穏やかな陽光に、純白のワンピースがふわりと揺れる。 街を見下ろす山の頂。細く長く伸びる木の枝に無造作に腰掛けた女は、ふわ、と小さなあくびをひとつ。 「ブロッサム。菫の具合は?」 そんなリラックスした様子に冷たい視線を注ぐのは、向かいの枝で丸まっている猫に似た生物だった。 似た生物、である。 「……ちゃんと答えろ。回収したの、お前らだろ」 なにせ、猫は人の言葉を喋りはしない。 「ホントは、あんまりこっちに関わっちゃ、いけないんだけどねぇ……」 そんな喋る猫に驚きもせず、冷たい視線を気にする様子さえなく。ブロッサムはもう一つあくびをしてみせると、眠たげな目をこするだけ。 「トウテツ……だっけ? その時の影響も残ってないみたい。怪我の再生と検査が終わったらちゃんと帰すわよ」 かつてトウテツと呼ばれていた少女の無事に、小さな獣は安堵の吐息をひとつ。 「結界の使い方、上手くなってきたじゃない」 「……ほっとけ」 ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべているブロッサムから、視線を逸らす。 その目つきは、先ほどまでとは違う真剣なもの。 「それから、だな」 気配を変えた獣の様子にも、ワンピースの女も表情を変えることはない。けれどその瞳は、獣に負けず真剣なもの。 「鈴をもらって、三人が三人ともすぐに変身、ねぇ。偶然にしては、出来すぎてるか」 ソニアの鈴自体は、訓練を積めば誰でも使える、いわば『道具』だ。……だが逆を言えば、訓練を積んでいない者がソニアに変身するケースはごく希だ。 「資格者は、ローリの世代にはあいつ一人って言ってなかったか?」 もちろん、それだけの適正と才能を持つ者も、中にはいる。はいりの時がそうだったし、ローリも似たようなものだった。 しかしそれが四人続けてとなると、話は別だ。 「ルナーも、菫ちゃんでも半年かかったわよね……」 特にルナーへのフォームチェンジと、モータルの放った地上の煉獄。どちらも使いこなすまでには長い訓練を必要とする、ソニアの高等奥義である。 「それを、ソニアになってたかが半月のガキどもがやってのけた。信じられるか?」 特にはいりは、精霊武装もまともに喚べない半人前。 順序を飛ばすにしても、程がある。 「信じられないけど、やっちゃったんだからそうなんでしょうねぇ」 「……そっちの調査とやらはどうなってんだ。何か見つかったのか?」 ブロッサムは古い資料を調査してくれると言っていた。コスモレムリア数十万年分の資料をさかのぼれば、何か参考になる情報のひとつやふたつはあるに違いない。 「お手上げ。精霊武装が出せないケースは何件かあったけど……当たり前だけど、戦力にならなかったってさ」 はいりは同じ条件でフォームチェンジをし、最前線で戦い、果ては敵の幹部さえ倒して見せた。 どうやら彼女はコスモレムリア数十万年の歴史の中で、前例がない事をしているらしい。 「で、その資格者のコ達は?」 「学校に行ってる。あんだけ戦った後なのにな……大したもんだよ」 〜華が丘1987〜 leg.8 新たなる敵 チャイムと同時に教室に入ってきたのは、大柄な青年だった。 「席に着けー。朝の会、始めるぞー!」 がたがたと一同が席に着く中。黒表紙のクラス名簿を開き、生徒の名前を名簿の上から読み上げ始める。 近原の名前も上げはするが、当然ながら返事はない。 「ローリちゃん、今日もお休みかぁ……」 兎叶の出席番号は近原の次。返事をし終えたはいりは、向こうのローリの席を見る。 主のいない机と椅子は、点呼の続く教室の中、どこか寂しそうにしているように見えた。 