7.四忙・遊戯
閉じた瞳に入ってくるのは、穏やかな朝の光。
「ん………」
ちらちらと掛かる影は、何だろうか。テントの中に、カーテンはないはずなのに。
「冬奈ちゃん……冬奈ちゃん……っ」
耳を打つのは小さな声。自分の名前を呼ぶ声に、沈んでいた意識をゆっくりと引き上げていく。
「ああ、ファファ……おはよ」
胸元では、しがみついたままのファファが顔を真っ赤にしてこちらを見上げている。
枕元の携帯を取れば……既に六時半を回っていた。
真紀乃からのメールも入っていたが、こればかりは後で謝っておくしかないだろう。
「寝坊しちゃったか……」
昨日のプール掃除で疲れ切った後、お風呂で散々はしゃいだ所為だろう。その盛り上がりのまま、彼女にしては遅くまで起きていた気もする。
道場ならば怒られる場面だが……幸いなことに、今日は怒りに来る相手がいない。
心の中で手を合わせておいて、今日の早朝練習はお休みということに。
「あ、あの……」
そこで、胸元に顔を埋めたままのファファの事を思い出した。どうやら、冬奈がファファを抱いているせいで、逃げられないらしい。
「ご、ごめんなさいっ!」
「んー? どしたの?」
耳まで真っ赤にした様子を可愛いなどと思いつつ、胸元で必死に謝るファファに、冬奈は首を傾げてみせる。
「わ、わたし……寝てるとき、何か、近くのものに抱きつく癖があるみたいで……その……」
よく見れば、寝間着代わりに着ていたシャツの胸元は軽くはだけて、ファファは冬奈の素肌に顔を埋めている格好になっていた。
「あはは。いいって。気にしないで」
見上げれば、冬奈の顔。
そしてうつむけば、冬奈の胸。
どう動いても恥ずかしさが止まりそうにないファファの頭を、優しく何度か撫でてやる。
「あ……」
それで、少しは落ち着いたのだろう。ファファは冬奈の胸元に頬を埋めたまま、はにかんだように冬奈を見上げてくれた。
「もう、三日目だし」
「へ………?」
いつも冬奈が早起きだから、ファファが気付いていないだけ。
「ふぇぇ……っ!」
その事実に気付いたファファは、もう一度恥ずかしさで死にそうになるのだった。
華が丘高校の部活動は盛んだが、それほど熱心なわけではない。
運動部も文化部も、日夜厳しい練習を繰り広げる……というよりも、その空気を楽しもうとする傾向が強い。
だからこの日も早々に、運動場から全てのクラブが姿を消していた。
「………鬼ごっこ?」
その中央。
集まった魔法科一年全員にレイジが告げたレクリエーションの名を、レムは思わず繰り返す。
「おう! メガ・ラニカで言やぁ、『十字軍』だ。ルールはみんな、知ってるよな」
『十字軍』と呼ばれる数名のオニ役が、逃げ回る他の参加者を追いかけ回す遊びだ。おそらく地上から伝わった遊びに、『鬼』という幻獣が存在しないメガ・ラニカなりのアレンジが加わったのだろう。
「そりゃ、十字軍なら知ってるけど……」
華が丘の鬼ごっことルールの相違がないのも、既に祐希や悟司に確認済みだ。
「範囲は校庭と裏庭。最後に鬼だった奴らは、ふたクラス分の今日のゴミ捨て当番! どうだ!」
家庭科室のゴミを、一カ所に集めて処分する役である。重く、処理場までの距離も遠く、おそらく今のテント生活で一番面倒な役どころだろう。
オニにならなければ、その面倒ごとから解放されるという。
「不参加の奴は、無条件でゴミ捨てな。どうだ?」
ある意味いろいろなモノの掛かった鬼ごっこは、こうして幕を開けた。
「鬼ごっこか……呑気なものね。みんな、パートナー決めの合宿って忘れてるんじゃないの?」
その光景を職員室から眺めながら、葵はコーヒーをひと口。ブラックは胃に悪いと養護教諭から言われてはいるものの、クリームや砂糖を入れる気にはどうもなれない。
「ま、いいんじゃない? 期末試験の予行演習と思えば、そう悪いもんでもないわよ」
隣でココアをすすっているはいりの言葉に、葵の表情が微妙に曇る。
「予行演習って……今年もトビムシなの? ルーニ達、手抜いたわね」
普通科目のテストは、もちろんペーパーかレポートになる。
しかし、魔法科目のテストは実技が基本。特に一学期末のテストは、生徒にとって最初の試練となるだろう。
「らしいよ。ルーニは虫嫌いだから反対したみたいだけど、主任の指示だって。あれ楽だしねぇ」
話しながらも、視線は校庭に向けられたまま。
校庭の真ん中を走っているのは、ハンマーに乗っているセイルだった。それをホウキに乗って追い掛けるリリが、どうやら鬼の一人らしい。
「今年は全員、クリア出来ればいいわね」
