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 あたりを包むのは、白い光。
 柔らかな熱と、穏やかな風の舞うそこは……輝きに満ちた、一面の白。
「………………!」
 そこに響くのは、透き通る声。
 声、である。
 確かにそれは声のはず、だった。
 けれど、耳に届くのは音と必死な感情の二つだけ。その先にあるはずの、言葉の意までは聞き取ることが出来ないまま。
「………………!」
 もう一度響く、同じ声。
 含む色は、喜びか、驚きか。強い、そして正に向いた、はじけるような意志の色。
 それに答えようと。誰だ、と叫ぼうとするものの、己の声は放たれることがなく。
「………………!」
 白い光の中。
 三度、姿無き声。
 そこに至って、ようやく気が付いた。
 己が、瞳を閉じていることに。
 あたりを取り巻く白い光が、瞳を閉じた闇の中さえ白一色に染め上げていたのだ。
 意志を込めれば、震える目蓋。
 そのまま、瞳を、開く。
「………………!」
 瞳を開いた先の世界も、やはり白一色に包まれていた。
 けれど、光の中。
 視界に飛び込む、少女の唇。
「………………!」
 それは、確かに言葉を紡ぎ………。


 そこで、少年の意識は覚醒した。


 視界の先にあるのは、白い光。
「次は、華が丘ぁ。華が丘ぁ……」
 ただし、耳に届くのは少女の声ではなく、くたびれた男のアナウンス。BGMとなるのは、ディーゼル機関のくぐもった唸り声と、鉄の動輪が線路を叩く規則正しい走行音だ。
「………夢、か」
 呟き、己がちゃんと声を出せることに少々驚きながらも……少年は再び外を見る。
 白。
 窓の外は、白。
 ただし、光ではない。霧だ。
「次は、華が丘ぁ。華が丘ぁ……」
 再びのアナウンス。
「……そろそろ着くのか」
 声を出せることをもう一度確かめつつ、ポケットに押し込んでいた携帯電話を取り出した。
 小さな背面液晶に表示されたデジタル時計は、到着予定時刻まであと三分ほどを示している。
 そして……。
「……圏外」
 アンテナピクトが表示されるべき場所にあるのは、無情な圏外の二文字だけ。去年の夏に買ってもらった二世代前の格安モデルとはいえ、カバーエリア日本一をうたう通信キャリアの携帯だ。
 それが……圏外、である。
 かといって、この辺りが辺境の果てというわけでもない。田舎なのは間違いないが、瀬戸内沿岸に位置するれっきとした地方都市だ。
 しかし、この圏外だけは、携帯キャリアの怠慢ではなかった。
 そういう場所なのである。
 少年が向かうべき場所は。
「いよいよ……だな」
 呟くと同時、足下の駆動音が鈍い鉄の叫びを上げ、列車の車体ががたがたと揺れた。
 減速。
 少しずつスピードを落としていく窓の外、少年は霧の白に視線を戻す。
 切符はポケットの中にあるし、荷物は大きめのバッグひとつだけ。降りる準備は既に終わっていて、他にすることもなかったからだ。
「………なんだあれ」
 光に包まれたと錯覚するかのような、白い霧。
 その奥深くに、二つの影が見えた。
 距離感の狂う一面の白の中だ。けれど、もし少年のスケール感と距離感が狂っていないとするならば……。
 影の一つは十メートルをはるかに超える、コウモリの如き翼を広げた異形。
 そしてもう一つの影は、人ほどの大きさだ。しかしそいつがただの人間でないのは、身の丈の三倍に及ぶ巨大な剣を悠然と振り回している事からも明らかであった。
「……冗談、だよな」
 ブロッケン現象と呼ばれる怪異がある。
 雲や霧に包まれた中、その雲をスクリーンとして、己の影が巨大に投影される現象だ。
 人ほどの影が、大剣を大きく振りかぶり、異形に向かって跳躍する。
 振るわれた大剣が払うのは、長く伸びた異形の首だ。
「おいおい…………」
 異形の首が、一刀両断宙を舞う。
 最近出たばかりのモンスター退治のゲームでも、そんな派手なことなど出来はしない。ましてやここは、2008年の日本、まぎれもない現実である。
「………幻かなぁ。最近、徹夜ばっかしてたもんな」
 受験勉強に疲れたのだろうか。
 軽く目をこすれば、あたりは闇に包まれる。
 襲ってきた眠気に屈したわけではなかった。わずか数十メートルほどの、小さなトンネルに入ったからだ。
 そこに飛び込むと同時、トンネルの外壁に跳ね返るブレーキの音は一段強さを増し……。それは、目指す駅がすぐそこであることを示していた。


