4. ヒューロが家に帰ってきたのは、夕暮れの少し前の事だった。 いつもの鞭を腰に仕舞うと、背負っていた大きなザックを家の前に下ろす。中に入っているのは、縄ばしごだ。 手早く組み立てて家の前に垂らせば、がっしりした体格の男が登ってきた。頭の両脇に短い角があるあたり、牛族の聖痕を持つ男らしい。 「ただいまー」 牛族の男を連れて家の戸を開けると。 「……って、誰もいないじゃねえか」 中にいるはずのナンナは、どこにも見当たらない。 少女がどうしても地面に降りられないとごねるから、こうして道具屋の男を呼んできたというのに。 「おかしいな……ちゃんと降りられたのかな、あいつ」 ヒューロの家から橋下街の地面までは、五メートルほどある。海面も見えるし慣れるまでは勇気のいる高さだが、本気を出せば降りられないほどではない。 ヒューロの家をあれだけ嫌がっていたナンナなら、飛び降りてどこかに行ってしまった事も十分考えられる。 「いいよ。ハシゴは置いて帰るから、用が済んだら返しに来てくれや」 困った様子のヒューロに、道具屋の男も苦笑するしかない。用が済んだハシゴを回収して帰ろうと思ったのだが、無駄足になったようだ。 「悪いな、バーリン」 「一度ヒューロの彼女って奴に挨拶して帰りたかったが、ま、仕方ねえ」 「殴るぞ、テメェ」 「ははは。またな」 怒気を容赦なく撒き散らすヒューロにひらひらと手を振り、道具屋のバーリンは登ってきた縄ばしごを悠々と降りて去っていく。 「……やれやれ」 一人残されたヒューロは黙々と縄ばしごを引き上げると部屋に戻り、ザックに入れていた包みを取り出してため息を一つ。 「無駄に、なっちまったかな」 テーブルの上に開けたその包みは、焼いた魚と焼きたてのパン。魚はともかく、パンは少年には必要のないものだ。 パンはバーリンの土産にすれば良かったな、と思いつつ、部屋を見渡せば。 「……って、またかよ。オイ」 銀色のプレートが落ちているのに気付き、ヒューロはもう一度ため息を吐くのだった。 目を覚ました少女の目の前にあるのは、短く刈られた栗色の毛並みだった。 「んぁ……?」 触れてみれば、思ったよりもはるかに柔らかい。まるで小動物の背中を撫でたような感触だ。 「ン……ちゃん……」 その毛並みが、少女の胸元でゆっくりと身じろぎした。 人間の声と共に。 「な……っ」 それが、少女の胸元に顔を埋めたヒューロの髪だと気付くまでに、たっぷり十数えるほどの時間が必要だった。 「ば……ば……ば……」 気が付けばヒューロのボロ屋のベッドの中。家主である少年に抱きかかえられるようにして、ナンナもベッドに横になっている。 「ばばばばばば」 今度は剣を取り出せるほどの心の余裕はない。 「ばかぁぁぁっ!」 全力を籠めた拳で少年をはり倒すのが、精一杯だった。 少年は、憮然とした表情で、ベッドの上の少女に口を開いた。 「……何なんだよ、おまえ。いや、マジで」 ヒューロの右頬は掌の形がついたまま真っ赤に腫れ上がっている。 憮然とするのも無理はない。目が覚めた瞬間には、もう右頬に一撃を受けた後だったのだから。身に覚えがあるならまだしも、ヒューロには少女に触れた記憶すらない。 「それはあたしの台詞でしょうがっ!」 だが、その少年の嘆息を少女は一言で切り返す。 「いなくなったと思ったら、いきなりはり倒すし。頭、大丈夫か?」 「あたしだってこんなトコ早く出ていきたいわよ! でも……」 そこで、少女は言い淀む。 「ハシゴなら借りてきてやったぞ?」 「どこに行けって言うのよ……」 ナンナにはヒューロの家で目覚めてからの記憶しかない。眠っていた場所から連れ出されてからの記憶は、ほんのわずかしか蘇っていないのだ。 「そりゃ、アレだろ。お前を連れてた、黒いマントの連中とか?」 彼らなら、ギルに話せば連絡が付くだろう。今は街の外に出ているギルだが、数日中には戻ってくるはずだ。 「何それ?」 「……はぁ? 覚えてないのか」 呆れたようなヒューロの言葉に、ナンナは首を縦に。 「……そっか。多分、そいつらがあたしをスクメギから連れ出したのね」 「スクメギ? お前、ココから来たのか?」 ココ王国はここセルジーラの隣国だ。スクメギといえばそのココの南部、セルジーラからは結構な距離がある。 「ココ? は良く分からないけど、あたしはスクメギにいたのよ」 「……へぇ」 スクメギに住んでいてココが分からないと言うのも変な話だが、変と言えばナンナの行動には不可解な点が山ほどある。今更そこだけを指摘する気にはなれない。 「でも、用があるなら封印は解くはずよね……それを解かずにいて……風の眷属がいるなんて……そっか。そういう事、か」 何か思う所があるのか、一人でぶつぶつ呟いているナンナだったが、考えがまとまったらしく少年の方を向き直って口を開いた。 「とりあえず、しばらくヒューロの所に置いてもらうわね。いいでしょ?」 「どこをどうやったらそんな結論が……」 少女の思考は少年の理解を超えている。 「だってあたし、行くとこないんだもん。それに、黒マントの連中って、多分あたしを悪い事に使おうとしてる連中だと思う」 「……はぁ?」 どう見ても、ナンナはただのラッセの娘にしか見えない。あるとすれば、ナンナは資産家の娘か何かで、黒マントの連中は誘拐犯……といったところか。だがそれなら、城の衛兵にでも助けを求めた方がいい気がする。 「細かい所は良く覚えてないけど、金髪の女の子と、黒髪の男の子と、犬みたいな顔した人の三人組だった……気がする」 しかし、それだけの特徴では衛兵に保護も求められそうになかった。金髪の青年が三人の中に入っていないあたり、ギルの関係者とは違うようだが……。 「……俺にあんまり関わってると、怪我するぞ」 それだけ言って、ヒューロは話を切り上げた。吊してあった冬用のコートを毛布代わりに、部屋の隅にうずくまる。 とにかく今は眠いのだ。ナンナの意味不明な会話に付き合って二日続けての徹夜を食らう事だけは、なんとしても避けなければならない。 「……何それ。あたしだって、アンタみたいな奴に関わりたくないわよ」 すぐに寝息を立て始めた少年に小さく舌を出し、ナンナもベッドに横になる。 せっかく譲ってくれたベッドなのだ。ここはありがたく使うべきだろう。 「……封印を解いてもらった事は感謝してるけどね。おやすみ!」 |