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3.二人の二つの過ち

 澄み切った青い空を、揃えられた掌がゆっくりと滑っていく。
 春の朝。まだ肌寒い空気の中で、吐かれた呼気が白く舞う。
 吸うことよりも、吐くことを。一瞬の弛緩から吸う動作へと切り替われば、内へと取り込まれた呼気の流れは、丹田より肩へ抜け、肘を伝って掌へ。指先に至って跳ね返り、再び戻るは胸の内。
 足指からの一連の動きも、丹田を要にして全身と連動。
「…………ひゅぅ………っ」
 大袈裟な掛け声はない。吐き、吸う呼気を体中に巡らせながら、動きに合わせてゆるやかに。
 そもそもこんな時間に大声で気を発しては、まだ眠っているクラスメイト達に迷惑だ。
「冬奈ちゃん?」
 その緊張の糸が、切れた。
「……ごめん、起こしちゃった?」
 掛けられたその声に気分を害す様子もなく、冬奈は真紀乃に向けて苦笑い。
 弓道場を前にした、裏庭だ。校庭の隅にあるテント村からは距離もあるし、大きな声も出してはいないから、大丈夫だと思っていたのだが……。
「や、目が覚めてるのはいつもの事なんですけど……」
「……どうかしたの?」
 真紀乃の言葉に、いつもの歯切れの良さがない。
「いや、別に……」
 いぶかしがる冬奈に、ごまかし笑い。
 さすがの真紀乃も、ファファと添い寝している所を激写したなどと当事者に白状できるはずもなかった。
「それより、朝の特訓ですか?」
 だから何となく、話題をずらしてみる。
「特訓ってほどでもないわよ」
 早朝の練習は、冬奈が物心付く前からの習慣だ。それは道場にいようとテント村にいようと、動く身体がある以上、変わることはない。
「ね、冬奈ちゃん。あたしにもそういうの……教えてもらっちゃ、ダメですか?」
「何かあるの?」
「まあ、色々と……なんだけど」
 それはまだ、口に出来る段階ではない。
 真紀乃が偶然首を突っ込んだ事態に冬奈が少なからず関わっていると知るのは、もう少しだけ先の話になる。
「教えられるほど、大したものじゃないわよ」
 言いたくないと、言外に悟ったのだろう。冬奈は小さな溜息を一つ吐き。
「一緒にやるぶんには、構わないけどね」
 ゆっくりと、演舞の動きを再開する。



 そして、放課後。
「失敗でしたね……」
 真紀乃と冬奈は、家庭科室で盛大な溜息を吐いていた。
「考えたら、お風呂ってないのよね……」
 その恐るべき事実に気が付いたのは、朝の練習を終えてからのこと。
 クラブハウスのシャワーを浴びるには浴びたが、二人は今ひとつすっきりしないまま、二日目の日程を迎える羽目になっていた。
「やっぱり、シャワーだけじゃ落ち着かないわよね」
 さらに言えば、着替えの数も心許ない。特にこんな事態に陥るとは思っていなかった真紀乃にとっては、深刻な問題である。
 だからこそ、こうして家庭科室に洗濯に来ているのだが……。
「あ。リリ、洗濯は出来るんだ」
 家庭科室には、同じ事を考えていたらしい先客がいた。
「二人とも、ボクのことバカにしてるでしょ……」
 料理が全く出来なかったことを全力で棚に上げて、リリは棚の上にあった洗剤の箱を取り上げてみせる。
「こんなもの、スイッチ押して洗剤入れれば誰にだって……」
 洗濯物を押し込んで、洗剤をばさばさと振り入れてスイッチオン。
「……それ、脱水槽」
「……へ?」
 家庭科室の洗濯機は、堅牢一点張りの二槽式。頑固な汚れを叩き落とすための高トルクモーターが唸りを上げて、小径の脱水槽を力任せにぶん回す。
「ひゃあっ!」
 もちろん脱水槽は洗濯槽の後に使うもので、洗濯の前に使うものではない。
 空回りする暴力的な遠心力を押さえきれずガタガタ暴れる本体に、無造作に置いていた洗濯カゴが吹き飛んで。脱水槽に入れていなかったぶんの洗濯物が、ひらひらと宙を舞う。
 そこで、悲劇は起きた。
「ああ……っ!」
 開くのは、家庭科室の扉。
 入ってきたのは、扉よりも大きな巨漢と、少女たちより小さな姿の二人組。
「ん………?」
 額にかかったレース付きのそれを、維志堂良宇はそっとつまみ上げて。
「……………」
 正体を認識するなり、凍り付いた。
「………?」
 セイルも顔に張り付いたそれを手に取って、不思議そうに引っ張ってみせる。コットン百パーセントの女性用ショーツは、想像以上に良く伸びた。
「…………あーあ」
 冬奈の嘆息と。
「あー」
 真紀乃の驚きが重なって。
 リリ・クレリックの悲鳴が響き渡るのは、それからきっかり三秒後の事。


