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18.遅く起きられなかった朝に

「92年……か」
 どこからともなく現われたテーブルの上に置かれたのは、穏やかな湯気の立ち上るティーカップ。
 その中で揺れるのは、薄紅のローズティだ。
「どうかしたのかね? ギース君」
 こちらも優雅にカップを傾けつつ、穏やかに問い返すのは仮面の老紳士。
 周囲に咲き誇るのは見事な薔薇の華。見る者が見れば、メガラニウスにその薔薇ありと謳われたローゼリオン家の薔薇だと分かるだろう。
「いえ。キースリンを本家にお披露目に行ったのも、あの頃だったと思いましてね。まだ暑い盛りでした……」
「娘さんは夏生まれと聞いたが?」
 そのうえギースの娘が生まれたのは、老紳士の孫と同じ92年だ。計算が合わないとまでは言わないが、本当に生まれて間もなく……という事になる。
「大変でしたよ。首も座っていない赤ん坊を馬車の旅ですから。王都のホリック職人に、緩衝と姿勢保持の魔法を封じたベッドとベビードレスを作ってもらいまして……」
「ふむ。分家というのも大変だね」
 没落したとは言え、老紳士は一族の長を務める……いわば本家の人間だ。今でこそ家族だけの気楽な身だが、栄華を誇ったかつての先祖の中には、ギースと同じような苦労をした者も多くいたに違いない。
 そんな苦労を背負い込む郎党を持つ事がないのは良い事だと、老紳士は自慢の薔薇茶を傾けながらぼんやりとそう思う。
「その時だったかな。草薙がキースリンを認めたのも……」

 丁寧に蝋の塗り込まれた障子は、わずかな力で押されただけでも程良く滑り、一切の音を立てる事はない。
 生まれた隙間から差し込むのは、障子の薄紙を隔ててではない、外そのままの朝の光。
「うぅ………」
 その光の直撃を受けて小さな呻きを上げるのは、部屋の隅で眠っていた少年だ。
 だが、朝の光が当たったのはほんのわずかな間だけ。すぐに影が光を遮り、少年の元には先ほどまでと同じ柔らかな光が落ちるだけ。
「祐希さん……」
 少年の意識が本気で覚醒したのは、その声が耳に届いてから。
「や……ちょっと、キースリンさん!?」
 祐希が寝ているのは、当然ながら男子部屋。そしてキースリンは男子禁制の女子部屋で眠っていたはず。
 もちろん、男子部屋でキースリンの声が聞こえるはずがない。
 いや、聞こえてはならないのだ!
「むにゃ……お着替え………」
 慌てて起き上がってみれば、障子の前ですとんと腰を下ろしているのは蕩けた目をしたキースリン。祐希の経験からすれば寝惚けてここまでやってきたのは容易に想像が付くし、実家であれば布団を掛けてやれば済む問題なのだが……。
「わ、分かりましたから! とりあえず外へ……っ!」
 ここでそれをするのは、明らかに自殺行為。
 とりあえず女子部屋へ送ろうと、頭をゆらゆらとふらつかせているパートナーを抱え起こそうとして……。
「な、何やっとるんじゃお前らっ!」
 背後から聞こえてきた叫び声に、祐希の努力は水泡へと帰するのだった。


 華が丘の朝は早い。
 殊に武の道を歩む者達は、日が昇らぬうちから起き出して、眠った身体を目覚めさせる為にも厳しい鍛錬を執り行う。
 それは十六年の時を遡っても、不変の習慣として少女のリズムを作り出す。
「なるほどな。冬菜はウチの流派の流れを……」
「子供の頃にこちらに少し住んでいて……その時に、少しだけ」
 道場から母屋へ続く廊下を歩きつつ、道着をまとう女性の問いにそんな答えをしてみせる。
 冬奈ではなく、フユナ。
 無論、偽名である。
 ファファはともかく、既に冬奈は四月朔日家の一員として生を受けた後だ。わざわざ調べて会いに来たならともかく、冬奈といういささか珍しい名前の少女達が偶然出会うのは、少しばかり出来すぎている。
「ちゃんと覚えてたのは驚きましたけど」
 もちろん、それも嘘だった。
 相手は流派の師範である。骨の髄まで四月朔日の流派を叩き込まれた冬奈のそれが、うろ覚えではないと見抜かれるのは承知の上だ。
 だが、ただの旅人がそんな嘘をつく必要がないのもまた事実。
 せいぜい、弛まぬ研鑽を重ねたことを悟られたくないのだろうと考えるか、当時に余程厳しく仕込まれたと考えるかのどちらかだろう。
「…………そうか」
 そして冬奈の目論見通り、母は彼女の言葉をさらりと受け流すだけ。
「冬菜ちゃん。朝練、お疲れさま!」
 そんな息詰まるやり取りをしながら母屋に戻ってくれば、冬奈達を迎えてくれたのは、門下生達に混じって料理の支度をしていたファファだった。
「おや、ファファまで手伝わせてしまっているのか?」
「わたしが手伝いたいって言っただけなので……気にしないでください」
 元気よくそう答えるファファの手つきは、ここに来てたった数日とは思えないほどに、明らかに慣れたもの。
 辺りの門下生は、愛らしい女の子が手伝ってくれる事に舞い上がって気付いていないようだが……冬奈はいつ十六年前の母からその事を言われるか、気が気ではない。


 鳴る時計もないままにゆるゆると起き出し、のんびりと昼食ともつかない朝食を準備して。
 そうして過ごすはずだった日曜の気怠い朝は、ある一人の少年の叫びによってぶちこわされていた。
「…………スーパーヒーロータイム、やってません」
 唯一その早起きで得をしたはずの真紀乃も、テレビのチャンネルを変えながらぼやくだけ。
「…………戦隊ものなら、金曜の五時半よ?」
「なんですとー!?」
 真紀乃の物心付いたときには、既に日曜朝七時半が定番になっていた。そういえば古いシリーズは幾度かの時間変更を経てきたのだと、今更ながらに思い出す。
「おーい。子門も聞けー」
 朝の会の司会に呼ばれ、真紀乃もよく分からない討論番組をやっているテレビを消し、テーブルへと向き直る。
「というわけで今日の昼の買い物当番は、よりにもよってはいり先生の家で不純異性交遊を働こうとしやがった祐希とハルモニアということで意義はありませんか?」
 良宇の叫びの原因………即ち、今朝の騒ぎの張本人である。
「異議無し」
「異議無し」
「異議無し」
 議題は満場一致で可決。
 無論、被告席に立たされた二人の意見は一切考慮されないままだ。
「それではもうひと組の買い物当番を決めたいと思います。昨日買い物に行った連中は免除として……降松に遊びに行った奴らでジャンケンしやがれ!」
 生き残るのは八人中、六人。
 脱落する二人を決める激しい戦いが、朝食前のテーブルで始まった。


続劇

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