「それよりはいり、大丈夫? 昨日、ちゃんと寝られた?」 トウテツとの戦いから一夜明けて。 戦いの事など家族に言えるはずもなく、葵も柚子も疲れの抜けない身体を引きずるようにして学校まで来たのだが……。 「大丈夫だよ。ご飯食べたら、もうぐっすり!」 はいりは暴走するルナーの手綱を押さえ込み、最初から最後までを最前線で戦い抜いたのだ。 そのうえ、トウテツという『人の姿』をした相手をその手で倒しておいて……疲れを残していないはずがない。 「なら、いいけど……」 けれど、そんな親友に出来ることは、こうして余計な心配をかけないことの一つだけ。 人工精霊モータルの魔道書に、大切な友の心を癒す術が載っていればと……葵は心の中で静かに唇を噛む。 「よし。休みは近原だけだな」 点呼が終わり、担任教師がその名簿をぱたんと閉じた、その時だ。 がらがらという粗雑な音は、教室の引き戸が開いた音。 「………すみません。遅刻しました」 そこに立つ小柄な姿に、教室の皆は総じて息を呑む。 「おぅ。病気は大丈夫なのか……?」 どこか周りとの接触を拒もうとする碧い瞳に、ゆらりと巻かれた銀の髪。 制服でさえ気品を見せる、その少女の名は……。 「ローリちゃんっ!」 ローリ・近原といった。 ホームルームが終わり、担任教師が教室を後にした瞬間。 ばたばたと走る音を立てたのは、当然ながら兎叶はいり。 「ローリちゃんっ!」 「…………」 机を弾き飛ばさんとする勢いで駆けよったはいりに、ローリは表情を変えることもなく。 「ちょっとあなた、何とか言ったらどう!?」 教科書とノートを鞄から出し終えると、葵の言葉を受けてようやく顔を上げてみせる。 「……迷惑、かけたわね」 ぽつりと呟くひと言に、はいりが浮かべたのは満面の笑み。 「全然平気だよっ! それより、ローリちゃんが元気になって良かった。家に行っても会えなくて、心配してたんだけど……」 ローリの家には連日お見舞いに行っていたのだが、母親や姉には会えるものの、結局最後までローリ本人には会えなかったのだ。 「感染すと、困るから。悪かったわね」 「ぜーんぜんっ!」 けれどそれも、彼女が来れば全て帳消しだ。 これから、いつでも会いたい時に会えるのだから。 「…………」 笑顔のはいりを傍らに置いたまま。ローリが座ったまま見上げるのは、はいりの側にいる葵の顔。 「な、何よ……」 「あぅ………」 表情の見えないローリの様子に、葵はわずかに身を引いて、柚子は思わず葵の背に隠れてしまう。 「あなたたちも、戦ってくれたみたいね」 ローリの言葉に、二人の少女は思わずその身を固くした。 「………葵ちゃん。そのこと、まだ誰にも話してない、よね?」 柚子の疑問は、葵とはいりの様子を見れば正しいことだとすぐ知れた。 葵はローリが学校に来ることを知らなかったし、はいりに至ってはこの手の隠し事が出来る娘ではない。ローリが学校に来ると知っていれば、みんなに言って回った挙げ句、大騒ぎして家まで迎えにいったはずだ。 「あなた、何で知ってるの?」 もちろんこの瞬間に、葵と柚子の事を説明できるわけがない。 「……その鈴を見れば、分かるわよ」 ローリの視線の先にあるのは、少女たちの腕に填められた細身の腕輪。 はいりはふたつ、葵と柚子は一つずつ。 コスモレムリアの至宝、ソニアの鈴だ。 「普通の人には、見えないようにしてあるんだけど?」 当然ながら、学校にアクセサリを付けてくる事は禁止されている。それをすり抜けるため、それぞれの鈴には葵が魔法を掛けているのだ。 