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 伸ばされたのは、差し出した手よりもはるかに小さな赤子の手。触れた指先の大きさを確かめるように、にぎにぎと握り返してくるそれは……力を込めているのかすらも分からないほど小さく、そして愛おしい。
「へぇ……晶ちゃんって言うんですか。ちっちゃぁい」
 少女が頬をつついてみれば、細い指先はマシュマロよりも柔らかく、その内にふにゃりと沈み込む。頬をつついてきた正体を確かめようと、小さな手は再び元気よくぶんぶんと。
「先週病院から出てきたばっかりだしね。冬奈ちゃんとは二日違いだっけ?」
 晶の母親の問いに、冬奈の母親は静かに頷いてみせる。当の冬奈は元気いっぱいの晶とは対照的に、母親の腕の中でくぅくぅと寝息を立てている。
「ルリ、あんまり赤ん坊をいじめるんじゃない。泣いちゃうぞ?」
 相変わらず晶の頬で遊んでいるルリに、傍らの少年は微妙に困り顔。特に赤ん坊が苦手なわけではないのだが、一人っ子の彼は赤ん坊と遊んだ経験があまりないため、加減というものが分からない。
「大丈夫だよぅ。ねー?」
「大丈夫よ。ねー」
 少年の無用な心配にくすくすと笑いながら、晶の母親は我が子の柔らかな頬に唇を軽く触れ合わせた。その感触がくすぐったかったのか、晶は泣き出すどころか両手を振り回して喜んでいる。
「そろそろ行きましょう。検診の時間に遅れちゃうわよ」
 片手で時計を見つつの冬奈の母親の言葉に、晶の母親も軽く頷いて。
「それじゃあ二人とも、またね」
 晶の小さな手をつまみあげ、バイバイと振らせてみせた。どうやらそれも楽しかったらしく、小さな晶は声まで上げて笑い出す。
「またねー!」
 角を曲がっていく二組の母子に、ルリはいつまでも手を振っているのだった。


 これが、物語の序章。
 瑠璃呉 陸と、ルリ・クレリックの物語。

 二人の物語は、ここで一旦筆を置くことになる。

 本編の始まりはこの十六年の後。
 2008年5月末。
 中間テスト最終日を迎えた、華が丘高校から始まる。


華が丘冒険活劇
リリック/レリック

#3 天国に一番近い学園


1.新しき朝


 少女が目を覚ましたのは、どこからともなく聞こえてくる、強い声のせい。
 カーテンの間から差し込む光の様子をぼんやり眺めながら、小さなあくびをひとつして。ベッドの中で少しだけもぞもぞと。
 また、声。
 淀んだ眠気を吹き飛ばす、気合の入った強い声。
 その声に後押しされるように少女はゆっくりベッドを降り、窓際へ。
 買ってきたばかりの淡いカーテンを勢いよく開ければ。
 あふれ、流れ込んできた陽光の洪水に、残る眠気も吹き飛ばされた。
「いい……天気!」
 気合の入った無数の声が聞こえてくるのは、階下に見える道場から。この道場の住人や入門している寮生たちが、早朝練習をしているのである。
 その小気味よい声をBGMに、少女もパジャマを着替え、下ろしていた髪を手早く結い上げていく。文字通りあっという間に着替えを終えた少女は、机の上に置いてあったエプロンを取り、部屋を出る。