「……あれ? ウチの金髪委員長は?」
 家庭科室にやってきたのは、呼んだはずの両クラスの委員長ではなく、A組の委員長とB組の副委員長の二人組だった。
「レイジは外で魔女っ子と薔薇仮面が出てるから、レムとそっちの騒ぎに行ってます」
 A組とB組の大したこと無い小競り合いだったはずなのに、気が付けば謎の二人を交えた大騒ぎになっているらしい。
「ハルモニアさん達か……。二人で、足りるの?」
 どうも不安な人選だ。かといって、こちらの二人を加えてどうなるとも思えなかったが。
「ローゼリオン君と連絡が取れないんですよ……。出来れば向こうは、副委員の三人で当たって欲しかったんですが」
 昨日の委員長会議に出席してもらった絡みもあり、ウィルにはA組の副委員長を引き受けてもらっていた。
 けれど、その副委員長の携帯は留守番電話。
 仕方なく動ける四人を二手に分けて、祐希と悟司がこちらの騒ぎの対応に回ることになったのだ。
「……大変ね、委員長も」
「そんな、人ごとみたいに……。で、どうなったんです?」
「維志堂くんと、ブランオートくんが……っ!」
 顔を真っ赤にした当事者のリリは、怒っているのか泣いているのかよく分からない。もちろん件の下着の類は二槽式洗濯機の洗濯槽に正しく放り込まれ、今は遠心力にされるがままだ。
「ええっと、事実なんですか? 二人とも」
「…………」
 祐希の問いに、セイルは首を傾げるだけ。
「事実だ」
 そして良宇は床に正座したまま、是のひと言。
 背筋をぴんと伸ばしたその姿勢は、反省しているはずなのに、異様に堂々として見えた。
「ええっと……」
 セイルに悪意はないだろう。
 良宇もそんな事をするとは思えなかった。
 だが、本人達が認めているなら、罪は成立してしまう。
「不可抗力だったけどね」
 そんな二人に助け船を出してくれたのは、一部始終を見ていた冬奈だった。
 リリが洗濯機の操作を間違えた所で洗濯物が宙を舞い、そこに運悪く良宇とセイルが居合わせてしまったのだという。
「……不可抗力なんだったら、言い訳の一つもしてくださいよ、維志堂君」
「男に二言はない。クレリックの………………」
 背筋を伸ばし、堂々と言いかけて、良宇はそこで言葉を止めた。
「クレリックの………その、だな。そ、その……」
 その後の言葉が、口から出ない。
「うぅ、ボクのブラとぱんつ…………」
「……………」
 リリの呟きに、再び硬直。
 冗談で固まっているわけではない。一分の隙無く全力で本気なのだから、良宇が悪意をもって下着に顔を突っ込んだ可能性は限りなくゼロに等しい。
「…………」
 もちろん、事の重大さをよく分かっていないセイルは、言わずもがなだ。
「クレリックさん。二人とも反省しているようですし、今回は許してもらえませんか?」
「…………」
 けれど、そんな祐希の取りなしにも、リリは口をへの字に結んだまま。
 その気持ちは分からないでもない。というかそれは、男の祐希や悟司でさえ、容易に想像の付く感情だ。
「リリ」
 そして。
「うぅ………わかった」
 リリは冬奈の言葉に、渋々首を縦に振ってみせた。


