24.金色の女王虫
「今ごろ、リリ達はテストかぁ……大丈夫かなぁ」
居間のソファーに寝転がっただらしない格好のまま、男が呟くのは愛娘のこと。
「トビムシなんでしょ? あの子、虫とか平気だから大丈夫よ」
答えるのは、男の妻だ。薬箱から取り出した軟膏を夫の背中に塗り広げながら、夫の親バカぶりに苦笑する。
「はい。終わったわよ」
仕上げに包帯を軽く巻いて、施療は終了だ。
治療系の魔法は肉体的な外傷や病に対しては効果を示すが、純粋な疲労に対してはほとんど意味をなさない。
他者の疲労を癒すには、別の誰かの体力をそのまま移すか、魔法的に調合された薬草に頼る事になる。
「ありがとな、ルリ」
カラーシャツを着込み、ネクタイを締めて、滋養強壮のドリンク剤を一気飲み。
立ち上がり、背を伸ばしたその姿は、朝まで筋肉痛でろくに動けなかった男とはとても思えない。
「ったく。こんなになるまで相手することないでしょうに……」
少しだけ曲がっていたネクタイを直してやりながら、妻は昨日の惨状を思い出して苦笑い。
「月瀬さんとルーナの子供って言っても、気になるじゃねえか。リリを泣かせないって、約束はしてくれたが……な」
「そんなの、陸さんが言える義理じゃないでしょ。いつ陸さんがわたしに手を出したか、忘れたなんて言わせないわよ?」
冗談めかして口を尖らせるルリだが、その事自体を悔いたことは一度もない。陸は彼女をしっかりと守ってくれたし、リリも良い子に育ってくれた。
だが……。
「……俺だから言うんだよ」
ルリの想いを解したのだろう。陸は短く呟いて、細いルリの身をそっと抱き寄せた。
「リリとセイルに、これから何にもなきゃいいんだけどな……」
彼らの願いは、それだけだ。
だが。
まだ若い夫妻の儚い願いは、無惨に打ち砕かれる事となる。
その浮遊感の訳を、彼女は理解できなかった。
「え………?」
ふわりと全身を包む感覚。
キースリンの八咫烏に乗ったときではない。
川の堤防を、元気いっぱいに飛び降りた時とも違う。
落ちる。
落下の感覚。
視界の全面に広がるのは、一面の曇り空と……。
その中央に浮かぶ、巨大な黄金の球。
「これで、満足か……お前ら」
無意識のうちに伸ばしたのは、指だ。
「オレは……嫌だね……」
拳を握り、親指を立て、人差し指を球体の方へ。
衝撃。
「何バカ言ってんだお前!」
そして、強い声。
「あれ? ……レムレム?」
敵だったはずの、パートナーの声だ。
浮遊感は既にない。
あるのはわずかに上昇する感覚と、細くも強い腕の感覚。
(なんだ……思ったより、がっしりしてるじゃないですか)
どうやら特訓の甲斐もあったらしい。心の中に浮かぶのは、今思う必要のない穏やかな想いだ。
「っていうか、ありゃ何だ! 祐希!」
まだ落下の衝撃にぼんやりとしたままの真紀乃を腕一つで抱きとめたまま。レムはやはり八咫烏の上でキースリンに抱きとめられている祐希に声を投げつける。
「あれは……資料にあった、女王トビムシ……?」
トビムシはアリやハチに近い生態系を持つと、資料の中には書かれてあった。即ち、母にして主人たる女王を中心とした、完全社会である。
その中央に座する女王は、女王アリと同じように、手のひらほどの働きトビムシとは全く別種の生物だ。働き虫の集めた魔力と蜜を食らって成長し、巨大なものなら直径数メートルにもなると言われている。
言われているが……。
「けど何で! あんなの、メガ・ラニカにしかいないはずなのに……!」
メガ・ラニカと華が丘を繋ぐゲートをただの昆虫が単体で越えることなど、不可能に近い。
だが。
そのいないはずの存在は、確かに目の前に存在しているのだ。
「ちょっと、ルーニ先生! 今回のテストも、あんなのまで用意してたの!?」
も、である。
先日のテント生活では、最後にセイレーンが襲ってきた。それも生徒総出で倒すことになったのだが……同じ空飛ぶ相手で、今度はさらに防御も鉄壁。
タチが悪いどころの話ではない。
「こっちだって知るか! あんなバケモノ、メガ・ラニカでも見たことないぞ!」
悲鳴じみた声を上げるハークに、ルーニも悲鳴で返すだけ。
「ボクだってないよ……」
ルーニが聞いていたのは三十六匹のトビムシを捕まえる所まで。それ以前に、女王トビムシなど伝説上の存在で、実在する事すら信じていなかったのだ。
「ともかく、お前らは下がれ。あんなのはいりか葵でも連れてこないと、どうにもならん」
トビムシの外殻は、物理攻撃も魔法攻撃も通さない。ゴルフボール程度の大きさならともかく、あれだけの巨体で同じ防御力があるとすれば、まともに相手をする事など不可能だ。
「そうでも……ないみたいよ」
「あの馬鹿ども……!」
見れば、生徒達は迫り来る女王トビムシに果敢に戦いを挑んでいるではないか。
トビムシの体の構造は、ダンゴムシに近い。ダンゴムシの殻の部分は確かに丈夫だが、足のある内側の強度はそれほどでもない。
同じようにそこを狙えば、足止めくらいは出来ると……そう踏んだのだろう。
