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1.白き世界の出会い

「そうか。命日……」
 ぼんやりと空を見上げ、男は静かにそう呟いた。
 狼の仮面の奥から見える空の色は、果てしない青。
 見回せば、白亜の白。
 床も階段も角柱も、全てが大理石の白である。はるか西の果てエノクの神殿様式にも似たその地の名は、アークウィパス、という。
「もう十五年目になるか」
 命日を迎えた墓所の位置ははるか北。このグルーヴェ国の隣国、緑豊かなココ王国にある。
 平和を望んだ彼女の眠る場所としては、申し分ないな……と、思う。
「『狼面』! こんな処に居たか」
 狼面と呼ばれた男は、ゆっくりと身を起こした。
「いくら近くに泉が無いとは言え、気を抜き過ぎだ」
 無論その名は本名ではない。グルーヴェ国の傭兵として十年も身を置けば、通り名の一つも与えられるというものだ。男の場合は、常に被っている狼の仮面からその名が付けられていた。
「戦う相手も居ないのに、気など張っていられるか」
 そうぼやきながら身長ほどもある大剣を片手で引き上げ、ひょいと担ぐ。まるで棒きれでも担ぐかのような軽い動作に、呼びに来た同僚はため息をついた。
「なら仕事だ。魔物が出た」
「強いのか、そいつは」
 そう言われた瞬間、男には狼の瞳に光が灯ったように見えた。怠惰に弛緩していた鋼の筋肉にも、今は静かな電光が走り始めている。
「ああ。一般兵じゃ敵わんからってんで、工廠からギリューも出す事になった」
「……成程。面白い」
 ギリューでなければ敵わぬ相手。それならば、相手として申し分ない。
「全く、その性分でなけりゃ、一軍の長くらいにはなれるだろうによ……」
 それだけの人望と技量がありつつ、男がその地位を望まぬ理由。
「指揮を引き受けてくれる、有能な副官がいてくれればな」
 戦うために戦う。
 正しくその目的を果たすため、狼面の巨漢は白亜の神殿を走り出す。


「ここが……アークウィパス」
 銀髪の少女は静かにそう呟き、広がる白い空間を見渡した。
 長い銀の髪と、黒い軍服。見る者が見ればその軍服を模した服が、グルーヴェ王国の誇るギデアス王立士官学校の制服、それも上位クラスの物だと分かるだろう。
 白亜の空間を切り取るように立つ銀髪の少女はただ、一人きり。
 別に一人で来たわけではない。少し進んで角を曲がれば、士官候補生のお坊っちゃんお嬢ちゃんと合流出来るはずだ。
「……ふむ」
 小さく呟き、ゆっくりと同じ制服をまとった生徒達の後を追う。
 合流する気はあまりない。向こうもこんな辺境者に合流して欲しくはないだろう。だから、はぐれない程度の距離を置いて後を追うだけ。
 だから、気が付かなかった。
 角を曲がった先にいる、『敵』の存在に。