セイルの加速は右肩上がりではなく、アクセルを離しては踏みの間欠的なもの。本当なら一気に引き離せるはずだが、女の子相手にどこまで本気を出せばいいのか、困惑しているのだろう。
「まったくだよ」
そんなセイルの油断を突いて、リリが一気に勝負を掛けた。
「あ、トライ成立」
「……ラグビーじゃないんだから」
容赦のない空中からのタックルに、セイルとリリはその場をゴロゴロと転がって……。
鬼の権利は、リリからセイルへと。
空の上を、黒い翼がゆっくりと羽ばたいている。
「なんだよ。セイルのやつ、なんか役得多くない……?」
校庭を見下ろせば、ちょうどセイルがリリに追い掛けられている所だった。
本人達はゴミ捨て係から逃れたい一心で本気なのだが、ハークから見ればきゃあきゃあ言いながら追いかけっこをしている光景にしか見えないわけで。
うらやましいことこの上ない。
「まあ、ああいう女の子がゆっくり見られるのはいい事だけどさ……」
けれど、ハークの楽しい時間は、次の瞬間あっさりと打ち砕かれた。
「………うぇっ!?」
ぐい、と伝わるのは、背負っていたバッグを勢いよく後ろへ引かれるような感覚。
思わずバランスを崩し、そのまま下へと落下する。
寸前で、停止。
「な、なんだよ……」
既に引かれる感覚はない。ばさりと鞄から伸びる翼をひと打ちして、ハークは体勢を立て直す。
「やー」
そこに立っていたのは、隣のクラスの少女だった。
「あ、晶ちゃん……」
「ねえねえ、ハーク君。追われてるんだけど」
「え……?」
振り向けば、巨大な姿は眼前だ。
維志堂良宇。
大きな体が大きな手を伸ばし、小さなハークを捕まえようとぐいとその身を寄せてくる。
「どええええっ! な、なんで僕を巻き込むんだよ!」
「ほらほら。早く飛んで飛んで!」
「うぅ……っ」
ぶつかるどころか、轢かれかねない。慌てて翼に力を込めて、晶の手を取ったまま急上昇。
巨大な手がすり抜けたのは、晶の爪先わずか下。
どうやら、セーフらしい。
「ぬおおっ! 飛ばれると、どうにもならんではないか!」
良宇は両手を振り回すが、そのくらいで飛べるはずもなく、もちろん上空のハーク達に手が届くわけもない。
「そりゃまあ、ねぇ……」
仕方なく、良宇は方向転換。新たな獲物を求めて、一直線に走り出す。
「やー。助かったよ、ありがと」
「いいけどさ……」
晶は飛行の魔法を使えた気がするが、女の子に頼られるのは悪い気分ではない。
まあ、いいことにする。
「あれ……?」
そんな中、校庭の動きを眺めていた晶が、ぽつりと言葉を漏らす。
「どしたの?」
「何か、集中狙いされてるみたい……」
オニ達の動きに、統率されている様子が見えた。
彼らが狙うのは無差別ではなく、ただ一人。
「レムくん……?」
伸ばされた手を必死でかわし、レムは額の汗を袖口でぬぐい去る。
「ちっ。みんな、どうしたってんだ!?」
魔法で瞬発力を上げた悟司の手をかわせたのは、正直運と言っていい。上空には召喚獣に乗ったレイジがいて、他にも数名の男子がレムを取り囲んでいる。
今回の鬼ごっこで、鬼が増えるルールはなかったはず。ならば本物の鬼は、この何人かの内の一人か二人のはずだが……。
「ってか、何で俺ばっかり狙ってくるんだよ!」
そして何が都合が悪いと言えば、誰がオニか分からないただ一点に尽きる。もちろん誰にも触られなければいいのだが、それをするには敵が多すぎた。
「レディを相手にするわけにはいかないだろう?」
鋭い踏み込みで間合を一気に詰めてくるウィルをかわし、全力でダッシュ。
「だからって何で俺だけ……! 新手のイジメか!」
双の刀を出せればこの場から一気に離脱できるのだろうが、あいにくその刀を呼ぶ隙すらも与えてはもらえなかった。
「違うね。強いて言えば……っ」
そんなウィルの手を受け止めたのは、重装甲に埋もれるようなフォルムの人型をした小型メカ。
祐希のワンセブンではない。今のワンセブンは校舎の雨樋にぶら下がり、周囲の状況を秘密工作員達にモニターしているはずだった。
それにそもそも、ワンセブンは防御結界など張れはしない。
それが出来るのは……。
「集中狙いなんて、卑怯ですっ!」
子門真紀乃の、テンガイオー。
先日のガルム戦と形が違う所を見るに、いくつか展開のパターンがあるのだろう。今回は防御重視の形態らしい。
そして結界に遮られ、触れてはいないということは、鬼の権利は真紀乃には移らないということだ。
「ソーアさん! 逃げてください!」
「すまん! 今度掃除当番でも代わる!」
稼いでくれた隙を無駄には出来ない。一瞬で双の刀を喚び出して、レムはそのまま低空を飛び、襲撃者の群れから距離を稼ぐ。