 階下へ降りて、渡り廊下を抜けて本宅へ。
 入ってすぐの所にあるのが、台所だ。
「おはようございます! 皐月さん!」
 純和風の台所に立つ姿に、少女はエプロンのリボンを結びながら元気よく声を掛ける。
「おはようございます。ファファ様」
 だが、純和風の台所に立つのは、割烹着どころかメイド服をまとった純正のメイドさん。初めての者にとっては違和感の激しい光景だが、この家ではこの一年ですっかり当たり前の光景となっていた。
「ファファでいいよぅ……」
 ちなみに日本人でないファファは、もともと日本の台所を見たのが初めてだった事もあって、どこもこんなものだろうと思っている。
「で、何から手伝えばいいかな?」
 今朝のメニューはご飯と味噌汁、春野菜のおひたし。メインとなるはずの大皿は、まだ空っぽだ。
「なら、こちらのお味噌汁の仕上げと、オムレツをお願いしていいですか? 私はお嬢様を起こして参りますので……」
 メイドの言葉にテーブルを見れば、タマゴのパックがずらりと並べられていた。大人数の食卓だから、一人に一つではなく、大皿に盛って好きなだけ取り分ける方式が基本となる。
「オムレツは、塩味でいい?」
「ファファ様のお好きな方で。砂糖派も塩派もいますから、決着つきませんし」
 塩でも砂糖でも、どうしても文句は出るのだ。両方作って好きな方を食べられるようしたこともあったが、足りない方からは結局文句が飛んできて、それ以来どちらか一つを適当に作るようになっている。
 そんな事より彼女にとって重要なのは、これから起こす自らの主のことだ。
「毎日大変だね」
 そう。メイドの格好をしているのは冗談でもなんでもなく、本当にメイドさんなのだ。彼女は。
「これが、任務ですから」
 そして皐月は宿舎に向かい。
 ファファは大量のタマゴのパックの群れをやっつけるべく、ブラウスの袖をまくりあげるのだった。


 大量のオムレツが焼き上がる頃には、道場からの気合の声は聞こえなくなっていた。
 その代わりに、がやがやという賑やかな話し声が近づいてくる。
 先頭で入ってきたのは、この道場の主。
「おはよう! 冬奈ちゃん!」
 それに続く長身の少女の姿に、ファファの表情がぱっと輝いた。
「おはよ、ファファ」
 冬奈もパートナーからの声に軽く手を挙げてみせる。稽古を終えたばかりの頬は、まだわずかに火照り、赤味を残したままだ。
「あ、ファファちゃん。おはようございますっ!」
「真紀乃ちゃんとレムくんもおはよう!」
 門下生に混じって入ってきたのは、道場の朝練に参加している同級生たち。彼女らは四月朔日の門下生ではないが、冬奈の友人という事で朝の練習に参加させてもらっている。
「真紀乃。あんた達も朝ご飯、食べてくでしょ?」
「そんな、悪くないか?」
 レムの言葉に、冬奈はファファにちらりと視線を送る。
「たくさん作ってあるから大丈夫だよー」
 もともと四月朔日の門下生は結構な数がいるのだ。料理も必要な分だけ取り分けるようになっているし、真紀乃たちが加わったところで大した影響はない。
「なら、お言葉に甘えていきませんか? レムレム」
 にこにこと笑っている真紀乃のひと言に、思わずレムは首を傾げた。
「レムレム……?」
「え? こっちのほうが呼びやすいかなぁと思って」
 真紀乃が周りの親しい友達に、適当な愛称を付けて呼んでいるのは知っていたが……。
 どう考えても元の名前より長くなっていた。
「いいじゃん、レムレム。食べていきなよ」
「みんなで食べた方が美味しいですよ、レムレムさん」
「レムレム言うな!」
 しかもあだ名にさん付けは、微妙に厳しかった。
「祐希はどうする? 朝ご飯、あるけど」
 そして冬奈が次に声を掛けたのは、門下生達の後から入ってきたA組の委員長。中学の頃から柔道を学んでいた繋がりで、最近は彼も道場の朝練に加わるようになっている。
「すいません、僕は家に戻らないと」
 だが祐希は、その誘いを丁寧に断った。
「なんだよ。付き合い悪いな」
「朝ご飯の支度がまだなので……」
 森永家の家族の中で、朝食をまともに作れるのはおそらく祐希一人だけ。ついでに言えば、起こす段階から手が掛かるのが約一名、いる。
「レムレム。ちょっとは空気、読みなさいよ」
 渋い顔の冬奈に言われ、レムもようやく気が付いた。
「……ああ、悪い」
 祐希のパートナーは一年でも屈指のお嬢様。そんな彼女と同じ屋根の下、少しでも長く一緒に過ごしたいというのは……男としてはまあ、分からない話ではない。
「何を期待してるのかだいたい想像付きますけど……あんまりみんなが考えてるような事はないと思いますよ? レムレム」
 その手の噂や軽いやっかみじみた話は、祐希もあちこちで耳にしている。確かに彼のパートナーは正真正銘名家の出身だし、容姿も物腰もお嬢様の範疇に入るものだろう。
 しかし、それはありえないのだ。
 祐希が普通の健全な男子ではない、という意味ではない。
 祐希が普通の健全な男子であるがこそ、故に。
「だから、レムレム言うな!」
 レムの反論を軽く流して、祐希は家へと帰っていった。
「なら、残ってる皆で朝ご飯の前に道場の掃除するよ! ファファ、あとの支度も頼むわね」