今でもソニアの鈴が見えるのは、術者の葵とはいりと柚子、そしてここにいない結界獣だけのはず。 「ステルス系の魔法なんて、見破る方法はいくらでもあるのよ。……知らない?」 「…………知るわけないでしょ!」 さも当然と言い切ったローリに、葵は思わず険の色。 「葵ちゃん。そんなに疑っちゃ、ローリちゃんに悪いよぅ」 「………」 はいりのフォローに険の色を強める葵の肩を、場の動きを見守っていた柚子は慌てて押さえに回るのだった。 そしてその日の放課後は、あっという間にやって来た。 「でね! 葵ちゃんと柚ちゃんが協力してくれたから、ローリちゃんをさらったトウテツも、何とかやっつけられたんだ!」 見上げんばかりの石段を登りながら、はいりは傍らのローリに身振り手振りで話を語る。 「そう………トウテツを」 それは、朝からずっと続いていた物語。 ローリからソニアの鈴を受け取り、ニャウと出会ってからのはいりの経験の全て。 フォームチェンジのこと。葵がモータルとなったこと。柚にアイゼンの力を分け与えたこと。そしてトウテツの魔獣たちと戦い、ついにはルナーの力を解放してトウテツを倒したこと。 語る話は、さながらヒーロー物の大活躍のように。 「…………」 だが、ニコニコ微笑むはいりの様子に、数歩遅れて眺める葵は険しい顔を崩さない。 「葵ちゃん……」 はいりの語る物語は、三人と一匹の大活躍。 「………聞いてられないわよ。ったく」 物語の中には、一片の苦しみも混じってはいない。 葵と柚を護るため、武器も無いままトウテツの魔獣に立ち向かったこと。 ルナーの力に翻弄されて、痛み、苦しんだこと。 そして、心も体も傷付き疲れ切ったまま、トウテツとの決戦に挑んだこと。 それを、はいりは語らない。 語るのは勝利と努力、そして勇気の物語だけ。 「……はいりらしいって言えば、らしいけどね」 ローリに心配をかけないためだろう。 けれど、はいりが彼女から押しつけられた理不尽な運命を考えれば、恨み言の一つを言ってもバチは当たらないはずだ。 それをしないからこそ、はいりははいりたり得るのだと理解はするが……そのもどかしさに抗う術を、葵は何一つとして持ってはいない。 「やっと着いた!」 やがて石段を登り切り、一行がたどり着いたのは、華が丘八幡宮の本殿だ。 平日の夕方。山の上の神社に、参拝客の姿は見られない。 もちろんそこでかつて何が起きたか、葵たちが忘れるはずもなかった。 「ここが……ニャウの言っていた、封印の地?」 ローリがこの華が丘に転校してきた最大の目的は、これだったのだ。 コスモレムリアの遺した遺産の、再封印。 その封印の矢先、ローリははいりにその役目を託すことになっていた。 「うん。葵ちゃんが、モータルソニアの……何とかって力を使って、華が丘山の再封印をしてくれたんだよ!」 「再封印、ね」 柚子の初陣となった戦いだ。 もちろん、葵も柚子もその時のことを忘れるはずもない。 「そう。あなたが……」 「何よ……」 ちらりとこちらを見やるローリに、葵は警戒の色を丸出しの声。 「いえ。モータルの力を使いこなすなんて、並大抵の事じゃないわ。やるのね、なかなか」 だが、想定外の続いた言葉に、少女の警戒の砦はあっさりと抜かれてしまう。 「あ……当たり前でしょ! あの時ははいりが出来なかったんだから、あたしがやらないと……」 しどろもどろにそこまで言いかけ、石段から上がってきた影に気が付いた。 「あれ? あれは……」 見覚えのある二人組だ。 ポニーテールの快活な美少女と、緩いウェーブの穏やかそうな美女の組み合わせは……。 「ママ……姉さん」 「リーザさんと、リタリナさん……?」 