鬱蒼と茂るココの森を、少女は走っていた。 兎族の少女の息はとうに上がっていたが、それでも足を緩める気配はない。 それはそうだろう。背後からは幾つもの不穏な気配が近付いてくるのだから。 呑気なココ王国といえど、盗賊くらいいる。犯罪者に墜ちた堕落種のビーワナ……ゴブリンやオーク達もいないわけではない。 後からのそいつらは、その一部。 「助け……て……ッ」 裏街道の深い森だ。いくら叫ぼうとも、助けが来るはずもない。 「どうしたの?」 だが、問う声があった。 「追われて……る……の」 幸いとばかりに少女はその声にすがりかけ。 最後まで言い終わらずに、言葉を失う。 「どう……したの? お嬢ちゃん?」 すがった相手は少女よりもなお若い。いや、幼いとすら言える女の子だったからだ。 「迷子になっちゃったの?」 自らの状況を一瞬忘れ、兎族の少女は女の子にそう問うてしまう。言い終わってから周囲を取り囲む気配に気付き、生来の呑気さを呪った。 「追われてるなら、助けるよ?」 追いかけられるの、イヤだもんね。と女の子は呟き、周囲の一団をぐるりと見回す。 「追っちゃいないよ。ただ、オジサン達とちょっと遊んで、ついでにお金など置いてってくれないかなぁ……ってなぁ」 下卑た笑みに手元の短剣。種族の型すら喪ったゴブリンの行動は、あまりにも分かりやすい。 「それが、追いかけてるって言うんだよ」 女の子のその言葉と共に。 少女は息を飲んだ。 ゴブリンどもも息を飲んだ。 そこに現われた、あまりにも巨大な影の姿に。 Excite NaTS Epilogue『見果てぬ物語の締めくくりに』 1.これが我らの生きる道 「メティシス。エミュが戻るまで、待てない?」 黒髪の少女の問いに、いいえ、と鉄色の娘は首を振った。 「既に他国とのバランスは崩れ始めていますから……。アルド殿下やリヴェーダ様にもそう言われましたし」 白との戦いが済んだ今。獣機という過ぎた力は、この世界に災厄しかもたらさない。 内乱の始まったグルーヴェは当面問題ないだろう。だが、ココに隣接する国はグルーヴェ一国だけではない。非侵略政策のココとはいえ、過ぎた力を手にしたとなれば周囲の国に緊張が走るのも仕方のない事だ。 「幸い、封印は白のあっちゃん……アノニィ様が何とかして下さるという話なので」 故に、全ての獣機は封印し、バランスを元に戻すのが妥当だった。その辺の交渉はシーラやアルドが尽力してくれるというし、政治力のないメティシスでどうにかなる問題でもない。 「エミュが寂しがるわよ」 それに、心配もある。 「また、刻が巡れば逢えるとお伝え下されば」 白い箱船は十万年の後にやって来た。幸い今回は大事にならずに済んだが、この先に箱船がやって来ないという保証はない。 獣機達の戦いは、まだ終わってはいないのだ。 「そう……」 揺るがぬメティシスの意志に、イルシャナは王宮の窓から高い空を見上げるのだった。 ココ中に編み目のように広がる街道を歩きながら、少女も空を見上げた。 相変わらず、ココの空は突き抜けるように青い。かつて自分達がそこから至り、次いで鋼の侵略者や客人がやって来たなど、誰も信じないほどに高く、澄む。 「さて、と」 呟いた少女の腰に下がる短剣には、ココ王国の紋章が控えめに描かれていた。王女直属親衛隊・プリンセスガードの紋章であるそれには、第一姫……いや、今はココ王国女王だが……シーラの意匠が加えられている。 「どっちに行こうかな……」 続く道は二つ。スクメギに至る道と、最近出来た温泉郷に至る道の二つだ。 「温泉かな、やっぱ」 スクメギには先日寄ったが、温泉郷にはまだ行った事がない。そんな安易な理由で、親衛隊の少女は進路を決める。 「ミユマちゃん、いるかなぁ……」 そう呟き、少女は長い道を歩き始めた。 