 家庭用の高圧洗浄機が唸りを上げ、スチールに覆われた外装の汚れを力任せに洗い流していく。
 その水しぶきの向こうに立つ小柄な影に気付き、男は作業の手を止めた。
「どした、セイル。洗車、手伝ってくれるのか?」
 言葉の意味が分からないのか、それとも単に無口なだけか。セイルは男に視線を向けたまま、小さく首を傾げるだけだ。
「今日は朝からお客さんが来るって連絡があったからな。今のウチに車を洗っときたいんだよ」
 アパートの管理人という仕事の都合上、客を乗せての移動も自然と多くなる。その商売道具を綺麗にしておくのも、大事な仕事の一つだった。
「で、何の用だ?」
 大事な商売道具に頬杖を突きながら、男はセイルに再び問いかける。
「……リリのちっちゃい頃の写真なら、ルリがいいって言っても見ちゃダメだかんな?」
 思考が自分の娘にしか行かない辺り、基本的に親バカ全開だった。
「陸さん、僕の母さんのこと……」
 だが、そのひと言で理解する。
 こんな朝早くから、セイルが陸と話しに来た意味を。
「ルーナの事か」
 紡がれたその名に、セイルは首を小さく縦に。
 セイルの母親は、どうやら陸やルリとは同級生だったらしいのだ。さらに言えば、ルーナと陸は、戦いの技を競う合う関係にあったとも。
「そっか。お前がこっちにいたの、物心つく前だもんなぁ……」
「……知ってるの?」
 そのセイルの両親は、既にこの世にいない。
 どうやら事故だったらしいと、育ててくれた祖母からは聞かされていた。
 セイルが知る両親の姿は、それだけだ。
 もちろんメガ・ラニカから華が丘高校に留学していた事は知っていたが、この華が丘でどんなことをして、どんなパートナーと暮らし、どうやって父と知り合ったのかは……今もメガ・ラニカに暮らす祖母も、決して教えてはくれなかった。
「そりゃ知ってるさ。お前がこんくらいの時に、何度か会ってるんだぜ?」
 泡だらけのスポンジを軽く握りながら、陸はへらりと笑ってみせる。
 だが、セイルは黙って首を傾げるだけ。
「……こういう時は、なるべく突っ込んでくれよ?」
 陸の言葉に、首を縦に。
 どうせ分かってないんだろうなぁと思いつつ、陸はため息を一つ。
「まあいいや。けど、これ以上教えて欲しけりゃ……」
「けりゃ……?」
「そうだな。お前の実力、見せてもらおうか」
「実力……?」
 言われ、セイルからの言葉はそこで止まってしまう。
「車……洗う?」
 たっぷり十を数えた後に呟いたのは、そんなひと言だ。置いてあったバケツからスポンジを拾い、陸をじっと見上げている。
「まあ手伝ってくれるのはありがたいけど、そうじゃなくってだな。……ルーナの子供なら、持ってるよな。これ」
 陸は襟元に指を入れると、そこに入っていたものをそっと引き出した。
 細いチェーンに下がるのは、剣を模したペンダントトップ。今ではめっきり見なくなった、魔法携帯と組み合わされる以前のレリックの姿だ。
 それでようやく理解できたのか、セイルもポケットから携帯を取りだした。ストレートのそれをひと振りすれば、ストラップが淡く輝き、次の瞬間には携帯をグリップの内へと取り込んだ巨大なハンマーへと姿を変えている。
「そうか。鋼の輪槌は、今はそうなってんのか……」
「……行く?」
 腰を落とし、呟くセイルは突撃の構え。
「って、今からは勘弁してくれ。朝飯の前にこれ、終わらせときたいんだよ」
 苦笑する陸にそう言われ、身よりも大きなハンマーは、もとの小さなストラップへと一瞬で姿を変えた。
 携帯も、無造作にもとのポケットへ。
「学校が終わったら、こっちの用事も終わってるだろうから……お? 手伝ってくれるのか?」
 ハンマーをスポンジに持ち替えたセイルに、陸も思わず表情を変える。
「流石リリの選んだ相棒だな。気が利くじゃないか」
 しかし基本は親バカだった。
「よし。なら、まずその辺をこう、こんなかんじでな……」
 陸の高圧洗浄機も再びうなりをあげ、洗車作業は再開されるかと思えたが……。
「セイルくーん! パパー! ご飯だよー!」
 飛んでくるのは、愛しい愛しい愛娘の声。
 結局洗車は、朝食の前には終わらなかった。