「…………ふぅ」
 振り抜いた大剣を片手でくるりと大きく回し、こびり付いた血糊を払う。
 血糊は飛ばない。その身に掛かりもしない。
 ただ、天の気と魔の気へと還り、宙に消えるだけ。
 既に大地に崩れた巨体も、跳ね飛ばした竜頭も、竜血と同じく大気の中へと還りつつあった。
「…………?」
 そこに鳴るのは、あまりに場違いな電子音。
 今どき六十四和音で構成された陳腐なメロディは、身の丈の三倍ほどもある大剣から流れ出る。
「………はいはい。出ますよ、出ますってば」
 影は女の声でそう呟くと、大剣を天へと投げ上げた。
 大きく縦にくるくると舞うそれは、落下の時には姿を変えて、女の手の中へぽすんと掴み取られている。
 着信ボタンをひょいと押し、耳元へ。
「はいはい。どしたんですか? 菫さん」
 落ちてきたそれは、携帯電話であった。
 形状はシンプルなストレート。ホウキや剣を模したメタルチャームがストラップよろしくじゃらじゃらとぶら下がっている、ごくごく普通の携帯だ。
「やだ、もうそんな時間? ……わかってますよ。ちゃんと覚えてますって。イヤだなぁ、忘れてませんってば!」
 取り繕うように終話ボタンを押すと、女は再びストレートの携帯をひょいと放り投げる。
 落ちてきたときには、それは携帯の形も、大剣の形もしていなかった。
 大剣を投げ上げたときと同じ回転で落ちてきたホウキ……先ほどまで携帯にぶら下がっていたメタルチャームと、寸分違わぬ形であった……を無造作に掴み取り。その勢いを殺さぬようにくるくると回しながら、流れる動作で腰の下へ。
 尻の下に収まった柄に体重を掛ければ、ホウキは宙をわずかに沈み。
 そのまま無音で、空へと舞い上がった。


