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[5/8 AM 25:30 合衆国某所 共同墓地]
 夜の墓地に降り立った影は、さながら幽鬼のようであった。
 5月というのに冷たく張り詰めた空気の中だというのに、石畳に跳ね返る靴音もなく、
その身にまとうコートも衣擦れの音を立てることがない。夜の中では、影が光の中ではど
んな色に彩られているのかも、判別することは難しい。
 月も細く明かりすらおぼつかない闇の中を、幽鬼は音もなく進んでいく。
 かっ……。
 その影が、初めて音を立てた。いかな幽鬼とはいえ、靴音を立てる足はあったようだ。
立ち止まったのは、道沿いに並ぶ無数の墓の一つ。墓碑銘は闇の中では読むことが出来な
い。そんな闇の中で正確な墓の位置を見いだせたという事は、幽鬼はその場所を何度も訪
れたことがあるのだろう。
 十字の形に刻まれた墓石を見下ろし、幽鬼は声を放った。
「父サン……」
 幽鬼……いや、そう呼ぶべきではないのかもしれない。影の声は、怨嗟の秘められた死
霊の如き声ではなく、地の底からしみ出すような怨念の籠もった幽鬼の如き声でもないの
だから。
 だが、だからといって人と呼んで良いものか。
 冷淡、無感情、氷の意志。そんな感情のこもらない言葉を表現する語彙ですら……形容
しようのない声を放つ存在の事を。
「ワタシは、貴方を許さなイ」
 影は、淡々と、感情という色の失われた声で、呟く。
「ワタシや母さんよりアイツを選んだ、貴方を……」
 そして、爪先ほどの月が雲間に姿を消し、再び姿を見せたとき。
 影は、姿を消していた。
 一輪。たった一輪の花を墓前に残して。


番外編 −其に捧ぐ、一輪の花−
[5/9 AM 10:30 合衆国某所 共同墓地]  石畳の上を、二つの足音が歩いていく。 「悪いね、こんなトコまで付き合わせて」  一つは重いブーツの歩む音。淀みも迷いもない、まっすぐな足音だ。 「別に構わないわ。休暇とは言え、大してやる事もないのだから」  もう一つは、軽いパンプスの進む音。こちらは淡々と、ブーツの低音に半テンポ遅れて 続いている。  話の内容からすれば、パンプスはブーツの用事に付き合っているらしい。ブーツがどこ まで行くか分からないから、半歩ずれて歩いているのだろう。 「昔、すごくお世話になった人だからさ。もう家族もいないって話だし、あたし一人くら いはね……」  ブーツの女の手に握られているのは、一束の花束。体格の良い女からすれば小さく見え る花束だが、実際はそれほど貧相なものではない。墓前に供えるには十分といえる花の量 だ。 「ホントなら、ジムも一緒に来るはずだったんでしょう?」  その言葉に、ブーツの足音が止まった。パンプスの方はこの状況を予想していたらしく、 半テンポ先に歩みを止めている。  ジム・レイノルド。ほんの半月前まで二人の上官だった男だ。今は危険な傭兵稼業を引 退し、故郷で農家だか護身術のトレーナーだかをやっている。  ……はずだったのだが。  最後の仕事……護衛艦トロゥブレス号の護衛任務……で事故に巻き込まれ、現在は行方 不明。既に半月が過ぎたというのに、他の乗員ともども見つかる気配はないという。 「何だ、知ってたのか」  その言葉を受け、ブーツは苦笑。  ブーツもジムもその男とは一方ならぬ縁を持ち合わせていた。片や、一人前になるまで 面倒を見て貰った上官として。片や、ゲリラとして捕らえられながら、命を助けられた者 として。  男が不慮の自動車事故で死亡してから10年。別に申し合わせたわけではないが、彼の 命日に可能な限り花を供えるのは二人の無言の習慣となっていたのだ。 「ジム、見つかるといいけれど……」  パンプスの呟きにブーツも頷き、再び歩き始める。 「あら?」  足を止めたのは、目的の墓標の前に見慣れぬ姿を見つけたからだった。
