルゥ・イング・グルーヴェをお連れしました」 「……へぇ」 片膝を着いたままのウォードの答えに、初めてシュライヴは感情を見せた。 嘲りの、色を。 少年は頬杖を解き、ゆったりとした背もたれに深く身を沈ませる。詰まらないショーの始まりを察知したかのような、やる気のない態度だ。 「だってさ。ヴルガリウス」 その声と同時に、広間の隅に気配が生まれ出た。 二メートルを超える巨躯をゆっくりと引き上げ、少年の前に立ち塞がる。 「ヴルガリウス」 ウォードも立ち上がるが、禿頭の巨漢とは倍近い体格差がある。こうも目の前に立たれては、見上げるしかない。 「シェルウォード。貴公、何という事を……」 巨漢の声は怒りに震えている。 その怒りはもっともだろう。何せ、コルベットに預けていたオルタを、勝手にこんな所まで連れてきたのだから。 だが。 「いずれはオルタ・リングもここに来る身だろう? なら、どうせ変わらない……」 そう言いかけたウォードを、ヴルガリウスの言葉が遮った。 「そ奴が本物のオルタ・リングならばな」 「……え?」 一瞬、呆然とするウォードを弾き飛ばし、ヴルガリウスは腰の大太刀を引き抜いた。 進むは直線。踏み込みと斬撃の軌道上にあるのは、ぼんやりと立ったままのフードの娘だ。 「正体を見せろ! 偽物めッ!」 鋭い怒号と共に、無防備な少女に向けて怒濤の如き斬撃が振り落とされた。 巨大な獣が、大地を駆けていた。 十メートル近い巨躯を持つ獣だ。それが、グルーヴェの荒野を駆けている。 「……さま」 その巨獣の上に、心配そうなか細い声が響いた。 コーシェイである。 シェルウォードに連れて行かれたオルタを追ってコルベットから出て来たのはいいのだが、途中で二人の乗っていた馬車を見失ってしまったのだ。 グルヴェア方面に向かっていたからと、だいたいの方向で追っては来たのだが……。 「見つからない?」 「うん。二人はレッド・リアに行くって言ってたけど……」 駆ける巨獣の傍らで。唐突に掛けられた声に、何となく答えてみる。 「……そう、さらりと返されるとつまらないわね」 「ごめんなさい。驚きはしたんだけど」 魔力の乱れと、転移の気配は分かっていた。巨獣の疾走に追い付く飛翔魔法は、それに比べれば驚くほどのものでもない。 むしろコーシェは少女のまとっている真っ赤な装束のほうに驚いたのだが、彼女自身、派手なリアクションを取るのは得意ではなかった。 「ま、いーわ。貴女、転移魔法は使える?」 巨獣の上にふわりと舞い降りてきた娘を咎める様子もなく、コーシェは困った表情を浮かべてみせる。 「使えるけど、どこに跳んだらいいのかわかんないの」 ウォードがオルタを連れて出る時、レッド・リアに行くと言っていた。 だが、レッド・リアという地名はグルーヴェの地図のどこにも載っていない。屋敷の者や、立ち寄った街でも聞いてみたが、誰一人としてそんな地名を聞いた事はないという。 転移魔法には行き先の知識が必要不可欠だ。オルタの気配を目標に転移するという手もあるが、気配を頼りに跳べるほどコーシェは転移魔法の修行を積んでいない。 「ああ、方向と距離はあたしがフォローするわ。貴女は詠唱をお願い。共同戦線で行きましょ」 移動先は知った仲だから、と少女は悪戯っぽく微笑む。 「じゃ、平気だと思うよ」 そう答え、コーシェは巨獣の背からひょいと飛び降りた。二人の相談を聞いていたのか、巨獣はいつの間にか足を止めていたのだ。 「なら、さっさと行くわよ。その獣機は……」 少女がそう言った時には、既に巨獣は一抱えほどの猫に姿を変えている。 「……これで、いい?」 にゃあと鳴くねこを抱き上げ、コーシェイは首を傾げて見せた。 大地の底。巻き起こる斬撃の剣風に、フード付きのマントが舞い上がった。 鈍い破砕音の中、フロアをえぐる大剣に手応えはない。重量そのものを武器と化す刃には、血の一滴も付いてはいない。 螺旋の衝撃はその一瞬、横殴りに来た。 「ぐぅッ!」 斬撃の回避と同時に叩き付けられた蹴打を、防御に回した片腕では受け止め切れず、禿頭の巨漢は思わずたたらを踏む。 左手で大剣を引き戻した時には、既に相手の姿は無い。 綺羅綺羅と輝く光をまとい、蹴打の主は手近な列柱の上に立っている。 オルタ・リングではない。 大きめのゴーグルで表情を隠し、洒落たワンピースをまとうその姿は、彼らの前に幾度となく立ち塞がった戦士の姿だ。 「貴様……ッ。いつ入れ替わった!」 そう、ウォードは叫ぶ。 コルベットからレッド・リアに着くまで、少年はずっとオルタを見張っていた。途中で入れ替われるタイミングなど無かったはずだ。 「いつもなにも、最初から!」 「……は?」 列柱の上で堂々と叫ぶゴーグルの少女に、黒マントの少年は愕然。 「まさか、この間の侵入者というのは……!」 その時から、オルタと少女は入れ替わっていたというのか。 「っていうか、気付かなかったの?」 少女としては、ウォードが知っていて連れ込んだものとばかり思っていたのだ。トラップ上等、虎穴に入らずんば虎児を得ず、決死の心意気で敵陣に殴り込んできたつもりだったのだが……。 「……目、悪いから」 フードをかぶったままの輪郭は似ていたし、振る舞いもそれらしかったし、ウォードとしては萎縮したオルタだとばかり思っていた。 「あー。じゃ、しょうがないわ」 いずれにせよ、少女はここにいて、少年はここにいる。 状況は、変わらない。 「で、君は何者なんだい? 結局」 相変わらず退屈そうなシュライヴに、少女は高らかに「秘密!」と叫んだ。 「このシューパーガール、悪に名乗る名前など無い!」 そう続けなければ、とてもキマっていた。 「へぇ。僕達が『悪』ねぇ」 呆れるウォードとヴルガリウスを尻目に、シュライヴはくすくすと笑いながら応じてやる。 「フェアベルケンを混乱の渦に陥れようとする赤の後継者達を、あたし達ガーディアンズ・ギルドは見逃しはしないわ!」 その名を聞いた時、呆れたようだったヴルガリウスの眉が、わずかに動いた。 「……どうでもいいけど、バカだろう。君」 「うるさーーーい!」 やり取りに飽きたのか、列柱の上で吼えるシューパーガールを放って置いて、シュライヴは投げ槍に呟いた。 「ま、いいや。ヴルガリウス、君は因縁があるだろうから、あれは任せるよ。エノクの残党には、ちょっと話があるからさ」 「御意」 大剣を振りかざし、シューパーガールの立っていた列柱を一刀のもとに叩き斬る。 「ちっ!」 さすがに無勢と判断したのだろう。シューパーガールは崩れ落ちる列柱を駆け下り、そのまま暗闇に包まれた通路に躍り出る。 フードをまとっていた時とは違う。闇を見通す力を持ったゴーグルがあれば、暗い通路でも足元を取られる事はない。 それを追い、ヴルガリウスも追撃を開始する。 |