殊にはいりは間違えるはずもない。ローリの母のリーザと、姉のリタリナ。ローリの見舞いに行くたびに必ず合わせていた顔だ。 「あら、ローリ。皆さんも、どうしたの? こんなところで」 「い、いえ、別に……」 リタリナの穏やかな問いに、ローリを除く三人は思わず顔を見合わせた。 「ど、どうするの? おばさま達、きっと魔法のこととか、知らないよ」 そのうえ、彼女たちの通学路は学区ごとにちゃんと決められている。下校時の寄り道は、基本的には禁止なのだ。 「適当に誤魔化すしかないでしょ。社会科見学の下見とか何とか……」 「うぅ……柚ちゃん、パス!」 早々に考えることを放り投げたはいりは、速攻で柚子に回答権を投げて寄越す。 「え、ふぇぇ……っ!? 葵ちゃぁん……」 「そんな、いきなり振られたってどうにもならないわよ!」 だが。 「ママ。この三人が、八幡宮の再封印と、トウテツを倒したんですって」 慌てる三人を尻目に、ローリは平然と問いの答えを口にした。 「え………?」 しかも、真実そのままを。 「ローリ……ちゃん?」 「あら、そうなのね。まだ小さいのに、大したものだわぁ」 そしてリーザも、ローリの言葉に驚くこともなく、ただ感心の声を上げるだけ。 「リーザ……さん?」 ローリの家を毎日見舞っていたはいりも、リーザとリタリナは事情を知らないと思っていた。 葵と柚子は無関係と思われていたにしても……はいりは何度も一人で近原邸を訪れている。ここでその話が通じるということは、その時から既にはいりの事は知っていただろうはずなのに。 「ちょ、ちょっと待ってよ! なんでローリのママまで、トウテツの事とか知ってるの!?」 「不思議ではないでしょう。ね、ローリ」 葵の問いに応じたリーザの声に、ローリは表情の無い顔に、静かに表情を浮かべていた。 「ええ……ママ」 笑みに。 どこか歪みの残る、いびつな笑顔に。 「はいりっ!」 「ひゃっ!?」 瞬間、葵ははいりの身体を突き飛ばす。 「ど、そうしたの、葵ちゃん!」 慌ててたたらを踏んだはいりは、思わず後ろから来た手に声を上げるが。 「はいり! こいつ、はいりの鈴を取ろうとしてた!」 「この人たち……何か、変だよ!」 葵の言葉に柚子もその表情を硬くしたまま。 無論彼女も、はいりの右手に伸びるローリの手を、しっかりと目にしていた。 「あら。変だなんて失礼ね……」 くすぐったそうに笑うリタリナの笑みも、いつもの悪戯っぽい笑顔ではなく、どこか歪んだ、いびつさの残る表情だ。 不安さをかき立てる昏い笑みに、少女たちはその身を思わず寄せ合わせていた。 「さ、はいり。その鈴を、返しなさい」 「え……」 薄い笑みを張り付けたまま。 ローリはその手を静かに伸ばす。 「はいりちゃん……ダメだよ!」 「あ……うん……」 ソニアの鈴は、もともとはローリの物だ。はいりはそれを預かっているだけに過ぎない。 けれど、それを返して良いのは今この時ではないと、柚だけではない。はいりの心の警報も、大きな音で鳴り響く。 「ほらローリ! はやくそのソニアの鈴、取り返しなさいよ!」 リタリナの明るく活発な声は姿を潜め。 代わりに放たれるのは、どこかヒステリックな叫び声。 「仕方ないわね……。いいわ、ローリ」 リーザも穏やかな表情のまま。 昏い炎を瞳に宿し……。 「あの子達を壊して、力ずくで返してもらいましょう」 優しげな声そのままに、壊れた言葉を言い放つ。 「……ええ。ママ」 リーザの言葉にローリはゆっくりと左手を前へ。 それに続くように、リーザとリタリナも左手を前へ。 彼女らの手首、周りの空気を書き換えながら現れたのは……。 