 ディーゼルエンジンのアイドリング音の中。わずかに立つのは、スライドドアの放つぷしゅ、という軽い音。
 そして、コンクリートのホームを踏む、スニーカーの靴音がひとつ。
「華が丘……か」
 だが、そのつぶやきは再びうなりを上げ始めたディーゼルエンジンの咆哮にかき消され、誰の耳にも届くことはない。……もっとも、だだっ広いホームには、少年以外の誰もいなかったのだけれど。
「華が丘……か」
 トンネルを抜けたところで、白い霧はきれいに消えていた。
 晴天の下、空を見上げれば、そこにあるのは新幹線の高架。
 見下ろせば、ローカル線の単線路がある。
 正面を見据えれば、そこに建つのは小さな駅舎。錆だらけの傾いた看板には、少年の呟いた三文字の駅名がある。
「……相変わらず、ボロいな」
 少年の記憶にある景色と、寸分違わぬその姿。少年の記憶など、既に十年近く前のはずなのだが……。
 それが今なお記憶そのままに、目の前にある。
 変わったのは、自分だけ。
 幼稚園児だった当時と比べればはるかに背も伸び、抱えられる荷物も増えた。視線も随分と高くなったけれど……。
 そんなことは些細なことだとでも言うように。眼前の古ぼけた駅舎は何一つ変わらぬ姿で、その場所に静かに建っている。
「……夏美さんとこの、八朔くんかい?」
 ふと、声。
「………お久しぶりです」
 短身痩躯のその男を認めるなり、八朔と呼ばれた少年は小さく一礼をしてみせる。
 鼻下にちょこんと生えた髭に、アイロンの当てられた制服。2008年の日本だというのに、右手に握られた改札鋏がかちかちと空を噛む。
「よく覚えてましたね……駅長さん」
 その男の姿も、かつての八朔の記憶そのままに。
「ははは。ここから見送った人たちは、みんな覚えているのが自慢でね。夏美さん達は元気かい?」
「……元気すぎるほどで、困ってます」
 大神夏美は母の名だ。華が丘生まれの華が丘育ち、夫の都合でここを出るまで、ずっとこの街で育ってきた生粋の華が丘っ子である。
「そうかそうか。なら良かった」
 そういえば、幼い頃見た男も、改札鋏をかちかちと鳴らしていた覚えがある。
「確か、柚ちゃんの七回忌の時に引っ越したんだよね……何年前だっけ?」
「たぶん、十年前だと思います」
 八朔がこの世に産まれる前後、若くしてこの世を去った叔母の法要だ。もちろん、叔母の事は覚えているはずもないが……七回忌の法要の事は、この地での最後の出来事ということもあってか、何となくだが覚えがあった。
「けど、よく覚えてますね……」
 それにしても、もう十年も前の出来事だ。そのとき以来、八朔はこの華が丘に一度たりとも戻ってきては居ない。
 いくら華が丘が田舎とはいえ、そこまで何もかも覚えているはずがないだろうが……。
「なぁに。タネを明かすとね、そういう魔法の心得があるんだ。僕には」
「……なるほど」
 穏やかな笑いと共に、改札鋏がかちかちと鳴る。
「それが、魔法の杖ですか?」
「ああ。最近の若い子は、みんな携帯を使ってるみたいだけどね……僕はここから離れないから、これで十分なのさ」
 またかちかちと鳴る、改札鋏。そしてよく見れば、男の腰にはJR標準の改札印がちゃんとぶら下がっているではないか。
「で、八朔くんは大神さんちに戻るのかい? この時期に戻ってきたって事は……華が丘を受ける気なんだろう?」
「……合格したらの話ですけどね」
 だが正直なところ、祖母たちとはそれほど面識がない。なにせ十年ぶりの再会なのだ。顔は写真で何度か見たし、電話で話したこともあるが……会っていきなり馴染めるかは、また別の問題だ。
「その方がいいよ。大神さんの所も、柚ちゃんが死んじゃってから若い子がいないし。夏美ちゃん達も宇治に行っちゃったじゃない……喜ぶよ、きっと」
 そういって笑いかける駅長に切符を渡し、改札を抜ける。
「駅、全然変わってませんね」
 駅舎の中も、八朔の記憶にあるままだ。丁寧に貼られたポスターこそ新しくなってはいるものの、ベンチやフロア、自販機の位置に至るまで……少年の記憶と寸分の狂いもない。
「変わってないのは駅だけさ」
「そうなん…………」
 駅長の言葉に軽く応えたところで、八朔は言葉を止める。
 目の前にあるのは、駅の壁に埋め込まれた伝言板。ホワイトボードなどといった洒落たものではなく、いまだに磨かれた黒板である。
「……『夏美姉さんの息子さんへ 迎えに行くから、待っておくように』……なんですか? これ」
 夏美姉さんの息子ということは、ほぼ間違いなく自分のことだろう。だが、迎えが来るなどとは家を出る時に母からひと言も聞いていない。
「ああ。迎えが来るんだね、その方がいいよ」
「……婆ちゃんちまでの道、知ってますよ?」
 おそらく、それほど変わってはいないだろう。もし変わっていたとしても、確か子供の足で歩いて十分と掛からなかったはずだ。
 小さな街だし、迷ったところでたかが知れている。
「八朔くん、魔法携帯とか持ってる? ならいいけど……連絡も出来ないままでこの辺りを歩くのは、危ないよ?」
「そうそう。宇治の無限茶畑じゃないんだから、トラブルに巻き込まれたら大変よ?」
 駅長の言葉を継いだのは、駅舎の出口にある、女の声。
「………あなたは?」
 立つ、ではない。
「兎叶はいり。大神八朔くん、あなたを迎えに来たわ」
 ホウキに横座りに腰掛け、宙を浮いている相手を………立つ、とは言わないはずだから。