少女が選んだのとは別の道の先。 「クラム・カイン?」 その先の街に一軒だけある酒場兼カフェで、詩人の青年はそう聞き返した。 「はい。ご存じありませんか?」 聞いてきたのは虎族の少女だ。少女のおっとりとした雰囲気からは、その名の主が悪い事をしたようには思えないが……。 「その子、何やったんだい? 食い逃げ?」 そこここに思い当たるフシがあり、青年はそう問うてみる。 「いえ、悪い事じゃなくて……どちらかといえば、食わせる前に逃げたというか……」 「ミユマの村の大恩人なんだよねー」 「はい。そうなんですよ!」 説明しづらいのか言い淀んでいたミユマに、カフェの看板娘からの援護が飛ぶ。 「ちなみに、このスクメギを救った英雄の一人でもある、けどね」 「……あいつが、英雄!?」 それもスクメギの、である。 青年がこの遺跡都市に来たのは、知り合いの詩人からここで起きた騒動の話を聞いたからだ。 好奇心に駆られて来てみれば、肝心の遺跡は確かに崩壊しているし、その上に何だか得体の知れない建物が覆い被さっている。 何かとんでもない事態が起こったのは理解出来たが、具体的に何が起こったのかまでは吟遊詩人の想像力の範疇も越えていた。それこそ、友人から詳細を聞いていなかったのが悔やまれるほどに。 それだけでも十分混乱していたのに、加えてクラムが英雄とくる。 「白猫や黒茨じゃあるまいし、そんなバカな」 共に最近詩人の間で語られるようになった英雄の通り名だ。あちこちを放浪して人助けをする輩らしく、聞く伝承には事欠かなかった。 だが、クラムがそんな英雄達と肩を並べるほどの人物だとは……彼の知るクラムからは、想像もつかない。 「あいつが……って、詩人さん、クラムさんの事ご存じなんですか?」 「うん。小さい頃、少しね」 その一言で適当に濁す。 「へぇ……」 「なら、教えてくれないかな? あいつの事とか、このスクメギで起きた事とか」 いずれにせよ、まずは情報収集だ。幸い店の子もこの虎族の娘も色々知っていそうだし、聞いて損はないだろう。 「じゃあ、まずは私の温泉の話から……」 「……温泉?」 吹き抜けた嫌な予感に、カフェの娘はそそくさと奥へ姿を消すのだった。 「あれ、ミユマちゃん、いないんだ」 上がり込んだ座敷で美しい女性からお茶を受け取りながら、少女はさして残念そうでもなく呟いた。 「うむ。クラム・カインを探しに出ておっての。暫くは居ったが、もう一月半になるか……」 イェド風の短衣をまとった犬族の老人も、受け取ったお茶を口にしながらそう答える。 この寂れた村が湯治場として生まれ変わったのは、今から二ヶ月ほど前の事。まだまだ小さく無名だが、傷によく効く温泉と奇っ怪な資料館は、やがてココの名物の一つとなるだろう。 「そうなんだぁ。残念」 老人の真似をして口に運んだお茶の渋さに、思わず顔をしかめる少女。 「だから、お前が悪いんだって!」 そんな事を話していると、外の方から何やら騒がしい声が聞こえてきた。 「何よ! あたしより、ロゥの方が先に手ェ出したじゃない!」 「……どっちもどっちだろう」 「シェティスも尻触られて剣抜いたよな!」 「そっ! そげな恥ずかしィ事言うんでね!」 少年の声に子供の声、ついでに方言丸だしの少女の声がやって来る。 「……どうやら、お帰りのようですね」 老爺の傍らに腰を下ろしていた美女が、はぁとため息。 あの様子ではまたガラの悪い湯治客と一悶着起こしてきたのだろう。ミユマの好意で世話になっているこの宿も、いい加減追い出される日が近いのかもしれない。 「やれやれ。此方は怪我人だというのにの」 そうは言うものの、老爺の方はさして気にしていない様子でからからと笑って見せた。 |