まだ塗装の匂いも抜け切らない教室に響くのは、教師の声。
「はい、皆さん。適当な席に座ってください」
単純な拡声の魔法ではなく、音の伝達を良くする魔法なのだろう。教師の声はさして大声ではないはずなのに、教室の一番後ろに立っている少年の所にまでしっかりと届いてくる。
「適当……ねぇ」
あまり前の席に座ると、長身の彼は邪魔になってしまう。かといって列の最後尾、特に教師の目が届きにくい左右の端は競争率が高そうだ。
そんなわけで少年が選んだ席は、中央列の最後尾。
「………よっと」
一人が腰を下ろすのを見て、他の生徒達も思い思いの席へと着いていく。
それを横目に外を見れば。窓の向こうは、華が丘高校魔法科第一期生の門出を祝うかのような一面の蒼。ここまでの快晴なら、晴竜の一匹も飛んでいるだろうか。魔法都市に育った者の常、何となくその姿を視界の内に探してしまう。
「あ、あの……陸、さん?」
そんな中、窓の向こうを眺めていた陸に、控えめな声が掛けられた。
「ああ。えっと……」
小さな声の正体は、金の髪を揺らす小柄な少女。
「確か……クレリックさん、だっけ」
つい先日、天候竜に襲われていたところを助けた、魔法世界メガ・ラニカの女の子だ。
「はい。ルリ、でいいですよ?」
ルリは陸の隣の席にちょこんと腰掛けて、こちらに穏やかに微笑んでくる。
入学式まで慌ただしかったせいで、陸はクラス分けの名簿をまともに見ていない。自分が一年A組だった事は一応確かめていたが、どうやらルリも同じクラスだったようだ。
「……どうか、しましたか?」
控えめな笑みに、陸は思わず声を失っていて。
「いや……。………あんた、こんな後ろの席で平気なのか?」
口にしたのは、激しくどうでもいい言葉。
「? わたし、山育ちで目は良いですから」
「いや、そうじゃなくって………」
ここにルリがいると言うことは……。辺りを見回してその姿を求めれば、メガネを掛けた少女がいるのは陸の列の一番前だった。
中学の頃から視力を落とし始めた彼女が、授業の時だけメガネを掛けていた事を、少年は何となく思い出す。
「雀原の隣じゃなくていいのか?」
雀原の家は、隣の少女のホームステイ先だ。いくら同じクラスとはいえ、列の前と後ろより、隣同士の方がフォローしやすいのは当然の話。
「ちょっと陸! あんた、ルリいじめたら承知しないからね!」
「…………あんま、関係ないか」
放物線軌道で飛んできた雀原の言葉に苦笑を一つ。
どうやら最前列の少女にとって、この程度の距離は距離の内に入らないらしい。
「はい。皆さん、静かに」
そんなざわつく教室を制すのは、最前列のさらに前、教卓に立つ教師の打つ手だった。
それも魔法の力だろうか。耳の奥まで、ぉん、と響いた一拍の柏手に、二十人の生徒達は総じて言葉を止める。
しかし。
「では皆さん、その席で一年間過ごしてもらいますので」
そのひと言に、二十人の生徒達は再びざわつき。
「ついでに、隣の席の人がパートナーになりますから、三年間仲良くやってくださいね」
ついでと言うにはあまりに衝撃的な言葉に、さすがに反論の声を上げるのだった。
これが、物語の序章。
瑠璃呉 陸と、ルリ・クレリックの物語。
二人の物語は、ここで一旦筆を置くことになる。
本編の始まりはこの十六年の後。
2008年2月。
まだ肌寒い、年が明けて一息ついた華が丘より始まる……。
華が丘冒険活劇
リリック/レリック
#1 ようこそ、華が丘へ! 前編
1.ようこそ、華が丘へ
ことり、と置かれたのは、小さな花柄のティーカップ。ほんのりと湯気を立てるそれは、二月の屋外にあっても、冷める気配は見られない。
外、である。
高い空には雲一つ無く。澄んだ大気の果て、晴天の化身たるウェザードラゴンがまっすぐに翔けている。
いかな魔法都市・華が丘とはいえ、天候までを支配できる魔法使いなど存在しない。日本の他の地域と同じように冬の風が吹き、商店街を歩く人々はコートやセーターを着込んでいる。
けれどそのテラスだけは、まるでガラスで隔てられた温室の中のように、冷たい風のひと吹きすらも入り込んでは来なかった。ひとつ温室と違うのは、その隔壁たるガラスがないことだけ。
「そっか……いよいよ、明日なのね。祐希くん」
そんな、壁のない温室の中。
丸盆を胸元に抱いて呟くのは、一人の女性だった。腰まで伸びた長い髪をゆらりと揺らす、穏やかそうな美しい女。
そして彼女が控えるテーブルに着いているのは、祐希と呼ばれた少年だ。
「はい。それで、なんですけど……」
彼女自慢の淹れたての紅茶に視線を向けることもなく、祐希はどこか言いにくそうに、言葉を紡いでみせる。
「華が丘に合格したら、また『ライス』でバイトさせてもらえませんか? 菫さん」
「それは助かるけど……ねえ、ナウムさん」
菫の言葉に、テラスの奥、カウンターで黙々とカップを磨いていた初老の男も黙って頷いてみせる。
「けど、本当にいいの? 高校生なら、ここより割の良いバイトもたくさんあるでしょうに……」