 夕食の後。
「四月朔日、家庭科室の事はありがとな。助かった」
 食事を済ませたテーブルで潜水艦ゲームをしていた冬奈に声を掛けたのは、祐希とレイジの二人組。
「気にしないで良いわよ。それより、この手の事ってまた起きるんじゃないの? Aの7」
「でしょうね。さしあたり、家庭科室の利用時間は男女で分けてみたんですが……」
 委員長の二人に出来る事は、女子が洗濯物を洗っている間は男子の入室を控えてもらうようにするくらい。
 この件で男子から特に反対意見らしいものは出なかったが……。
「それは見たけどさ。このくらいのトラブルって、またいくらでも起きるんじゃない? はずれ。Cの9」
 ちなみにゲームの相手は晶だ。
 さらに言えば、このゲームがどういう経路で発掘されたのか、晶も冬奈も知らなかった。真紀乃がどこからともなく持ってきたのである。
「だろうなぁ……。俺や祐希じゃ、仲裁しきれねえか」
「男子だしねー。ありゃ、当たり。Bの3」
 それでなくても、男女のいさかいはデリケートな問題だ。今回は大事に至らなかったが……明らかに男子に非のある事件なら、男子のレイジ達が仲裁に入るのは火に油を注ぐ事態になりかねない。
「華が丘の知り合いなら、あたしとか冬奈で何とかしてみるけどさ……。メガ・ラニカの方は、まだちょっとね。はずれ。Cの8」
「うぅ……厳しいわね。あたり。Dの9」
 晶の二発目の爆撃もヒット。冬奈の戦艦に、着実にダメージを与えていく。
「メガ・ラニカか……」
 華が丘の出身者の大半は、華が丘中学からの持ち上がりだ。晶や冬奈のように顔の広い者がいれば、ある程度はフォローすることも出来る。
 けれど、メガ・ラニカからの留学生は、大陸全土から集められた者達であって、互いの認識はほとんどない。数ヶ月もすれば中心的な人物も出てくるのだろうが……当面の問題は明日からどうするか、なのである。
「祐希。おまえんとこ、副委員長ってウィルしか決まってなかったよな?」
「そうですね。あと一人……誰が適任か、考えてはいるんですが……」
 副委員長の枠は二人。ウィルはトラブルの時には女性の味方をするだろうが、女性を盲信しているわけではない。バランスは悪くないはずだった。
「一人が男子なら、もう一人は女子がいいな……」
 華が丘側の女子については、冬奈と晶に力を借りる手もあるだろう。
 なら、あと足りないのは……。
「メガ・ラニカ出身で、それなりに信用されていそうな女子……」
「となると……」
「片付け、終わりましたわよ」
 四人の前に現れたのは、食後のお茶を持ってきた、少女の姿。
「ええっと、ハルモニィ……」
「……ハルモニアです」
 冬奈の呼ぶ名を、どこか不機嫌そうに訂正するキースリン。
「ハルモニアさん。お願いがあるんですけど」
「………はい?」
 そしてキースリン・ハルモニアは、彼らの頼みを断る術を持ち合わせてはいなかった。



 テントの天井を、ゆらゆらと小さな明かりが揺れている。
 ロウソクほどの光を放つ、魔法の灯だ。メガ・ラニカ人なら誰もが使える初歩中の初歩の魔法だが、それだけに使い勝手も飛び抜けて良い。
「やれやれ。もうちょっと、みんな仲良くやれんのかねぇ……」
 レイジのぼやきは、良宇のいびきにかき消されて誰の耳に届くこともない。
「まあ、あの面白い奴らの話が黙ってても入ってくるのは、役得だけどよ……」
 謎の薔薇仮面に、謎の魔法少女。小さな騒ぎを片付けるのも、歴史小説で読んだお白州のようで悪い気分はしなかった。
 たった数日で、楽しい事は山のよう。
 それはそのものは問題ないし、むしろ楽しんでいる位なのだが……。
「がああぁぁぁぁぁ……」
 思考は、響く唸りによって強制中断。
「……つか、八朔も悟司も、よくもまあ寝てられるもんだな」
 隣の八朔も良宇に負けないいびきをかいているし、反対側の悟司もちゃんと眠っているようだった。
 毛布の内。ポケットから携帯を取り出し、慣れない動作で壁紙を喚び出した。表示された図形が淡い光を放ち、その中に手を差し込んで……。
 そのままレイジは動きを止める。
 背中の向こうに、何かが動く気配を感じたからだ。
「…………」
 そいつはそっとその身を引き起こし、気配を殺してテントの外へ。テントの入口を覆う布がずれる音も、良宇のいびきにかき消され、注意していなければ誰も気付きはしないだろう。
「…………レイジ」
 そして、気配を悟っていた者がもう一人。
「起きてたか、悟司」
「そりゃ、これだけうるさいとね」
 苦笑しつつも、嫌がっている様子はない。
「これ、貸してやろうか?」
 レイジが携帯から手を引き抜けば、その手に握られているのは小さめの耳栓だ。
 まだ新品らしいそれを、悟司の手のひらにひょいと落としてやる。
「助かるけど……そうじゃなくってさ」
「ほっとけ。レムは、そういう奴じゃねえはずだ」
 両耳に耳栓を押し込んで、レイジはそのままごろりと横になる。
「………うん」
 悟司もそれに倣い。
 押し込んだ耳栓は、良宇と八朔のいびきをほんの少しだけ、和らげてくれた。