「……お二人も、ミスタ・ミューアに花を?」  墓標の前にいたのは一人の男だった。細身の身体には黒いジャケットを羽織り、手には 墓前に供えるらしい花束を提げている。ブーツが男の東洋系の顔立ちが日本人のものだと 思ったのは、同じ日本人であるパンプスを見慣れているからだろう。  ちらりとパンプスの方を見遣ると頷いてきたから、日本人とみて間違いない。 「まあね。あんたもあの人と縁のあるクチかい?」  それだけを言い、ブーツは墓前に持っていた花束を置いた。相方には「あたし一人くら い……」と言ったものの、実際は彼女だけが命日に花を持ってくるわけではない。ジムを 始め、こうやって知りあった顔は何人かいる。  傍らに一輪の花が置いてあるところを見ると、二人や黒服よりも先に誰かが来ていたの だろう。これも、この10年の間で珍しくもない光景の一つだ。 「ええ。10年ほど前に、誘拐されたのを助けて貰いまして。それ以来、毎年出来る限り はこうして」 「事故に遭う直前まで、そうだったんだ……。あの人らしいや」  確かに彼なら持ち前の正義感と戦場で培った様々な知識を総動員し、誘拐犯を相手にで もやりあうだろう。  と、笑みを浮かべたブーツのポケットで、突然に携帯が揺れた。衛星を利用した強力な タイプだから、どこにいても通信が出来る反面、何をしていても呼びつけられてしまう。 こういう時にはあまり喜ばしい代物ではないが、仕事の都合上どうしても使わざるをえな い。 「電話だ。悪いね」 「お構いなく。それより、ミス蘭の方はどうして?」  墓地を囲む森の方に消えたブーツの女性の背中を視線で追うのをやめ、青年は黒いスー ツに身を包んだパンプスの女性……宮之内蘭に声を掛けた。 「私はあっちのリリアの付き添い兼、知り合いの代理。別にミスタ・ミューアとの直接の 関係はないわ」  蘭もジムの代理として花束を持ってきていたが、リリアと男が話をしている間に既に置 いてしまっている。ミューアの事は何度か聞いた覚えがあるが、特に感慨があるわけでも なし、淡々としているだけだ。 「ところで、どうして貴方は私の事を知っているのかしら? いくら名探偵とは言え、何 でも知っているわけではないでしょうに」  そう言いつつも、蘭の方も特に不思議がっている様子はない。 「……前にミス・ウィアナの所で写真を拝見しましてね。私のことは……」  僅かに呆れたようなため息で男の台詞を遮る、蘭。自分の事を知っていたのはそんなわ けか……という意味の呆れではない。呆れたのは、別の意味だ。 「貴方の名前を知らない日本人も珍しいと思うけど?」  一般に、本国に住んでいる者よりも海外に住んでいる者の方が、国に対する関心は高い。 テレビや新聞などで情報がいつでも手に入るわけではなく、ある程度限られた情報しか入 手することが出来ないから、手元にある情報に過敏になってしまうのだろう。そういうわ けで蘭も、目の前の男のように新聞の一面を何度か飾ったことのある人間であれば、大抵 の者の見分けはつくようになっている。 「おい、ラン。悪い知らせだ」  人は自分が思ったよりは、自分がどの程度有名かなんて知らないのでしょうね……。そ んな事を蘭が考えていると、ブーツの女性……リリアが浮かない顔をして戻ってきた。 「何?」 「パイソンが、トロゥブレス号の捜索は打ち切りになったって」  その言葉に、さすがの蘭も眉をひそめた。 「……ジムは?」 「……今週の12日。あいつも明後日にはこっちに入るって」  蘭達のいる部隊で一番の情報網を持つパイソンからの情報だ。ニュースソースは軍…… それも、複数のセクションから同時に入手したものだろう。 「……そう。嫌な休暇に……なっちゃったわね」  いずれにせよパイソンともあろう男が、出所の怪しい情報を流すはずがない。 「トロゥブレス号、ですか」 「知り合いが乗ってたのよ。それじゃ、慌ただしいけど、またどこかで縁があったら。黒 逸ハルキさん」  二人の短い別れの挨拶に、男……黒逸ハルキも軽く一礼。 「ええ。それではご機嫌よう」
 そして、二人が姿を消した後。 「よくもまあ、花なんか供える気になるもんだね」  唐突に響いた声に、空気の色が変わった。  鋭く、硬く。5月のうららかな日差しの差す空間とは思えないほどに冷たい気配が、広 い墓地を覆っていく。 「いや、資格があるね、と言い換えた方がいいかな?」  ミューア・ウィンチェスターを殺した張本人が……と続けようとして、声はそれをやめ た。自らの放つ冷たい気配をさらに覆い尽くす、極北の氷雪の如き殺気を感じて。 「トロゥブレス号の件、あなた方の仕業ですか? 研究所から僕を逃がしてくれたミス タ・ミューアを殺した時のように……」  殺気の主は墓前に立つ男、ハルキ。ぼんやりとした光を放つ……『能力』発動の証だ… …右手を固く握りしめ、呟く。右手に滲みだした血は、爪先が皮膚に突き刺さっているか らだろう。 「おっと。巫女なしって言っても、英霊剣付きの『剣聖』なんかとやり合うつもりはない よ。