「っていうか、はいり先生達が来るまでの時間稼ぎくらいはしないとマズい雰囲気でしょ……。ハークくん」
呟く晶に、ハークはため息を一つ。
「ダメって言っても、連れて行かれるんでしょ?」
「分かってるじゃない」
言葉と共に携帯を取り出せば、軽いメロディと共にふわりと浮かぶ晶の体。
「無理矢理は嫌だから、行ってあげるよ!」
傍らのハークも、諦め顔で翼を拡げる。
「お前ら………くそっ!」
宙を掛ける二人の生徒を追い掛けて、ルーニもポケットから携帯を取り出すのだった。
トビムシの体の構造は、ダンゴムシに近い。
ということは、地面に降りればそのまま無数の足で地上を這い回ることが出来る、という事だ。
「ちょっと、ボクなんて食べても美味しくないよぅっ!」
その女王トビムシの追跡を飛行魔法で必死にかわしながら、リリは思わず悲鳴を上げた。
「リリちゃん! 上に逃げてっ!」
「はぁっ!? 何っ!?」
どれだけ混乱の度が深いかは、ハークの叫びを聞き取ることも出来ず、上空に逃げれば助かるという点に気付かないだけでも十分知れる。
「こういう時、何て言うかわかるよね! レムレム!」
直線に逃げるリリを横に見て、真紀乃は再び起動させたシュートフォームを構えさせる。
重装甲の相手を迎え撃つなら、本来は全機合体のテンガイオーが適任なのだが……先ほどまでのトビムシの捕獲で、そこまでの魔力は残っていない。
「……やるの?」
「当然!」
儀式は魔法に力を与える。
それが、どんな形式であってもだ。
「子門真紀乃……狙い撃つ!」
鋭い叫びに、ロックオン。
大型砲が、咆哮を放つ。
「レム・ソーア、目標を駆逐する!」
今度の相手に手加減は必要ない。
両手の刃が風と雷、二つの力を力任せに解き放ち、疾走する巨体に向けて叩きつける。
「ここは破砕するって言やぁいいのか!」
オマケとばかりにルーニの放った霜柱の結界が、爆走を止めない巨体の足元を根本から打ち崩す。
「って、効いてないぞ! バケモノか!」
だが、真紀乃の砲撃も、レムの雷光も、砕かれた足場さえも、黄金の甲殻と無数の脚の前には足止めほどの効果も持たない。
「……まあ、バケモノだしね」
「そんなこと言ってないで助けてよぅ!」
「リリさん!」
そんなリリに向けて飛んできたのは、聞き慣れた少年の声。
声の導くそのままに、リリが真っ直ぐ軌道を取れば……。
女王トビムシの正面に、セイルが戦槌を構えて立つ事になる。
「セイルくん!」
女王の駆動は止まらない。
正面にある小さな姿など、歯牙にも掛けはしない。
だが、セイルもまた、相手の存在など歯牙にも掛けてはいなかった。
考えるのは相手の強さでも、大きさでもなく。
どこに打ち込めば効果的かのただ一点。
「考えて……」
頭にあるのは、パートナーの父親から伝えられた、母親の戦い方だけ。
「殴るっ!」
回避の間合は、駆けめぐる血が教えてくれた。
そして、打撃の方法も。
「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
鈍い音と絶叫が響き渡り。
打撃の反動でくるくると宙を舞う、小さなセイルの体。
「セイルくん、ありがとっ!」
盛大にひるむ女王トビムシを眼下に置いて、セイルの体を空中で受け止めたのはホウキに乗ったリリの手だ。
「……約束、だから」
ぽつりと呟くセイルをホウキの前に乗せながら、リリはその言葉に首を傾げた。
「………内緒」
荒ぶる黄金の巨大ダンゴムシは、その爆走の度合いをさらに高めていた。
「効果があったのはいいけどよ………」
既に視界の内に、生徒達の姿は入ってもない。
それはそれで、安全確保という意味では良かったのだが……。
「ありゃ、なおのことヤバかねぇか?」
校庭を突っ切り、魔法科棟と本館を繋ぐ渡り廊下を粉砕してなお、大地を駆ける女王トビムシの暴走は止まらない。
「あ、ちょっ! やばっ!」
ルーニが気付いたときにはもう遅い。
「ああっ! 何かよく分からん像がっ!」
本館前のロータリーを無数の脚で根こそぎ耕して、突っ込んだのはその隅だ。
黄金の甲殻ごしに巨虫の全重量を叩きつけられ、そこにあった謎のモニュメントが木っ端みじんに砕け散る。
「………結局あれって、何の像だったんだ?」
「さあ……?」
だが、よく分からない銅像だったので、誰もがコメントに困っていた。せめて校長の像であったなら、「校長の像が!」と驚くことも出来たのだが……。
「って、そんな事より、このまま行くとヤベぇだろ!」
「……何が?」
「何がって、この先は……」
さすがの女王トビムシも、大きな像に頭から突っ込んで軽く目を回しているらしい。ゆるゆると方向を整えながら、目指す向きは……。
正門の、側。
「外の道に出ちまうだろ!」
正門を出れば、そこにあるのは公道だ。
そんなところに巨大怪獣が現れれば、大惨事は間違いない!
続劇
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