祐希のバイトの目的が家計を助けるためということは、菫もよく知っている。だからこそ、中学生である祐希を三年の二学期まで手伝いという形で雇っていたのだが……。
田舎の、しかも地元の常連や学生向けのカフェで、それほど多くのバイト代を出すことは出来ない。隣町のコンビニやファミレスで働いた方が、はるかに良い実入りになるだろう。
「マスターにも菫さんにも、たくさんお世話になってますから。それに……」
しかし祐希はそう答え、店の向こうへ視線を向ける。
「……合格したら、学校からも近いですし」
商店街のさらに先。屋根を越え、山を越えた先にある、小さな輝き。
冬の柔らかな陽を弾く、市立華が丘高校の校舎の窓。
あした祐希が受験する、志望校の窓。
願い叶えば、いずれはその窓から、祐希はこの商店街を眺めることになる。
「……そう。なら、お願いしても良いかしら?」
「はい。よろしくお願いします!」
菫の言葉に、祐希は深く頭を下げるのだった。
○
並ぶのは無数の線路と、同数のホーム。
その鋼鉄の軌条を駆けるのは、時速二百キロオーバーを叩き出す、流線型の車体の群れだ。
あるものは北へ。
あるものは北西へ。
またあるものは、西へ。
この日本の東の果て、全ての路線の最上に位置する、始まりの駅の名は……帝都、という。
「しかし、受験は明日って言うじゃないか。本当に大丈夫なのかい? 冬奈」
無数のホームの並びの中で。発車を目前に控えた白い車体を脇に呟いたのは、一人の男だった。
「そうだよ。言ってくれれば、こっちが華が丘に戻ったのに……」
脇にいた青年も苦言気味に呟くものの、どちらも言葉の内に含むのは喜びと期待の色。
「あたしはちゃんと勉強してるから、平気だってば!」
だからその言葉を向けられた張本人は、黒いポニーテールを閃かせ、二人の言葉をばっさりと切り捨てた。
「それに父さんたちこそ、今からが入門者を集める一番大事な時期じゃない! 帝都の道場は二人の手に掛かってるんだから、しっかりしてよ!」
だからこそ、冬奈と呼ばれたこの娘は、わざわざ華が丘から帝都までやってきたのだ。
自分から。
地元駅からたった一度の乗り換えで着くとはいえ、帝都は決して近所ではない。華が丘に着く頃には、とっくに日は沈んでいるだろう。
そして、再び日が昇れば……その日は、少女の受験当日なのだ。
「まあ、それはそうなんだが……。だんだん母さんに似てきたぞ、お前」
「……まあ、親子だしねぇ」
父親のぼやきに軽く苦笑すれば、ホームに新幹線の出立を知らせるアナウンスが響き渡る。
「それじゃ、あたし帰るね! 久しぶりに会えて、嬉しかった!」
足下からのアイドリング音がひときわ強まったのを感じながら、冬奈は流線型の車体の内側へ。
「ああ。母さんやみんなによろしくな!」
手を振る少女の言葉と共に、真っ白なドアがゆっくりと親子の間を遮って。
流線型の車体は一路博多を目指し、緩やかにホームを滑り出していく。
自動ドアを抜けると、冬奈はポケットから切符を取り出した。指定の車両であることを確かめると、席の順番を数えながら進んでいく。
最新型の700系だ。走行音は驚くほど小さく、バランスを崩されるほどの揺れもない。道路の上を歩くのと同じ感覚で、一歩一歩を進んでいけば……。
「……ここか」
二人席の窓側だ。通路側には既に先客が居て、静かに本を読んでいる。
「すいませーん」
「あ、はい」
先客の少女が引っ込めた足の上をまたぎ、自らの席へ。
座席の下にバッグを放り込んでから、リクライニングを少しだけ倒してみた。後ろの席に乗客が居ないのは確認済みだ。眠くなったら、もう少し倒してみるつもりでいる。
それまでは、外を…………見ようと思ったら、あっという間に灰色の遮音壁が視界を阻み、次の瞬間にはトンネルが壁の色さえ奪い去っていた。
鏡となった窓に映るのは、自分の顔と、隣の席に座る女の子の姿。
(……中学生、かな?)
通路を隔てた向こうの席では、くたびれた背広のサラリーマンが競馬新聞を読んでいるだけ。少なくとも、女の子の家族には見えない。
(ってことは、一人旅なのかな……?)
制服らしいセーラーを着ているから、まさか家出というわけではないだろう。
肩上でまっすぐに揃えられた黒い髪が、やや幼さを強調させるものの……手元の文庫本に注がれる視線は、真剣なもの。
駅の売店で買ったのだろうか。薄い紙のブックカバーのせいで本の題名までは分からないが、随分と集中して読んでいるらしい。
(……あんまりじろじろ見たら失礼だよね)
鏡越しだし、相手も気付いてはいないだろうが、それでも感じの悪いことに変わりはない。早々に寝てしまおうかと思った、その時だ。
「…………やっぱ、鉄甲巨兵は名作ねぇ」
「………?」
ぽつりと呟いた少女の言葉に、冬奈は再び鏡越しの観察を始めてしまうのだった。
続劇
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