「ああ、迎えに来るってのは、はいりちゃんだったのか」
 ホウキから飛び降りて、浮いたままのそれを軽くくるりと一回転。大きく弧を描いたそれは、気付いたときにははいりの手の中から姿を消していた。
 代わりに握られていたストレートの携帯を、ジーンズのベルトにぶら下がるポーチにワンアクションで放り込む。
「やだなぁ、駅長さん。この年でちゃんはやめてくださいよ……」
 そう苦笑するものの、はいりの年は二十歳の半ばか、少し上くらいだろう。八朔からすれば十分大人ではあるが、おじさんおばさん、というには少々若い気がしないでもない。
「ええっと……兎叶さんは、うちの婆ちゃんの知り合いですか?」
「そういうことになるのかな……。柚……大神柚子は、八朔くんからすれば叔母さんになるんだっけ?」
 はいりの問いに、八朔は首を縦に振る。
 この街で会った二人から、共に聞く名前だ。それが、母達の思い出が色濃く残る地なのだと言うことを、八朔に強く理解させる。
「そっか。あたし、柚の友達だったのよ。それで、夏美さんとか、大神のおばさん……八朔くんから言うと、おばあちゃんになるのかな。おばさんにも、今でも良くしてもらってるの」
「……すいません、変なこと聞いちゃって」
「気にしないでいいって」
 大神柚子がこの世から居なくなって、既に八朔が生きてきたのと同じだけの時間が過ぎている。
 それが、はいりから悲しみや、もっと辛い想いを癒させたのか……微笑むはいりの表情は、思った以上に穏やかなもの。
「じゃ、行こうか。おばさんも、待ってるよ」


 見上げれば、電信柱とその間を走る高圧線。
 瓦葺きとスレートの割合は半々といったところだろうか。ちらほら見えるトタン屋根に、もちろんコンクリートのビルもある。
「……………」
 そして、目の前には看板の列。
 八百屋に魚屋、薬屋に理髪店。高い煙突を備えた酒屋は、酒を造る工場も兼ねているのだろうか。
「ん? どしたの?」
 目の前を歩いていたはいりは、目の前を呆然と見つめている八朔に、首を傾げてみせる。
「………いえ、あんまり魔法の世界っぽくないなぁ……って」
「ふふっ。みんな魔法都市っていうから、こう、石造りの塔があったり、変な神殿があったり、みんなホウキで空飛んでたり……って期待するみたいだね」
 実際、魔法の世界が現れた直後は、ちょっとしたブームにもなったのだ。とはいえ、このどこにでもある田舎の商店街を目の当たりにした観光客は、軒並み肩を落として帰って行ったのだが。
「………違うんですね」
 もちろん、八朔もその一人。
 さすがに塔や神殿までは期待していなかったが、さっきのはいりのように、みんなホウキで空を飛んでいる光景くらいは期待していたのだ。
「だって、こんなところで空飛んだら、高圧線にぶつかったら危ないでしょ?」
 町おこしで電線を軒並み地中化できるほど、華が丘にお金は余っていないのだろう。
「あんまり高いところ飛んだらウェザードラゴンにぶつかるし……あ、車、通るよ?」
「っと」
 避けた八朔のすぐ脇を、農機具を山積みにした軽トラが走り抜けていく。
 華が丘のメインストリートとはいえ、アーケードになっているわけでも、歩行者専用道になっているわけでもないのだ。そのうえこの辺りを離れれば、田圃と畑と、申し訳程度の住宅街があるだけだ。
 魔法の世界に至る街とは思えないほどの、徹底的な田舎ぶりだった。
「まあ、華が丘はただの田舎だからねー。メガ・ラニカまで行けば、だいたいみんなの予想通りだけど」
「え? はいりさん、行ったことあるんですか?」
 魔法世界メガ・ラニカは、華が丘から繋がる純然たる魔法世界……だと言われている。
 又聞きなのは、メガ・ラニカには厳しい入出国規制が掛けられていて、一般人の観光目的での入国は禁じられているからだ。
「華が丘に入れば、研修旅行で行けるよ。パートナーがいれば、その里帰りにも同行できるし」
「へぇぇ……って、兎叶さんって、魔法科の卒業生なんですか?」
「うん。今は華が丘の先生だけどねー」
「………は!?」
 さらりと口にした重大事項に、八朔は耳を疑った。
「今年の三年の担任だから、来年は一年に戻るんじゃないかなぁ……。キミ達が合格できれば、担任になるかもよ?」
「………え、いや、いいんですか? そういう先生が、俺たち受験生に接触したりして」
 一応、八朔は華が丘高校の受験生だ。もちろん、何を教わるわけでもないが、担任まで務める現役教師とこうして会っている所を誰かに見られて、いい心証が得られるはずがない。
「別にテストの問題教えるわけじゃあるまいし。こんな田舎でそんな細かいこと言うヤツなんていないわよ」
 そう言って現役担任教師はへらへらと笑い。
「それに………」
 小さく呟き掛けて。
「…………ちゃんといるわよ」
「………げ」
 背後から掛けられた静かな声に、言葉を失っていた。
「受験が終わるまで、受験生との接触は禁止されてるはずだけど? ……はいり」