 それとほぼ、同刻。
「……飽きた!」
 A組一班女子のテントに舞うのは、晶が放り投げたトランプの束。薄いプラスチック製の二色の板が、荷物と言わず毛布と言わず、ばらばらと散らばっていく。
「え、もう!?」
「だって、真紀乃がずーっとハートの8、止めてるんだもん!」
「戦略って言ってくださいよ」
 七並べで八を止めるのは、限りなく嫌がらせに近い。とはいえ晶が六連勝もしていれば、邪魔……もとい、防衛戦略を発動させてしまうのも、分からないではなかった。
「ってそうじゃなくって、もう七並べも神経衰弱もババ抜きも飽きたの!」
 やっているゲームの内容もメンバーも、昨日と全く変わらない。
 ポーカーは晶以外が手役を覚えきれず、大富豪は東京とメガ・ラニカと華が丘と四月朔日道場でローカルルールに差がありすぎてこちらも断念。
 結局、無難どころ以上のセレクトには持ち込めていなかったりする。
「潜水艦ゲームは?」
「あれワンプレイ長すぎるわよ……」
「じゃ、オセロやる?」
「それも飽きたんだってば!」
 散らばったトランプを渋々拾い集めながら、晶はやれやれとぼやいてみせる。
 飽きたとはいえ、数少ない遊び道具だ。枚数が欠けては、それすらも使えなくなってしまう。
「やっぱPSPかDS持ってくれば良かった」
「充電できるの、携帯だけですよ?」
 テント合宿中の特例として、携帯だけはそれぞれの教室や家庭科室での充電が認められている。ただそれも日に一度と決められており、ゲームにばかりバッテリーを費やすわけにはいかなかった。
「うぅ………言ってみただけよぉ……」
 各スートが十三枚、それにジョーカーが二枚ある事を確かめて、晶はトランプを箱の中へ。
 戻したその手が、ぴたりと止まる。
「……良いこと思いついた」
「何?」
 ここで冬奈がいたならば、即座に却下と答えただろう。けれど冬奈は例によって、自分のテントでファファと一緒に夢の中。
 百音の突っ込みくらいでは、水月晶は止まらない。
 ……だが。
「学校、探検してみない?」
 悪魔の尻尾を生やした晶の囁きに、一同は揺れた。
「は、入って良いの……?」
 そもそも校舎には鍵が掛かっていて、今出入りできるのは別棟のシャワー室だけのはず。
 中庭を散歩したところで、面白くも何とも……。
「……こんな事もあろうかと、家庭科室の鍵を一つ開けといたのよ」
 さらに言えば、シャワーの帰りにその鍵が開いたままだった事は確認済み。こんなド田舎の、しかも怪しげでうさんくさい事この上ない魔法学校に忍び込むような泥棒など居はしない。
「………それって明らかに狙ってますよね」
「だから、“こんな事もあろうかと”、なんだってば」
 晶以外の三人は、ポーズこそ若干引き気味だったが……その瞳に宿るのは、どれも等しく同じ色。
「で、あんたたち。行く?」
「そりゃ、行くけどさ」
 興味の、色だ。
「キースリンさんは?」
 昨日と同じく少し離れた所でハードカバーを読んでいたキースリンは、晶の問いに穏やかに首を振ってみせる。
「遠慮しておきますわ」
「何よ。付き合い悪いわよ? 副委員長」
 むしろ本当なら、副委員長に止められないことを僥倖と思うべき所なのだが……そんな理屈が通用するテンションではない。
「ふふっ。フォロー役も出かけて、構いませんの?」
「……前言撤回。あんたいい娘だわ、キースリンさん」
 副委員長という強力なバックアップを手に入れて。
 少女たちは、行動を開始する。


続劇

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