「ソニアの……鈴!?」 黒い、鈴。 「言わなかった? ステルスの魔法が使えるのは、あなただけじゃないのよ……?」 ローリは静かにそう言い放ち。 「まあいいわ」 嘲りを込めた苦笑と共に。ローリは左の拳を前に突き出し、手首を支点に軽く一振り。 躙、と響き渡るのは、世界を壊す鈴の音。 「はいりちゃんっ!」 「はいり!」 「あ……う、うん……」 葵と柚子の言葉に打たれ、はいりも右手を前へと伸ばす。 「開放っ!」 凛、と響き渡るのは、世界を揺らす鈴の音。 「ローリ………ちゃん………?」 ブルームの目の前に立つのは、黒い衣装をまとったローリの姿だった。 かつてトウテツがまとっていた結界装甲に近しい意匠を持つそれは……。 「ナンクン」 「はい」 黒いロングドレスをまとうリーザの言葉に、ナンクンと呼ばれたローリはゆっくりと歩き出す。 「キュウキ」 「任せてっ!」 キュウキと呼ばれたリタリナも、黒いミニドレスから大きな翼を展開させて、勢いよく空へと舞い上がる。 「ローリちゃん……」 ローリが向かうのは、赤い戦衣をまとうはいりの処。 「はいり! 考えるのは後っ!」 葵と柚子も、空から迫るリタリナを迎え撃つべく、各々の精霊武装を解き放っている。 柚子は高速の誘導弾。葵はホウキで空を翔け、やはり速度の出る雷撃系の魔法を放つ構えだ。 「う……うん……っ!」 徐々に速さを増し、いつしか走り出していたローリに対して、はいりはひとまず回避の動き。 「………え?」 だが。 足が、重い。 体調が悪いわけではない。ローリが相手で、動揺しているからでもない。むしろローリを相手にして、攻めならともかく、回避に気後れするなどありはしないのに。 「あ、葵ちゃ……っ!」 言いかけ、気付く。 葵の。 柚の。 そしてローリの動き、全てが速い。 否。遅くなっているのだ。 はいり自身が。 「え………っ!?」 スロー再生の世界に取り込まれたはいりの前に。 通常再生のナンクンの拳が、容赦なく叩き込まれる。 「きゃあああああああっ!」 スローで舞う身体、じわりと伝わる打撃の痛みに顔を歪ませるその向こう。リタリナの放つ嵐に吹き飛ばされる葵と柚子の姿が見えて。 ようやく脳に届いた痛みの本震に、はいりの意識はそのまま吹き飛ばされた。 「はいり! はいりっ!」 意識を呼び戻すのは、聞き慣れた勝ち気な声。 「はいりちゃんっ!」 そして、優しい涙声。 「……だ、だいじょうぶ……っ!」 ふらつく視界に身を崩せば、左右からの手が支えてくれる。 正面の三人は、こちらの様子をうかがったまま。 「あいつら……凄く、強い……!」 攻める気がないか、はいりが意識を取り戻すのをわざわざ待ってくれていたのだろう。本気で攻めて来たならば、とうに決着は付いているはずだ。 そうするだけの、そう出来るだけの実力と余裕が、向こうにはある。 「……逃げるわよ」 「逃げられる……かな」 柚子の言葉に、葵は隠しもせずに唇を噛んだ。 ナンクンの時間を遅くする攻撃を受ければ、逃げることは難しい。かといってそれを逃れても、空中からはキュウキが迫り、嵐を放つ。 三人の中で最も速いモータルのホウキさえ、キュウキの翼に手も足も出なかった。それより遅いアイゼンとブルームが逃げ切れる可能性は、ゼロに等しい。 ならば……。 「……逃げるなら、みんな一緒だよ」 「なら、どうしろって……」 逃げ切る事は出来ない。誰かが時間を稼ぐのもダメ。 ならば本当に、切り抜ける策は……。 「そうだ! ルナーを……」 「……ダメだよ」 だがその言葉も、はいりはひと言で止めてみせた。 「はいり!」 