「……なっ!」
 それを見た瞬間、少女は自らの目を疑った。
 遺跡の色と同じ白。
 蜘蛛のように歪んだ躯、曲がった肢体、不自然な方向に生える手と脚と。
 表皮に張り付いた、赤いいろ。
「……な…………に……?」
 直感は『魔物』だと叫んだ。
 自らの知識も『魔物』だと示していた。
 こちらに背を向けているそいつに、反射的に剣を抜き、構えを取る。
 辺境出身の少女だから『魔物』は何度となく目にした事があった。それどころか相対し、剣を振るった事さえあった。白い肌に醜い肢体を持つ異形の相手は、強敵ではあるが決して倒せない相手ではない。
 相手はもう何人かの人間を血祭りに上げているのだろう。表皮を染める赤に畏れを抱く事もなく、むしろそれを怒りに変えて、少女は構えを転じる。
 警戒から、攻撃へと。
「たああっ!」
 鎧の強さを持つ表皮を狙ってもダメージは与えられない。非力な少女ならなおのこと。打ち込むなら、柔らかい関節部だ。
 的を狙う弓箭の動きで、少女の長剣は狙い通りの場所に吸い込まれる。
 はずだった。
「!」
 折れた切っ先がくるくると宙を舞い、大理の床に音高く跳ね返る。
「なっ……」
 狙いは正確だったはず。この間合であれば、いくら相手が気取ろうとも反応しきれる位置ではない。
 状況を解析しきる暇もなく、本能的に三歩後退。そのすぐ眼前を白いねじ曲がった一撃が鋭く通り過ぎていくが、当たらぬ間合だ。気にする事もない。
 折れた剣を構え直した処で、相手がゆっくりとこちらに回頭した。
「あ……」
 相手は『魔物』。
 だが、本能はそれを根本から否定した。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
 そいつが耳を貫く怨嗟の叫びを放っていたから。
 血走った瞳が、重なり合ってしまったから。
「あ……ああ……」
 ぶつかる視線を通じ、そいつの狂おしい感情がこちらに流れ込んでくる。
 本来の魔物は眼を持たぬ。その位置には、どこまでも吸い込まれそうな、髑髏の如き全くの空虚が覗いているだけのはず。
「い……いや……っ」
 しかし、目の前のそいつが濁った瞳で示すのは、生々しい狂気。天地逆さまに付いた貌には苦悶に歪む醜怪な表情が刻み込まれている。
 魔物ならば戦える。
 だが、こいつは……。
 柄に伸ばした手が震え、少女の白い肌をじっとりと汗が覆う。
 憎悪。
 憤怒。
 恐怖。
 悲哀。
 ありとあらゆる負の感情が、少女の未熟な心を押し潰していく。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
 二度目の叫びについに戦意が砕け、膝が折れた。
 その場に剣と腰が落ち、生温いものが黒い軍服と大理石の床を濡らしていく。
 仲間はいない。戦う意志も、術もない。
 かしゃかしゃと耳障りな音を立て、白い肌を持つ『何か』が三歩の距離をゆっくりと歩み寄る。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
 振り上げられた白い拳が、戦う術を失った少女に振り下ろされ……。


 受け止められた。
 巨大な刃で。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」
 分厚い鋼鉄の刃に腕の半分までを断ち切られながらも、『魔物』の絶叫は一寸の戦意を失う事もない。
「あ……ああ……っ」
 受け止めているのは正面から。
 疾風のように少女と魔物の間へ割り込んだのは、狼の仮面を被った巨大な影。
「無事か?」
 片手で構えた大剣で『魔物』の重打を平然と受け止め、影は少女に短く問い掛ける。
「あ……ぅ……」
 恐慌状態に陥っている少女にため息を一つ吐き、狼面は正面の白に向けて蹴打一撃。白の異形を力任せにはね飛ばし、十歩の間合を開けさせた。
「ギデアスの学生か、貴公」
「は……ぃ」
 視線が外れ、言葉を取り戻した少女はようやく口を開く。
「その敵……魔物……じゃ……。正面……から」
 あの視線を思い出し、少女は自らの細い体を抱きしめる。世の中のあらゆる絶望で染め上げたような、昏く紅い瞳の色を。
「……ああ」
 だが。
 狼面の男は、その魔物のおぞましい瞳を正面から見据えているではないか。
「リヴェーダ殿の蛇眼に比べれば、何程の物よ」
 誰とも無しにそう呟き、絶叫をまとって走り来る異形に向けて正面から大剣を振りかぶる。その動きには一寸の怖れも、遅滞もない。絶望の瞳に見据えられてなお迷い無き、男の一撃。
 その一撃は白い狂撃をあっさりとはじき返し……。
 さらに強い一撃が、天空より容赦なく下された。


 目の前にあるのは、あまりにも大きな拳だった。
 巨大、どころの騒ぎではない。少女の身長ほどもある握り拳など、常識の範疇を越えている。
 文字通り圧倒的な質量だけで異形を押し潰す、鋼鉄の拳。
「あー。民間人が居たのかぁ」
 あまりの事に呆然としている少女の上から飛んできたのは、どこまでも日常じみた男の声だった。
「……これ、は?」
 上を見上げれば、鋼鉄の拳には先がある。
 鋼の腕があり、その先には鋼の肩鎧。無論、その先は胴鎧や兜に続く。
 要するに二十メートルという途方もない大きさを持った全身鎧なのだ。男はその胴鎧にあたる場所から半身を出し、ひらひらと手など振っている。
「獣機って言ってね。ここで開発中の新兵器なんだけど……」
 そこまで言って、男は眉をひそめた。
「っと、お嬢ちゃん、ギデアスの生徒か。所属と名前は?」
「あ、えっと」
 問われた少女は立ち上がって敬礼しようとするが、腰が抜けていて力が入らない。必死に立ち上がろうと力を入れている少女に、青年将校は穏やかに微笑んだ。
「ああ、座ったままでいいよ。公式の場じゃないから」
「お、王立ギデアス士官学校騎兵科クラスA所属、シェティス・シシル士官候補生であります。アークウィパスへは、見学実習で参りました」
 間の抜けた姿勢でそう答え、とりあえず敬礼だけはしてみせる。
「そっか……これ、軍事機密なんだよなぁ……分かる?」
 もちろんシェティスは男の言う意味を一発で理解した。
 獣機は軍事機密だから、見なかった事にしろ、という意味だ。
「あ、はい」
「じゃ、そういう事で、宜しく」
 それだけ言うと将校は鉄色の獣機の中に姿を消した。
 そして大地を揺らす轟音が鳴り響き、獣機と呼ばれた巨大な甲冑は悠然と天へと舞い上がっていく。


