「もう、いいのよ」 そんな声が響いた気が、した。 穏やかなてのひら。 柔らかなてのひら。 白か、灰か。混乱し、押さえられぬ感情を通してでは、その掌の色までは分からなかった。 伝わるのは心地よい冷たさ、ただそれだけ。 猛り狂う心を鎮める、静寂の心。 心の炎を一心に受け、どれだけ灼かれ、いかに焦がされ、完膚無きまでに侵され犯されようとも、退かぬ……無尽の如き慈愛の心。 「もう、お休みなさい」 異形の肌に触れるのは、冷たい唇。 深淵の優しさに狂おしき憎悪が吸い上げられる。 血に濡れた赤い瞳は、少女の瞳を取り戻していく。 冷たい腕に、抱きすくめられる。 果てしなき怒りが母なる腕の中へと呑み込まれる。 白い妖毛に覆われた体は、少女の細い体を取り戻していく。 「……うん」 やがて。 源河冬絵は、鞠那静の腕の中で自らの形を取り戻した。 第09話 『原始、女性は太陽だった』 地下百mの世界には、太陽の光など届かない。 この世界の光は、緑色の人口の光、それだけだった。 音は培養槽のコポコポという小さなポンプ音だけ。 風とて、人口の冷房で賄われる。 全てが人口。人の手だけで造り出された、箱庭の世界。 「それが……?」 そんな世界で、茶髪の青年は感嘆の声を漏らしていた。緑色の人工光を差し引いても、青ざめているのが分かる。 「そうだよ。これこそが、僕の求めていたものさ」 嗤うように応えるのは細身の少年。病的なまでに線の細い少年は、緑の光を受けてより病的に、より狂的に見えた。 彼の後にあるのは、身長ほどもある巨大な培養槽。 幾つかのケーブルに繋がれてその中に浮かぶのは……ニンゲンの腕だ。 「忌まわしき力。神に至る力。台場一族の大いなる呪い」 だが、こんな異常な世界に浮かぶ腕が、普通の腕であろうはずが無かった。 どんな巨漢でも持ち得ぬほどに隆起した筋肉。 どんな豪傑でも持ち得ぬほどに強靱な皮膚。 そして何より、蒼きその色はヒトの持ち得る色であるはずがない。 腕の色は青かった。 蒼い腕。太陽の光の元でも人の色を与えられていないと分かる腕。 かつて鋼鉄の蠍『ゲンオウ』によって斬り飛ばされた、リキオウの腕だった。 それを見上げるよう。少年は謳うように呟く。 「そんな物があいつに相応しいはずがない」 緑色の光を放つコンピュータ・ディスプレイの群れに無数の記号と数式が流れ、そこに眠る大いなる秘密を解明しようと複合されたCPUを駆動させている。連動したプラント設備が、低い音を立てて秘密を暴き出そうとしている。 「台場の血……そこから生まれた僕にこそ、その秘密は相応しい」 一つ目の成果は、既に世界へ放たれた。 二つ目の成果は、茶髪の青年の中へ。 三つ目の成果は、今は少年の中にあった。 だが、足りなかった。 完璧に至るには。少年の望む高みへと踏み込むには、もう一段階のステップが必要なのだ。 しかしそれもついに成った。 完璧なサンプルを得る事で、長い長い研究の成果がついに形になろうとしているのだ。 「思えば、業の深い道だなぁ。お互い」 嗤う茶髪に、少年は張り付いたような笑み。 その時、扉がしゅっという音を立てて開き、3人目の少年が姿を現した。 ○ それはまさしく悪夢であった。 放たれた拳が迫ってくる。 力を集めた防護壁も、鉄壁を誇る装甲板も、そいつの前では意味など持たない。ただ歪み、ひしゃげ、砕け散るのみ。 護るためではなく、破壊されるためだけに、そこにある。 拳が迫る。 放つのは、赤い瞳の持ち主。 狂気と破壊、憎悪の持ち主。 己と相手の間に立ちふさがる全てを砕き、ねじ伏せ、滅ぼさんと、ただ迫ってくる。 破壊。 力なき守りが消え、迫る拳に全てが砕け散りそうになった刹那。 目が、覚めた。 「起きたようね」 掛けられた声に、少年はゆっくりと身を起こした。 「……『あいつ』は?」 声の主を確認するよりも先に、そう問いかける。 「逃げたわ」 回答は短い。だが、その素っ気なさが、逆に事態の深刻さを物語ってもいた。 「メガダイバーは1番機がロスト。2番機、3番機は大破。現在、機体は社の総力を挙げて修理中よ」 そこに至って、声の主が目も覚めるような美人だった事に気付く。気づきはしたが、いつものように心は奮わない。 「1番機が……ロスト?」 「ええ……」 ロスト。消失。失われたという事。 「パイロットは? 総裁は?」 美女からの返事はない。僅かに目を伏せ、それきり口を閉ざす。 それこそが質問の答えだった。 「俺……」 「心配ないわ。バックアップの貴方は初陣ながらも十分な働きをしたと、総裁も評価しておられたから」 清楚だが、少しだけ儚げで寂しげな、静かな笑み。母性を形にして脆い若さと悲しみで支えれば、こんな艶やかで柔らかい表情になるのだろうか。 「……そっか」 ぽつり、呟く。任じられたばかりの『ゲンオウ』3番機パイロットを降ろされない事に一瞬だけ安堵し……。 「悔しい?」 「……ああ」 女の問いに答える事で、答えが見えた。 そうだ。安堵よりも悔恨。自分を見いだしてくれた老人を失った悔しさ。蒼きあいつに、何の抵抗もできずに負けた悔しさ。 あんな奴に。 あんな奴が。 あんな奴の為に! 