相手が親友だから、動揺するのは分かる。 けれど、ここで動揺していては、勝つどころか生き延びることさえ……。 「せめて、ニャウが来ないと……」 「あ………」 言われ、葵は言葉を失った。 ルナーが暴走すれば、戦いに歯止めが効かなくなる。それは即ち、かつて倒した巨大竜と同じ目をローリ達に与える事になるのだ。 結界獣の結界の中なら結界から弾き出されるだけで済む。けれど、それさえない今は……。 「……何やってるのよ、あのバカ猫っ!」 刹那。 「葵ちゃん! はいりちゃんっ!」 柚子の叫びが終わるより早く。視界の向こう、黒いロングドレスの女がゆっくりと手を掲げ。 「きゃあああああああああっ!」 降り注ぐ黒い雷光に、少女たちの絶叫が響き渡る。 崩れ落ちる少女達に、片手を挙げた張本人は、間の抜けた声を上げるだけだった。 「………やりすぎたかしら?」 相手は倒れたまま、ぴくりとも動く気配がない。 本人としては、牽制のつもりで放った一撃だったのだが……。 「なぁんだ……。やっぱり雑魚じゃない。本気出そうとして、損しちゃった」 「死んでしまったものを言わないの。結界の構造も大したことないわねぇ。……キュウキ」 拗ねたようにポニーテールを揺らしているミニドレスの少女に、ロングドレスの美女は手短な命令を与えるだけ。 「はーい」 モータルソニアの機動を凌ぐ漆黒の翼が辺りを包み、大きく強く大気をひと打ち。呪力を含んだ震撃に、辺りの空気は不自然に揺れて。 「ナンクンはあの子達から、鈴を」 「はい」 美女から命じられたローリも、表情一つ変えぬまま、ゆっくりとはいり達の元へと歩き出す。 「キュウキ。もう一撃くらい、欲しいわね」 「分かってるって。なら、もう一発……っ!」 揺れる世界に続いて響く、ガラスの砕けるような高い音は……モータルの封印結界が完全に破られた音。 「これでいい? ママ」 辺りから立ち上り始めた幽かな呪力に、ドレスの美女は満ち足りた笑みを浮かべてみせる。 「十分よ。これで、我らが蚩尤の復活も……」 だが、その感想を言いかけたところで気が付いた。 ソニアの鈴の回収に向かわせたナンクンが、その足を止めていることに。 満身創痍のはいりの前に立つのは、坂の上にある高校の制服だった。 「あなた……は……」 歪む視界。ぼんやりと瞳に映るのは、すらりと伸びる細身の背中。揺れるのは、黒く美しい長い髪。 「はいり……治癒魔法、を……っ!」 動かぬ身体にしがみつく葵に、言葉を寄越すこともなく。はいりはその背中から、視線を逸らせない。 「あなた、は………」 美しく長いその黒髪を、はいりが忘れるはずがない。 忘れられる、はずもない。 「トウ……テツ……?」 激しい戦いを繰り広げた、漆黒の獣使い。 それが、どうしてこんな所に………? 「…………カオスにキュウキ、ナンクンまでいるか……。勢揃いね」 はいりに呼ばれた名が聞こえなかったか、黒髪の少女は正面だけを見据えている。 「借りるわね、これ」 ただひと言だけ呟いて、右手を軽く掲げてみせた。 それがはいりに向けての言葉だと気付くまでに、数秒ほど。 「え……?」 そこでようやく気が付いた。 右手の腕環が、一つ失われていることに。 失われた腕環の石は薄紫。 人工精霊ルナーを宿した、ソニアの鈴だ。 「あなた……それ……」 叫ぶ。 叫ぼうとする。 ルナーは、危ないと。 ルナーの本気を出せば、背中の向こうの親友の命さえ、奪ってしまいかねないと。 「ニャウ!」 けれど細い背中はその名を叫んで。 「………開放!」 世界が結界に切り取られると同時。 世界を揺らす鈴の音が、凜と響き渡った。 |