 バス停を隣に置いた、小さな喫茶店。
 周囲の田舎っぷりから微妙に浮いた小綺麗なカフェテラスに、彼女はいた。
「昨日の職員会議でも校長から言われたでしょ。忘れたとは言わせないわよ?」
 肩まで伸ばした黒髪を軽く払い、一人の女性がこちらを静かに見つめている。八朔がいた京都でもなかなか見ないほどの美人ではあったが……鋭く見据える黒い瞳は、冷たさと厳しさを併せ持つ、はいりの対極に位置するものだ。
「あはは………やだなぁ。ちゃんと覚えてるって、葵ちゃん」
 へらへらと笑うはいりに、葵の瞳がさらに鋭さを増す。
「だったら何、彼は」
「ええっと……柚の、甥っ子だって」
 しかし。
「………柚の?」
 その言葉に、緊の二文字がぷつりと切れる。
 表情から厳しさが消え、代わりに現れたわずかな驚きが、葵から角の取れた丸い表情を作り出す。
「ごめんなさいねぇ。私がお願いしたんですよ」
 加わる声で、葵の厳しさは根本から崩れ落ちた。
「………先輩」
 葵のテーブルにティーカップとソーサーを置いたのは、長い黒髪の細身の美人。はいりとも葵とも違う、穏やかな空気をまとう女性だ。
 慣れた仕草でカップに砂糖を二つ入れ、スプーンでくるくるとかき混ぜてみせる。
「ホントは私がおばさんに頼まれてたんですけどね。ちょっと、お店の手が離せなくなっちゃったから……最初はローリちゃんに頼んだんだけど、忙しいって断られてね」
「うぅ……先輩の頼みなら、仕方ないか……」
 葵の空気に、既に鋭さはどこにもない。呆れとも諦めともつかぬ表情で、溜息を一つつくだけだ。
 そして、場に完全に取り残されている者が、約一名。
「あの、兎叶さん。こちらの二人は?」
 八朔である。
「うるさいのが葵ちゃんで、こっちの美人が菫先輩。葵ちゃんも華が丘の先生で、先輩はこの喫茶店の副店長さん」
 はいりの物言いも慣れているのだろう。葵ははいりを軽く睨んでみせるが、それだけだ。菫に至っては穏やかに微笑んでいるだけである。
「そうなんですか……お二人とも、柚子おばさんの?」
 出したその名に、二人の美人も小さく首を縦に。
「はいりはどう言ってたかは知らないけど、あなたの叔母さんには良くしてもらってたわ」
「そうね。親友……いや、恩人かしらねぇ」
 はいり達の物言いからするに、葵・はいり・柚子の三人は同い年くらいだろうが、菫だけはどう見ても年長だ。
 その彼女をして、恩人と言わせるなど……。
「…………叔母さん、何やってたんだ」
 四人の関係を知らない八朔からすれば、想像の外の出来事である。
「ま、その辺は機会があれば話してあげるわよ。……今日は、うるさいのがいるからダメっぽいけど」
「なんですってぇ!」
「ほらほら。葵ちゃんも、怒らないの」
「…………はぁ」
 はいりには強く出られる葵も、菫には頭が上がらないらしい。たったひと言のたしなめで、口をつぐんでみせる。
「とりあえず、二人もこっちに上がってらっしゃいな。お茶くらい、ごちそうするわよ?」


続劇

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