3.戴冠式の裏の裏 静寂が、世界を支配していた。 靴音一つ響かぬ世界。幼子達の聖歌のみが、僅かに野外劇場の空間を揺らしている。 かつん。 靴音が、一つだけ響く。 今までの歓声が嘘のように。一瞬のざわめきから、それが場の全てを支配した。 靴音が連なるにつれて声は消え、代わりに痛いほどの緊張が辺りに立ち込めていく。 全ての視線はその一点に。靴音の主の一挙手一投足に、巨大な劇場中の視線が注がれている。 シーラ・テ・コーココ。 それが、主役の名。 まとうドレスはどこまでも黒い、闇の色。 黒の王女の通り名そのままの、影の色。 正しく影の如く、闇の如く。儀仗兵の間を抜け、階を昇り、音もなく辿り着いたのは法衣をまとった王の位置。 王は無言でそこに立ち、姫も無言で跪く。 闇がうずくまる。 神々しさよりも禍々しさ。 畏敬よりも畏怖。 慶びよりも不安。 陽光のココには似つかわしくない闇色の式典。そよぐ風さえ止めるその緊張は、観衆の呼吸を、声の全てを封じ込めたまま。 淡いヴェールに覆われたその頭に、すいと冠が与えられた。 ココ王国の冠だ。華美でも、派手でもない。ただ七王家の誇りと歴史の刻み込まれたそれは、細いながらも少女の頭を沈ませるのに十分な重さを持つ。 僅かに身を落とした姫君は、冠の重圧に潰されたかのように見えた。 先王は無言でそこに立ち、姫は……否、女王は無言で立ち上がる。 観客に声はなく。 拍手もなく。 微動だにすら、出来ないまま。 ただ刺すような威圧の中、新たなる女王はココ王国に誕生するのだった。 少女がココの街中を走っていた。 ピンクのワンピースに包まれた小さな体は、人混みをすり抜け、裏道を駆け抜け、屋台のテントをくぐり抜けて、全力疾走の足を緩めない。 行き先はもちろんココ城だ。式典会場の整理券は貰えなかったが、結婚式後のお披露目式で新女王をひと目見ようという腹づもりなのである。 「なんだか随分と静かだなぁ……」 ひょいと顔を上げ、戴冠式が行われているはずの野外劇場を一瞥。 そろそろ戴冠式のヤマ場であるはずなのに、随分と静かだ。気楽なココの民が、少々厳粛なくらいで黙り込むとはとても思えないが……。 「ん? ミーニャちゃん、これから王宮かい?」 「そだよー!」 露天に座る猿族のオヤジに声を投げ返し、元気良く手を振るミーニャ。頭に揺れる丸い耳は、クマ族のビーワナである事を示している。 そんな彼女が、ふと足を止めた。 「……あれ?」 違和感に、耳がぴこぴこと動く。 「おじさーん! あっちって確か……」 一歩路地に入った所にある、古い一軒家だ。ひなびた骨董品屋にも見えるそれは……。 「冒険者ギルドだけどもさ、お得意のレーダーかい?」 「んー。なんか、引っかかるんだよねぇ」 戴冠式の会場と同じ沈黙を保っているのだ。 酒場を兼ね、朝晩を問わない喧噪に包まれている冒険者ギルドが、である。 「ま、いいや。ちょっと偵察にいってきまー」 「おーう。気を付けてなー」 猿族の店主に手を振り、ミーニャは冒険者ギルドの立つ路地へと足を踏み入れた。 光の中から現れた闇に、少女は怖れる様子もなく声を掛けた。 「お疲れ様、陛下」 「イルシャナ。そちらの方は?」 黒いヴェールに覆われた表情は見えず、通して聞こえる声もくぐもって鮮明には届かない。 「グルーヴェ王国獣機師団所属、イーファ・レヴィーと申します。本日は北方辺境部隊所属、シェティス・シシル少佐の代理で参上いたしました。陛下には、即位のお慶びを」 貴族のイーファは王宮の作法も一通り覚えている。グルーヴェのものはエノク流が基本だから、エノクと仲の良いココでも不作法には当たらないだろう。 「ああ。イルシャナから話は聞いているわ。スクメギではお世話になったそうね、有り難う」 その言葉は、戴冠式の冷厳な雰囲気とはまるきり違う、穏やかなものだった。 「……は、はぁ」 「では、これで貴女の面目も立ったのよね。これでいいかしら? イルシャナ」 冷たいどころか、威圧感すらない。堅苦しいグルーヴェの王宮とは、まるで正反対だ。 「ええ。助かったわ、シーラ」 「え? え?」 その上、イーファを放ってこの会話。後に控えているドゥルシラやグレシア共々、状況が全く分からない。 「イーファ。あなた、獣機があればどうしたいって言ったかしら?」 「あれば……シーレアに行きたいです」 だから、イルシャナの問いには素直に答えた。考えても、他に答えがあるのか分からなかったからだ。 「そう。なら、そろそろ思い出した方が良いのではないかしら? ドゥルシラ」 思い出す。 その単語の意味を考えていると、後から細い手が伸びてきた。 「……ドゥルシラ?」 世話係の娘は、緩くウェーブのかかった主の髪を執ると、ゆっくり額に手を滑らせる。 「イファ。今まで嘘をついていて、ごめんなさいね」 額に触れた柔らかな感触は、彼女の唇だろうか。 『イーファ』 覚えているのは、穏やかな声。 『今日あったことは、絶対に誰にも言ってはいけないよ?』 優しい声に言われたのは、そんな言葉。 『分かりました』 言の葉自体は覚えている。けれど、言ってはいけない事が何だったのかは覚えていない。 覚えていない……はずだった。 「ドゥルシラ……」 繋いだ柔らかい手をぎゅっと握りしめたまま、アタシは静かに答える。 握ったこの手を離さないように。初めて会った時から、ずっと一緒にいたい、と思っていたのだから。 だから、忘れたのだ。記憶に残す事を放棄して。そうすれば、このひととずっと一緒にいられたから。 「伯父様……ありがとう」 だから、アタシはドゥルシラとずっと一緒にいられたんだ。 グルーヴェでは実験材料としか見られない、獣機種族のビーワナと。 「シーラ陛下! アタシ、シーレアに向かいます!」 声に迷いはない。 任務は果たした。獣機はすぐ傍、共にある。 なら、選択肢は一つしかない。 戦う為に。もう一人の失った記憶も、ついでに戻してやる為に。 「中庭の芝生はアリスが大事にしているから、石造りの裏庭をお使いなさい。ここの獣機結界も、獣機が二人居れば何とかなるでしょう」 「はいっ! ありがとうございます!」 くすりと笑うヴェールの女王に、元気良く一礼。 「グルーヴェにも話の分かる方がいたのね、イルシャナ」 二人の使用人と共に駆け出したイーファを見送り、イルシャナは静かに呟く。 「ええ。リヴェーダが、レヴィー候は今は行方不明と言っていたけれど……どうしているのかしら」 やがて裏庭からは大きな影が舞い上がり、シーラは衣装を変える為、自らの部屋へと姿を消すのだった。 |