ボスに怒られちゃう」  そこまで言って、声の主が姿を現した。 「ボクもミューアさんに花を供えに来ただけなんだから。霊前だから、休戦協定ね」  まだ子供だ。小学校中学年か、行っても中学生より上には見えない。子犬を抱えた小柄 な姿は、先程の冷たい気配を出せるような人間にはとても見えなかった。 「魔狼『フェンリル』……という事は、貴方が欧州支部第3位の『ロキ』ですか……」  だが、ハルキは知っていた。目の前の男の子と子犬が、彼等の仮の姿であるという事に。 本来の彼等は、愛くるしい笑顔と凶悪な異能力、そして全長5mを越える怪狼……子犬の 真の姿……を自在に操って破壊と混乱を撒き散らす、破壊の申し子なのだ。 「ちなみに、トロゥブレスも僕達はノータッチだから。ボク達なら、もっとスマートな方 法を取るもの。分かってるんでしょ、ほんとは」  ぽん、っと手品のように取り出した巨大な花束をひょいと墓前に置くと、ロキと呼ばれ た子供はハルキの方を振り向いて無邪気な笑みを浮かべた。 「なんだ、シグマも来てたのか。出会わなかったの?」  その笑顔からは、10年前、組織の米国研究所に捕らわれたハルキを逃がしてくれた ミューア・ウィンチェスターを殺害し、4年前にはその米国研究所を自ら壊滅させたなど とは……とても思えない。ハルキとて、もし自分が何も知らないままでそう言われたとし たら、言った方の精神状態を疑うはずだ。 「ま、会ったらどっちかが死ぬまで決着つかないもんねぇ。それとも、もう……跡形も残 らないくらいにしちゃったの?」  そんな事をさらりと言って、くすりと笑う。ロキの精神状態を疑う発言だが、この状態 が彼にとっては日常と化しているため、仮に精神鑑定したとしても……『正常』と判別さ れるに違いない。 「どっちにしても、今回の『守護神』絡みの件はボク達は手ぇ引いてるから。WPの雇わ れルーキー君が何かこそこそ嗅ぎ回ってるみたいだけど……そっちに手を出すつもりもな いし」  手を出すつもりがないといえば聞こえは良いが、本当のところは厄介事を他人に押し付 けているだけなのだろう……そんな臭いをハルキは感じたが、面倒なので口には出さない。 その代わりに、軽い皮肉をぶつけてやる。 「雅人君の方にも、『破壊神』がいるからでしょう?」  ウィアナから聞いた話では、御角雅人は今、ヴァイス・ルイナーという男と共に行動し ているはずだ。ヴァイスは3年前、『守護神』クラスの存在を単身で圧倒した事でハルキ に続く第4のU・『破壊神』として認定されたという。そんな男と一緒であれば、少々の 事をしても問題はないだろう。 「ばれてるか……まあ、いいけどさ」  ぽつりと呟き。 「それじゃ、また機会があれば。ボクは会いたくないけどさ」  ロキは、くるりと回って姿を消した。 「確か、トロゥブレスの件は巌守さんが関わっていたはず……。ホテルに帰ったら電話し てみましょうか」 [5/9 PM 23:30 合衆国某所 ホテルのロビー] 「はい、黒逸探偵事務所」 「カナンですか。何事もありませんか?」 「ん、だいじょぶ。けど、どしたの? ハルキが電話なんて……珍しい」 「穿九郎さんの地下の電話番号を聞こうと思いまして」 「手帳の後ろのページに走り書きっぽく写しといたよ? ない?」 「……ああ、ありました。隠しページじゃなかったんですね」 「逆に怪しまれないでしょ、それなら」 「じゃ、もう切りますよ」 「……ハルキ、なんか機嫌悪いね」 「ええ。ちょっと、組織の幹部クラスとぶつかったもので」 「怪我は? 大丈夫? やっぱ、あたしも行った方が良かった?」 「ぶつかったと言っても、話をしただけですから……カナンに無理をさせるまでもありま せんよ」 「……そっか。なら、良かった」 「それじゃ、切りますね。来週には戻りますので」 「うん。待ってるね」 「あ、そうそう。ネインとエイムに『玖式』の改修を急ぐように伝えておいてください。 入り用なら、僕の口座から資金を引き落として貰っても構いませんから」 「? 急ぎ?」 「ええ。多分、これから必要になるでしょうから……」 「ん、分かった。晩ご飯持ってく時にでも伝えとく。それじゃね」 「ええ。お願いします」  がちゃん。  こうして、ほんの数分の電話は切れた。
続劇



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