2. 瞳を開けた少女は、ゆっくりとその場に身を起こした。数度頭を振り、ぼやけている意識をはっきりと呼び戻す。 「……」 見回せば、吹けば飛ぶような掘っ建て小屋の中だ。恐らく物置にでも使っているのだろう。 「……何、このきったない部屋」 腹立たしそうに言葉を放ちかけ、そこで台詞を止める。 わずかに思考。 んー。とうなった後、もう少しだけ思考を深くしてみる。 うーん。 「でも私、どうしてこんな場所に?」 どれだけ考えてみても、ここに至るまでの記憶は浮かんでこなかった。 少女に残された最後の記憶は、重厚な大理石の広間と、姉と慕った少女の顔だ。広間にはしっかりと封印が施してあったはずだし、こんな物置で目を覚ますはずはないのだが。 「ま、いいわ」 暗がりの中、掛けられていた小汚い布きれを払い落とし、細い手を握りしめる。 (力は……何とか、くらいか) 完全ではない。良くて二割といったところか。だが、最低限この場を切り抜ける事くらいは出来そうだ。 精神を集中。体の内に渦巻く力を、イメージで創り上げた枠の中へと叩き込む。 「ん……ッ」 漏れ出た短い声と共に、少女の目の前の空間がわずかに揺らいだ。 すいと手を伸ばせば、その先にあるのは淡く輝く鋼の柄。それを握って引き抜けば、柄は鋼の刃と換わる。 手の中に在るは、細身の長剣。 武器は出来た。 後は、逃げるだけだ。 「貴方!」 目を覚ましたヒューロがその状況を理解するまで、多少の時間が必要だった。 先程倒れたはずの少女が目の前に立ち塞がっていて、長剣まで突きつけているのだ。 「貴方は何者? どうして私が、こんな場所に連れてこられてるわけ?」 おまけに、少年が一番聞きたい質問を真っ向から叩き付けて。 「……ンな事、俺が聞きたいよ」 だから少年は、正直な感想を口にした。 そうするしか、なかった。 「……はぁ? 人の事さらっといて、ふざけんじゃないわよ!」 しかし、返ってきたのはさらに意味不明な一言。 「さらってねえし、ふざけてもねえよ。ただ、ナンナの落とし物を拾ってやっただけだ」 精緻な彫刻が施された銀色のプレート。 少女の元に戻ったのか、ヒューロが置いていた位置からは無くなっていたが……とにかく少年は、少女が落としたその板を拾っただけ。 「なら一緒の事じゃないのよ! それにあたしの名前まで知ってるなんて、やっぱりクロじゃない!」 拾った事でお礼を言われるならまだしも、剣を突きつけられた上、意味不明な内容で責められる謂われはないはずだ。 それに、ナンナという名前は彼女自身が名乗ったはずなのに……。 「……ワケわかんね。それに、人に刃物突きつけてんじゃねえよ!」 「だって、そうしないと貴方、私の事また捕まえるでしょ!」 少女は相当怒っているらしく、長剣の穂先は小刻みに震えている。逃げられないこの体勢では、いつグサリとくるか分からない。 「しねえって。つーか、さっさと出てって欲しいのに、引き止めるわけねえだろ」 仕方なく、少年は長剣に手を伸ばした。 穂先をわずかに横に寄せると同時、仕切りの無くなった窓からばたばたと風が入り込む。 夜風にしては妙に鋭く、強い風だ。 「……あら。貴方」 その奇妙な風に、少女はふと口調を緩めた。 「……ンだよ。放り出されたいか?」 既に奇妙な風はない。剣を提げたまま何か考えているらしい少女に、ヒューロは苛立たしげな声を掛ける。 もともとヒューロは人付合いの得意な方ではないのだ。仕事がら愛想が良いように見えるが、プライベートでは誰かとつるむ事などほとんど無い。 「そんな事しなくても出ていくから、安心なさい。それじゃ、またどこかで逢いましょう。風の眷属さん」 ゆらゆらと手を振り、銀髪の娘はヒューロの家を後にした。 「……何だそりゃ」 意味不明な言葉を残して。 そして、三十秒くらいで帰ってきた。 「ここ、階段もカタパルトも転移台もないじゃないのよ! どうやって移動しろって言うの!」 そう。 ヒューロの家はビッグブリッジの横材に建てられた家だから、階段がない。ヒューロの家に用がある者は橋下街育ちの者ばかりだったから、今まで梯子や階段が必要な場面もなかったのだ。 だが。 「じゃあお前、どうやって入ってきたんだ?」 勝手にヒューロの家に入ってきた以上、少女も何らかの移動手段を持っているはず。 「どうもこうもないわよ! アンタが連れ込んだんじゃない!」 少女はヒューロにとって意味不明な言いがかりと共に、例の長剣をどこからともなく取り出した。 「……はぁ? 人を人さらいみたいに言うんじゃねえよ!」 そして振り出しに戻った会話は、延々と夜が明けるまで続くのだった。 「ヒューロ」 眠い目をこすりながら。ナンナは小さなテーブルに広げられた料理を見るなり、呟いた。 「んー」 生あくびをしながら、ヒューロも返事だけ投げ返す。 「貴方、野菜も食べた方がいいわよ」 テーブルの上に並べられているのは、海鳥の串焼きだ。ササミを軽く塩焼きにしてあるだけだから、それほど重いメニューではないのだが……朝食のメニューはそれだけで、パンもサラダもミルクさえもない。 「フェレットにンな無茶言うなよ。失礼な奴だな」 何となく不満そうなナンナを、ヒューロは一言で切り捨てる。 「……何が失礼なのか良く分からないけど、そんな事じゃ、大きくならないわよ?」 「出てくか? あぁ?」 「出て行けないから、こうしてるんじゃない」 それからは、無言。 ヒューロは黙々と串焼きを口にし、ナンナも不平を言うのが無駄だと悟ったのか、黙ったまま串焼きを片付け始める。 「じゃ、夕方にはハシゴ借りてきてやるから、大人しくしてるんだぞ」 小柄なヒューロでは、ナンナを支えて降りられない。少女一人で鞭を使って橋の下に降りるのも無理そうだったため、結局そういう事になったのだ。 「ええ」 もともとあまり力は残っていないし。 食事を終えて出掛けていった少年にそう答えるより早く。 少女の姿はその場からかき消えて。 金属の板が木の床に落ちる乾いた音が、からりと響いた。 |