二度と取り戻せぬ喪失は、少年にとっては大きすぎるもの。 「貴方は頑張ったわ。誰も責めはしないから……降りても、いいのよ?」 答えはなかった。言葉はなくとも、血が滲むほどに握られた拳を見れば、少年の答えは聞くまでもない。 怒り。憎悪。激しい感情が少年を包み込み、少年はじっとそれに耐えている。 「そう……」 病室のベッドの上、そっと腕が伸びてきた。 包帯の巻かれた頭を抱えられ、胸元に抱き留められる。 柔らかい腕。柔らかい胸。女性……いや、記憶の中の母親のような甘い匂いが、少年の鼻をふんわりとくすぐる。 激情を呑み込む女の胸に、少年の感情が決壊した。 「俺。俺。あいつに勝てるかな」 狭い個室で嗚咽を響かせながら、少年は女にすがりつくようにして泣きじゃくり、問いかける。 「ええ。きっと。必ず」 穏やかな表情を貼り付けたまま、女は静かに少年を抱き続けた。 ○ 緑の世界に姿を見せた3人目は、白い仮面を付けていた。動かぬギガダイバーを見届けた男達が身に付けていた、件の防疫マスクだ。 「フユエはフェムトに沈静化されたよ」 数枚の報告書が挟まったファイルを机に放り、仮面は少年をちらりと見た。 「今ヨシナダを放って来たが……ついに、出来たのか?」 「ああ。これから試す」 「そうか。日美佳を呼んできた方がいいか?」 仮面の少年は、特に感慨もなく短い返答。まるで感情がないかのような声だが……彼が現れた扉の向こうを見れば、それも納得出来るだろう。 そこはさながら神殿のようだった。 身の丈ほどの無数の培養槽が通路に沿って立ち並ぶ、化学の神殿。 緑の光を放つ柱の中に眠るのは、異形。異形。異形。 右半身を象ほどに巨大化させたハツカネズミ。 3本の豪腕を生やしたスズメ。 戦車の装甲すら貫けそうな無数の衝角に覆われたニシキヘビ。 そして……かつては、ニンゲンだったであろうもの。 狂化学に捧げられた贄か、あるいは称えられる神そのものを目指そうとしたものの成れの果てか。いずれにせよ、そんな世界をくぐり抜けるためには人としての感情など持ち合わせてはいられないだろう。 人の心などあれば、狂うか魅入られるか。あるいは、罪の意識に苛まれて死でも選ぶか。 狂人へと堕ちねば抜ける事も叶わぬ異界なのだ。ここの地下世界は。 「いらないよ、あんな女。ああ、兄さんには会いに行くから、車を回しておいてもらえるかな?」 「では、そうしよう。上で待っているよ」 魔界の主たる少年の言葉に茶髪と仮面の2人が退出し、狂気の神殿へと姿を消す。やがて通路のリノリウムを叩く音も消え、学園都市大深度地下の呪われた空間の住人は少年一人となった。 完成品の入ったアンプルをぺきりと折り、使い捨ての注射器に薬剤を吸い込ませる。慣れた手つきで静脈に注射し、それで終わり。 「……呆気ないな」 ぽつりと呟くと仮面の残したファイルを取り上げ、内容を確認する。仮面の報告書は簡潔で、無愛想なほどに分かりやすい。 「フェムトに沈静化されるも、こちらかの干渉次第では再起動も可能……か。なかなかのものだな。ヤマイのギガウィルスも」 ついでに『GDヨシナダ』と銘打たれたファイルを取った所で少年は言葉を切り、席を立った。 「……来たか」 視界がゆらりと揺れ、あふれ出た意志が研究施設を振るわせる。 「くくく」 体の内を駆け巡る感覚に、笑いがこみ上げてきた。 「ははは」 笑いは哄笑に代わり、 「はははははははははははははははははははははははははははははははは!」 やがて嘲笑に、狂笑に変わっていく。 「そうだ。この力、この力だ!」 手に入れた。とうとう手に入れた。 歪む視界の中、狂ったように笑いながら壁のパネルに拳を叩き付ける。 それは培養槽の解放スイッチ。全ての柱に施された封印を解除し、解き放つ禁断のスイッチだ。 自動ドアの前に立てば、音もなく扉は開き。 その奥は、解放された狂気と破壊の世界。 まさにその通り。立ち並ぶ柱はねじ切られ、砕け散り、ガラスケースの向こうから無数の異形が姿を見せていた。 あるモノは自らの命ずる破壊衝動のままに。またあるモノは残された僅かな怨嗟の念を果たすべく。神殿の奥の宮、狂気の本拠地、3人の少年の研究室を目指し突き進む。 だが、その異形達さえも、研究室の前。 狂笑する少年の前で足を止めていた。 「……いた」 そして。 狂気の世界の中心の、その中心。狂ったように笑う少年はついに捕らえた。 深きものを。 破壊するものを。 そいつを引きずり出す、合い言葉を。手段を。 紛い物ではない、本物の『破壊するもの』を。 「ダイブ!」 その瞬間、異形の群れが砕け散った。切り裂かれ、打ち抜かれ、過電圧に焼き尽くされた。笑い声が響くたび、少年が一歩歩を進める度に異形は吹き飛び、惨殺され、降臨した悪魔の贄と化していく。 「はははははははははははははははははははははははははっ!」 やがて狂気に包まれた研究所はそれすら凌駕する破壊に押し潰され。 小さな世界は、永劫の闇に閉ざされた。 台場繊丸。 台場力王の弟だ。 リキオウ。 それは、破壊のテラダイバーの名。 センマル。 それは、狂気のテラダイバーの名。 次回 テラダイバーリキオウ 第10話『繊丸 白きテラダイバーの狂気』 |