 白と鉄色の並ぶ大広間に、報告という声が響き渡った。
「将軍。暴走した獣機の抹消に成功したそうです。その際……」
「そうか。ご苦労」
 通信兵の報告を遮ったのは、しわがれた男の声。それにジャラジャラと連なる音は、男の長い髭から下げられた数え切れないほどの勲章の鳴らす音だ。
「見学に来ていたギデアスの学生が数名、巻き添えを食らったようですが……」
 魔術を介した通信機構からは、アークウィパス表層に展開した工作兵の報告が伝わって来ていた。暴走した『獣機』は抹消に向かった兵士だけではなく、たまたま見学に来ていた士官候補生達にも襲いかかったのだという。
「で?」
 だが、その陰惨な報告を将軍と呼ばれたトナカイのビーワナはあっさりと一蹴する。
「……いえ、何でもありません」
 そう言い切られては返す言葉もない。
 不満げに口をつぐんだ通信兵を省みる事もなく、トナカイの将軍は鋼の回廊で作業する整備兵達に大声を張り上げた。
「そんな事よりも、残るギリューの発掘を急がせろ。赤い泉もスクメギも、獣機部隊の編成が終わるまで待ってはくれんぞ!」


 獣機の飛翔音が完全に聞こえなくなってから。
 シェティスは座ったままで頭を下げた。
「あり……がとう……ございました」
「ふむ」
 対する男はさして興味もなさそうに、大剣を背に提げていた鞘へと戻している。
「それにしても、あれは何なのです? 通常の魔物では……」
 通常の魔物であればシェティスでも相対出来たはず。だが、先程の魔物は根本的な何かが違っていた。破壊を行うだけではない、あまりに強烈で生々しい『何か』が、少女の戦意を一瞬で焼き尽くしたのだ。
 この巨漢と獣機が来なかったら、一体どうなっていた事か。
「新種の魔物だそうだ。ここは蛇の遺跡だからな」
「そう……なのですか」
 確かにアークウィパスは蛇の一族の遺跡。呪われた彼の一族の遺産であれば、辺境の旧い遺跡とは違う魔物が出て来てもおかしくはない。
 けれど……。
「どうした?」
「あれ……人に、見えました」
 通常の魔物にはあり得ない、瞳や表情を持つ相手。
 それに目の前の魔物の残骸は、獣機に押し潰されたとはいえ普段の魔物よりも随分と小さい。そしてよくよく見れば、奇怪な方向にねじ曲がった手や脚は魔物というより、人間のそれに似すぎてはいないだろうか。
「人である前に『敵』だ」
 だが、そんなシェティスの疑惑を男はほんの一言で断ち切った。
「……強いんですね」
「強くなど無い。上には上が居る」
 かつて共に戦った数人の師の姿を思い出し、答える。
 そうだ。あの人達に追い付くためには、この程度の相手で足踏みをしていてはならないのだ。
 せめて、あの獣機と互角に戦える程度にはならなければ。
「そういう意味じゃ……って、ひゃあっ!」
 そう思いながら少女を片手で抱え上げた所で、悲鳴が来た。
「や、やぁ、じ、自分で、歩けっから!」
「……腰を抜かして小便まで漏らした新兵が何を言う」
 新兵にはよくある事だ。別に珍しいものでもない。
 十年も戦場を流れていれば、こんな場面は数え切れないほどにある。
「やだ……やだぁ……」
 両手を振り回しても、男は蚊ほどにも感じていないようだ。ぐっしょりと濡れた腰を支える太い腕は、一寸も弛む気配がない。
「なら、貴公も強くなるがいい。せめて、俺を振りほどける程度にはな」


続劇
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