「え、ええっと……だな。子門さん」
残るのは、腕を組み、仁王立ちに立ちふさがる子門真紀乃、ただ一人。
「おい、子門に作戦のこと、話してないのかよ!」
「まさか、絡んでくるとは思わんだろう!」
もちろんレムを集中狙いしていたのは、いじめなどというくだらない理由ではない。
ちゃんと理由はあるのだが……。
「一人を大勢で攻撃するなんて、卑怯です! そんな事をする人たちは、あたしが相手ですよ!」
「いや、おま、かかってくるもなにも……」
高鬼、増え鬼、影踏み鬼。鬼ごっこには細かなルールの違いによって、無数のバリエーションが存在する。
「なら、こちらから行きますよ!」
けれど、『逃げる側もオニを狩って良い』などというルールの定められた鬼ごっこは、華が丘どころかメガ・ラニカにも存在しない。
「誰だよこんな奴に鬼ごっこやらせたの!」
掟破りのカウンター鬼ごっこは、こうして幕を開けた。
眼下に広がるのは、鬼が真紀乃に狩られていくという凄惨な光景。
「……何なんだろうね、あれ」
それを呆然と眺めながら、ハークと晶は空の上。
とりあえず空中にはレイジがいるくらいで、安全地帯のようだが……それもぼちぼち飽きてきた。
鬼ごっこは、鬼と同じフィールドにいてこそ鬼ごっこたり得るのだ。
「あ、そうだ。ハークくん」
そして、晶の携帯から鳴るアラーム音は、終了時間一分前を知らせる合図。
「なぁに?」
ハークと晶は空の上。
小柄なハークに抱きつくような姿勢で、晶も空の上にある。
「言い忘れてたけど……さ」
その耳元に、小さく一声。
「あたしも、鬼なんだ」
「え……? だって………!」
晶は良宇に追われていたはず。だからこそ、ハークも晶を連れて慌てて空へと逃れたのだ。
もちろん下心は九割あったが、残り一割は間違いなく本気で逃げるつもりだったのに。
「維志堂、知らなかったっぽいんだよねー」
呟き、ハークの肩に当てられるのは、晶の白いてのひらだ。
「タッチ」
同時に一分設定のアラーム音が停止して。
鬼の権利は、ゲーム終了一秒前にハークへと移されたのだった。
鬼ごっこも終わり、日が暮れて。
夕食が終われば、後は自由時間となる。
「………ふぅ」
常夜灯が一つ点くだけの中庭に響くのは、ゆっくりと吐かれる息の音と。
「はああっ!」
そこから転じる、鋭い気合。
日は暮れているが、時計はまだ八時を少し回ったばかり。テント村も、夜の騒ぎの最中だろう。
ならば、少々の発声も迷惑にはならない。
「……てぇいっ!」
朝の訓練を静だとすれば、今の訓練はまさしく動。
大きくゆっくりと、正確な動きを身体に教え込む訓練の動きではなく、素早くコンパクトに、試合でも通用する動作を拾い上げるための鋭い動き。
そしてその武踏の中で、ポケットから取り出したのはストレートの携帯だ。
手の内でくるりと回した次の瞬間、そこにあるのは携帯ではなく、冬奈の身よりもわずかに長い六尺棒。
頭上で一度、二度廻し、動きを徐々にその内へ。
つむじ風の如き三度目の回転は、腰を中心とした大きく鋭い回転だ。その流れの中で、基本の拳打から棒を使った舞闘へと、全身の緊張を切り替える。
四度目の回転は、既に我が身と一体だった。廻り、舞い、間に放たれる拳打も、棒の大きな動きの中に。
「っ!」
裂帛の気合で、円の動きはぴたりと止まる。
演舞を止めたのではない。
止められた、のだ。
気配。
中庭にたった一つだけある常夜灯の中。
ひたりと踏み込む、細い足。
人間の足、ではない。
白い毛に覆われた、獣の足。
「これ……晶達が言ってた、白いガルム……?」
確かに、白い狼だ。
だが、先日のガルムのような強い敵意、戦意は感じられなかった。
むしろ、怯え、迷った子犬のような……不安定なものさえ、感じさせている。
敵では、ない。
「……おいで」
声を掛ければ、人の言葉を介すのか、たどたどしくもこちらへ歩み寄ってくる。
緊を、解く。
左に提げた六尺棒も、込める力を全て抜く。
そして右手を差し出せば……。
「ふふ……くすぐったいってば、おまえ」
ぺろりと舐める舌は、少しだけざらざらとしていた。
甘えるように頬をすり寄せる白い狼に、戦う意志はどこにもない。まだ生まれて間もない、子狼なのだろうか。
「なんだ。凶暴でも何でもないじゃない」
その白い毛並みに頬を埋めれば、冬奈の頬も自然とゆるむ。
「ふふ、あったかい……」
基本的に猫派だが、別に犬も嫌いなわけではないのだ。
続劇
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