 食事を終えて髪を梳き、服を着替えれば、出発の準備は完了だ。
「あふ………」
 けれど眠気はまだ抜けきっていないらしい。普段は毅然とした姿勢を崩さない黒髪の少女も、この時間だけはまだほんの少しだけだらしなく。
「キースリンさん、タイが曲がってますよ」
 そして、祐希の声にわずかに顔を上げれば、襟元に少年の細い手が伸びてくる。
 無防備な胸元をさらしたまま、少女はパートナーの手に全てを委ね……。
「出来ましたよ」
「あ、ありがとうございます」
 穏やかな微笑みで礼を返せば、少年も優しく頷いてくれる。
「ほら。母さんも、早くしないと遅れるよ」
 そんな祐希が次に向けたのは、玄関でローヒールを履こうとしている女性。
 母と呼ばれてはいるが、細身のスーツを着こなしたその姿は、祐希の姉と言っても余裕で通じるだろう。
「はいはい。あ、祐希ー」
「何……」
 言いかけた祐希の言葉は、そこで止まった。
 止められた。
「母さん、“今夜はグラタンが食べたいなぁ……”」
 首元に絡みつく細い両手と。
 重ね合わされた、唇によって。
「もぅ……やめてよ、母さん」
 淡いルージュだけだったのが幸いした。そうでなければ、祐希の唇は今ごろ大変なことになっていただろう。
「なによぅ。親子のスキンシップなんだから、いいじゃなーい。ね、キッスちゃん」
「はい、ひかりさん。……んっ」
 軽く拗ねてみせるひかりは、今度はキースリンを抱き寄せて、やはり唇を触れあわせた。ただしこちらは流石に正面ではなく、頬だったけれど。
「ほら。キッスちゃんはさせてくれるじゃない。もうウチの子になっちゃおうよ?」
「……バカなこと言ってないで、早くしないと電車の時間になっちゃうよ? 夕飯はグラタンにするから」
 携帯の時計を見ながら、ため息を一つ。
 華が丘の在来線はラッシュの時間帯でも三十分に一本だから、これを逃せば遅刻は確定だ。
「おっといけない。それじゃ二人とも、テスト最終日、頑張ってね!」
 ローヒールで慌てて走り出す母親に、もう一度ため息を吐いて。
 祐希もキースリンと共に、学校へと向かうのだった。
 自身がしっかりし過ぎたが故に母親がだらしなくなってしまったという恐るべき真実に、気付くこともなく。


続劇

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